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第6話

  平成一九年~平成二三年


 平成一九年(2007年)夏。信也はホイッスラーNY本社ビルのフードコートで、研修時代の教官だったサミュエル・コリンズとランチをとっていた。彼はNYに来ると何かと面倒を見てくれるよき先輩だが、プライベートな話は一切せず大概は仕事に関わる情報交換をしたがった。

「サニー。サブプライム・ローンはヤバイことになるぞ」

 このローンはとても優良客(プライム)などとは言えない低所得者層向けに販売された利率の高い商品だったが、アメリカの住宅バブルを背景に売れに売れ証券化されていた。ただこのローンには時限装置が付いていて、一定年数が経つと利子か返済額が跳ね上がる仕掛けになっている。そのため前年あたりから焦げ付きが発生して、世界中に散らばった関連証券の危機が囁かれていた。

「とっくに織り込み済みでしょ。大事にはならないんじゃない?」

 サムはふふんと笑って小声に切り替える。

「いや、そうは思わんね。ブッシュは金融業が嫌いだ。親父が選挙のとき裏切られたからな。リーマンあたりが生贄にされるぞ」

「潰れても救済はしない、と?」

 当時の米国証券業界には、こうした見方は確かにあった。

「来年は大統領選だからな。親の仇ってやつさ。もしそうなりゃ、世界恐慌(1929年)の再来だろう。この間のブラックマンデー(1987年)も軽く凌ぐね。百年に一度のクライシスってわけだ」

 コーヒーを弄びながら信也は(だとしたら…俺は、運がいい)と、目を輝かせた。

 クライシスか。俺はそんな勝負をしてみたかったんだ。なぜかそのとき信也の脳裏に、十数年前の大震災とカルト教事件のニュースが浮かんだ。

 小島は思う。俺たちは組内でも有名な犬猿の仲だったはずだ。それなのに今日も、こいつは俺の事務所に来て世間話をしている。

「逃げたのか?」

 非難がましい目を向けやがる。やはりこいつは俺の天敵だ、と小島は思い直す。

「逃げたわけじゃねえよ。入れたんだよ、自衛隊に」

 関東侠星会系小島組事務所に預けた航平の養女の話だ。

「お前、あれ狂犬だぞ」

 小島の話によると、しつけの第一歩として瑠奈に事務所の便所掃除を言いつけたのだが、そこでひと悶着が起きたようだ。小島は組本部長の養女ということは匿し「変わり者の娘を預かった」とだけ若い者たちに言っておいた。初日に早速そのうちの一人が掃除をする瑠奈に突っかかった。大便所から出るなりズボンをおろし「おい、こっちも掃除しろ」と命じたらしい。瑠奈はおとなしく言われるとおり、その若者の前にかがんだ。

