昭和六十二年~平成五年
昭和六二年(1987年)に遡る。二二歳の比嘉航平は都内の某信用金庫の面接を受けた。
「簿記二級と、ほう、外務員二種の資格も持っているんですね」
「はい。働きながら取りました」
「ほう。努力家ですね」
「ありがとうございます」
しかし隣の管理職らしい面接官は、航平には何も質問すらせず履歴書をただじっと見ていた。
その夜居酒屋のホールのバイトをしている航平は、偶然にもこのときの面接官ふたりと遭遇した。割烹着に白帽姿の航平には全く気づく気配はなかった。座敷席の食器を下げにきたとき、ふたりの会話を背中越しに聞いた。
「今日の子は、即戦力だと思うんですがねえ。外務員は常に人手不足ですし」
「しかしね、彼は保証人がいないからなあ。夜間大学だし、オキナワだろ?」
「…まあ」
「信金だよ、われわれは。身元のしっかりしていない者は入れるべきではない」
アメリカから返還されて一五年経っていた当時でもまだ、沖縄出身者はどこか得体が知れないと思う者も少なくなかった。さらに彼は養護施設で育てられた孤児でもあった。その事実は変えられないのだから、航平が望む金融機関への就職は到底不可能と認識せざるを得なかった。
粗末な木造アパートに帰って来た航平が電気を点けると、一五歳の陽海が布団にくるまって寝ていた。
「どうした。風邪でもひいたか?」
陽海は布団から出