「お、好きだねえ?お前、誰かの借金のカタにとられたヤリマンギャルなんだって?」

 などとからかっていると、瑠奈は足首のホルダーからナイフを抜き取り、その男の性器をスパっと裁ち切った。

「ギャアー」

 のた打ち回る若者の目の前に、血まみれの物を放り投げてこう言ったそうた。

「今日から女役やりな、カマ野郎」

 その話を聞いて航平は唖然とした。もはやあいつに、自分のことをターリーと呼んで頬にキスをした面影は一切ない。

「悪いが、手に余るわ」

 言われて航平はため息をつくしかなかった。今では自衛隊に入って、むしろ今までで最も充実した日々を送っている、と電話で小島に語ったという。

「あんたが匙投げるほどの大物だったかあ。頼もしいこった」


 九月半ば、航平は長期の夏季休暇を取ることにした。会社経営も順調で、長年三日と休んでいなかったからだ。行先はマニラ。とあるギャンブルを愉しむつもりだった。

 成田空港の出発ロビーでは、テレビモニターがこんなニュースを伝えていた。

―さきほどアメリカ大手証券会社のリーマン・ブラザーズが、連邦倒産法の適用を申請し、事実上の経営破綻を宣言しました…。

―これを受けて東京証券市場では、金融機関株を中心に値を下げ、今後の展開に不安が広がっています。

 日本時間で、9月15日午後1時過ぎの報告だった。だが航平は気もそぞろで、その報道を見向きもしなかった。

 マニラ最高級のホテルに着き、一息ついたところで室内電話が鳴った。

「…言っておいたものは揃ってるな。すぐ行く。いや、構わん」

 ホテルの玄関先には、目立たない車が用意されていた。三十分ほど走らせ、すでに廃業となったスクラップ工場の前に止まった。

「大丈夫なんだな?」

 車を降りながら渡辺に聞く。

「はい。言われた通り、所有者から買い取った工場です」

 工場の壁には、くたびれたみすぼらしい男が手錠に繋がれていた。

「野郎、どこにいた?」

「スモーキーマウンテンの貧民街で、クスリまみれでした」

「大和田組にも見離されてたわけか」

 繋がれているのは、長尾一慶だ。そしてもうひとり、航平の手下たちに囲まれている男。

「交通刑務所から出たとこを拉致りました。間違いなく、社長の妹さんを撥ねた奴です」

「人ひとり轢き殺しても、せいぜい懲役数年か。日本の法律が、こういう闇のビジネスを生んでるんだろうな。おい」

 小野寺という刑務所上がりに話しかける。

「この国じゃよ、ひとり殺したくらいじゃ死刑にゃならない。だが、ふたりとなると、話は変わるんだ」

 自分を拉致した暴力団のボスが何を示唆しているのか、小野寺にはわからない。

「おい。トラックを出せ」

 これもすでに用意されていたようだ。小野寺はあのときと同じように大型車の運転席に座らされた。そして、あのときと同じようにエンジンを始動させる。あのときと違うのは、今度はベンツではなく生身の人間だ。

 トラックは猛スピードで発進した。

「やめろ!やめてくれ~」

 急制動する。長尾の目前1メートルもなかった。恐怖のあまり失禁する。

「か、勘弁してください。比嘉さん」

 鼻水を垂らして泣き出す長尾に向かって、航平が歩み寄る。現地で仕入れた拳銃を提げた渡辺らが側に付いている。

「もと大和田組の大幹部さんよ。言いたいことはあるか?」

「もう…ゆるひて…くらさい」

「何だそりゃ。ヤクザなら『俺が死んでも、てめえだけは呪い殺してやる』くらいのこと言えよ」

 失望の表情で、航平は渡辺に命じた。

「俺は夏休みの間、毎晩このショーを見に来る。絶対、こいつらを死なすなよ」

「は、はい」

 航平がマニラで個人的ギャンブルに溺れている間に、世に言うリーマン・ショックが始まった。無論WGIにもパニックが押し寄せた。問い合わせが殺到し、社員たちは対応に追われた。大型モニターはNY市場全面安のグラフ展開が表示されている。

 と、モニターがNYにいるはずの信也の顔に切り替わった。

―来たぞ。百年に一度のチャンスが。

 社員たちが静まり返ってモニターを注視すると、金髪の女秘書にコーヒーを持ってこさせて、デスクで落ち着き払っている信也がそこにいた。

―狙いは金融株、特にメガバンクだ。二割落ちたら拾え!いいな。

 リモートによるアメリカからの投資顧問の指示は、これまでも何度かあった。だが信也はこのとき沖縄県国頭村のとあるホテルの一室にいた。窓の外にはよく茂った緑と小さいながらも山が見える。信也はPCのWEBカメラの前でスタッフに指示を出していた。

「大丈夫、一時的なパニックだ。アメリカ政府はすぐに救済に乗り出す」

 ディスプレイには、右往左往する社員たちの姿が映っている。愉快な光景だ。偽装のためにワンデイ契約された金髪の女秘書はコーヒーを入れただけで仕事が終わったため、奥の寝室で退屈そうにベッドに寝そべっていた。

 翌9月16日、米政府がAIGを救済すると発表したため、世界は一斉に安堵の声を漏らした。モニターのグラフが上がる。

「持ち直しました!」

 社員の一人が信也に連絡すると、またモニターが信也のオフィスに切り替わった。

―見ろ。明日も“買い”だ。

 またしても投資顧問の読みは当たった。社員たちの心には、たまにある一日恐慌に終わるのではないか、という希望的観測が芽吹きはじめていた。

 その後は様子見の気配が世界中を支配したため、一進一退が続いた。だが希望は9月29日に握り潰される。米下院が緊急経済安定化法案を否決したのだ。これで救済はAIGのみ、その他の金融関係各社は資本主義の原則どおり「自分でなんとかしろ」ということになった。

 その日からWGIの社員たちは家にも帰れない徹夜の日々が続いた。東京市場は午後三時に終了しても、そのあとは欧州ロンドン市場、米国NY市場に移る。それら全ての動向を見守らねばならなかった。

―ここからが本番だ。買って買って買いまくれ。

 時折モニターに現れる信也の鼻息だけが荒かった。社員たちが悲鳴を上げる。

「証拠金が追いつきません」

―追い証だ、穂高ローンの金使え。

「武田さん、大丈夫ですか?もう30億以上溶けてますよ」

―つべこべ言わず買え!この能なし野郎ども。

 これまで当たりに当たってきただけに、誰も正面切って異を唱えられなかった。そしてまだ希望的観測も捨て切れずにいた。またこの会社のトップである比嘉航平自身が、沈黙を守っていたからでもあった。

幹部の一人が言った

「さすがにこれ以上は、社長決裁が必要だ。比嘉社長はまだ、連絡とれないのか?」

「社長は長期の夏季休暇をとっています。どうやら、裏の仕事も絡んでるようです」

 秘書室長は申し訳なさそうに答えた。

 昼は最高級ホテルでカジノ、夜はスクラップ工場。マニラ滞在中は、株や為替などの経済情報を一切遮断した。今この時のギャンブルに集中したかったからだ。

 何十回ものストレスで長尾の髪はすっかり抜け落ち、残ったものも白く濁っていた。ほぼ廃人状態で、あいかわらず手錠で壁に繋がれている。

「長尾一慶。もう、死にたいか?」

 もう声を発することすらない。

「首を横に振れよ。俺は、生きる意志のある人間に『死』を実感させたいんだよ」

 長尾の顎を掴んで首を横に振らせる。トラックを駐めた場所では、小野寺を囲む渡辺らが退屈そうに拳銃を弄んでいる。最初の二三日は緊張感があったが、誰もが倦怠感を覚えている。

「あら異常だわ。ま、もともとイカレた人だけどよ。おめえも毎日大変だな」

 渡辺は小野寺に同情するように言った。

「カースタントの仕事でも探すか?」

 すっかり気を抜いている一同が笑う。が、当事者である小野寺の緊張が解けることはなく、思いつめた目をしている。

 突然、声を張り上げた。

「嫌だ!もう、嫌だ!」

 驚く渡辺たちの隙を突くように、手下のひとりから拳銃を奪う。

「ふたり殺したら、どうせ死刑なんだ!」

 拳銃を構え、航平と長尾の元へ走る。

 信也がサーブルで航平を襲ったときと同じ状況になった。慌てる渡辺らをよそに、小野寺は航平の目の前まで迫った。

「もう、嫌だ!」

 だが、銃口が向けられたのは航平ではなかった。パンという乾いた音の後、長尾の胸から血が噴き出した。

「博子。朋美~」

 小野寺は家族の名を叫んだ後、自分のこめかみにも一発撃ち込んだ。

 駆け付けた渡辺たちは、ただただ唖然とする。航平は、一部始終をスローモーションのように鑑賞した。

「このくそ野郎。また、的を間違えやがって‥」

 あのときもそうだ。おまえは陽海ではなく、俺を轢き殺すべきだったんだ。航平の頭には、呪詛しか浮かばなかった。

 携帯電話が鳴る。渡辺の国際通信用だ。

「…え。あ、はい…社長!会社の秘書室長からです」

 言われてもしばらく、航平は未練気に長尾と小野寺の遺体を見ていた。


 ついにNY市場が売り殺到に悲鳴を上げた。9月30日のNYダウは史上最大777ドル安を記録した。その流れを引きずって東京市場も日経平均7千円割れでその年の最高値から半値まで下げた。関係者たちは終了の鐘とともに頭を抱えた。

 WGIの社内も、大震災の直後のように喧騒と悲鳴が渦巻いていた。ただその中をひとりマニラから戻った航平だけが、悟ったような表情で闊歩していった。床に落ちた新聞には『世界株同時大暴落―百年に一度の恐慌!』という大見出しが躍っている。航平は、大モニターに映る破壊神のような男を見上げた。

―買え、買え、買え!ははは…。

 高笑いする信也の顔がモニター画面から消えた。あれはやけくその笑いではない。ことを成就した満足の笑いだと思った。

(上出来じゃねえか)

 お前もこの日を待っていたんだな。航平はうっすらと笑みを浮かべる。

(野郎。やっと本性現しやがったか?)

 武田信也はあの日以来、この俺を恐れていたはずだ。だが、あの日以前は俺を刺そうと目論んでいた男でもある。猫を被っていた可能性もあるし、何かのきっかけで初心に返ったかもしれない。どのみち俺は人間など信じてはいない。結論は出る。裏切り。寝返り。

 いつもの用心深い策略家比嘉航平なら、すぐに立ち上がり最善手を打ったはずだ。例えば裏のスタッフに信也を探させ拉致する。口を封じる。見せしめに奴の人生を止める。

 だが暫く汚していない手が航平を違う方向へ招く。破滅。ああ、それもいいのかもな。

 「106億です」「売ろうにも、もう玉がない…回収不能だ!」そんな声が取引所のあちこちから聞こえてきた。


 数日後荻原組の緊急幹部会が開かれ、航平は組長邸の大広間に通され末席に座らされた。組幹部たち十数名が勢揃いしていた。上座には荻原とその妻の真紀が並んでいる。組長がこの姐さんを会合に列席させるときは儀式のある日だ。彼女は極端なサディストだったからだ。幹部会などではない。見せしめ会だ。

「比嘉。本日をもって貴様を本部長の職から解く。尚、盃についてはしばらく保留だ」

 と、若頭の小島が辞令を述べる。航平は畏まって聞くふりをする。やがて、体格のいい組員ふたりが彼の前に現れた。ひとりは桐の板を、もうひとりはドス(短刀)と木槌を持っている。

「介錯承ります」

「自分でやる」

 関東侠星会では指を詰める時、介錯と称して別の者が木槌で短刀の背を叩いてやる風習があった。航平はそれを拒否したのだ。桐板の上に左拳を置いて小指を突き出す。ドスがしっかり研いであるのを確認すると、航平は気合を入れることも呻くこともなく、淡々と自分の小指を斬って落とした。静寂の中、ことりという音だけが響いた。

 あっという間に儀式は終了し、航平は自分のネクタイをほどいて左手首を縛りつけ冷静に止血処理をした。泣き喚くでも反省や後悔の弁を述べるでもない航平を見て、荻原はふんと鼻を鳴らしてから隣の妻に囁いた。

「おい、テアラ連れて来い。それとマヨネーズ」

「テアラじゃなくてティアラですよ」

 苦笑いしてから真紀は、言われるまま席を立った。

「こっちに持って来い」

 先ほどの組員が、ハンカチでくるんだ指を押し戴くように上座まで運ぶと、真紀が一匹のトイ・プードルを抱いて戻って来た。荻原はマヨネーズを受け取って、白布の上に転がる小指にかけ始めた。

「テアラちゃん、おやつだよ」

 ピンクのリボンを付けた小犬は、塩味と脂分に塗れた人肉を一旦は口にしたものの、生臭さに反応したのかすぐに吐き出した。

「ははは。テアラはグルメだもんな」

 趣味の悪いジョークにつき合わされ、場が一気に凍りつく。指を詰めるときは平然としていた列席の幹部連も、その光景からは目を逸らした。なぜ下手を打ったら、エンコ(小指)を落とすのか?小指は漢(おとこ)の象徴であり、誇りだからだ。それを犬に食わせて笑いものにする。面子を大事にする男たちにとって、これは地獄絵図以外の何物でもなかった。

 荻原が航平をぎろりと睨んで言う。

「比嘉。てめえにゃ、がっかりだ」

 そういえば坊主と呼ぶときは油断させる時、名前で呼ぶときは催促、苗字で呼ぶときは興味を失くしたときだったな。航平は心の中で苦笑した。白け切った組の幹部会は、組長のネガティブな威圧感だけを印象づけて閉会となった。

 邸の門前で、航平は渡辺に声をかけられた。

「社長、武田の居場所がわかりました」

 航平は、左手首に巻いたネクタイを直しながら言う。

「てめえ、殺すぞ」

 やつは端からNYにいるはずだ。こっちの気が立ってるときにくだらねえ報告をするんじゃねえ、と目を剥いた。

「いや、それがアメリカじゃないんです」

 あの日以来、俺は裏切りや寝返りに敏感だ。この野郎もしている、と確信しながら渡辺に耳を貸す。

「うちで銭借りてるやつが携帯電話の会社に勤めてて、なんか発信元がずっと、沖縄の国頭村ってとこみてえなんです」

 低能の渡辺には似つかわしくない、まことしやかな根拠まで言ってきた。間違いなく誰かに使われている。

「…国頭?やんばるだと?」

「あのう、確か社長も…」

 誰か、の意図を感じ取る。

(あの野郎、やっぱ俺に用があるわけか)

 うっすらと笑みがこぼれる。このところ俺はよく笑うな、と思った。

 数日後航平はジープを仕入れ、晴海埠頭から那覇港行きのカー・フェリーに乗った。幹部会以来、自分が監視されていることには気づいていた。案の定、自分の部下だった渡辺がそのことを確認して携帯電話で一報を入れる。

―ええ。明日の午後そちらに到着する船です。武田さん、俺らも別便でそちらに向かいますんで。

 信也はまだ国頭村リゾート・ホテルにいた。

「それには及ばない。たぶんこっちだけで話はつくと思うから。ああ。荻原組長にも話は通してある」

 通話を切ってから信也は考えた。何故フェリーなのか、と。

(飛行機に持ち込めない、物騒な手荷物でもあるのかな?)

 信也もまた楽しそうに笑った。

 沖縄やんばるの道を通るのは何十年ぶりだろうか。包帯を巻いた左手でギヤを入れ、さとうきび畑の間道を走りながら思いを巡らす。後部座席にはロッド・ケースが積まれている。信也が推測する物騒なものが入っていた。

 途中キリスト教の教会の側を通りがかったとき、高校時代の血の匂いがよみがえった。

 ―修道院の会堂だった。油と埃で黒ずんだ床の上に、アメリカ人牧師ふたりが倒れている。それを見下ろす航平の手には、血まみれの木刀が握られている。航平は息を整えてから

「お前らが懺悔しろよ!」

 と吐き出した。懺悔室ではまだ中学生になったばかりの陽海が、乱れたセーラー服を着直している。

 航平は会堂を出てから、「グレゴリー養護施設」という看板を木刀で叩き割った。俺たちは養護なんかされてない。飼われていただけだ。航平たち数十名の孤児のうち少年はここで強制労働をさせられ、少女は陽海のように外国人牧師や従業員たちの玩具にされていた。日本の警察に訴えても治外法権だかなんだかで、調べようともしなかった。木刀を叢に投げ捨てあてもなく歩き出すと、うしろから陽海が追いかけて来た。

「ニイニイ!待って、わんも」

 追いついた少女が、航平の手をしっかりと握った。航平は同じく行き場をなくした陽海の手を強く握り返す。

「どこへ行くば?」

 決めてなかった。だが、咄嗟に浮かんだ場所がある。

「東京だ」

「東京行ったら…わんら変わる?」

 わからない。だが、変えるしかないだろう。

「これ以上悪くはならねえよ」

 ふたりの横を、米軍のジープが走り去って行った―。

 港から幹線道路58号線を二時間ほど北へ走ると、山あいの風景に変わった。携帯電話の発信エリアはこのあたりだ。航平は路肩に車を停めて、双眼鏡を覗いてみた。鬱蒼とした森の中に渓谷があり、吊り橋が架かっている。

 後方から米軍のトラックがジープの脇を走り抜けかけた。さっきの回想に合わせたような光景に航平は苦笑した。デジャブってやつか?それともタイムスリップか?

 と、トラックが停まり荷台から海兵隊の服を着た男たちが飛び出してきた。ひとりは小銃を手にしている。金で雇われた米兵、あるいは軍属だろう。航平は冷静に分析し、後部座席の日本刀に手を伸ばした。だが後ろを振り返った刹那、そのひとりが走り込んで「Damn it」と叫びながら銃座で航平の後頭部を殴りつけた。

 やはり日本人に雇われたネイビーか。思いやり予算で好き勝手に極東の楽園を満喫しているおめえららしいわ。意識が飛ぶまで航平は毒づいてみせた。



 つづく



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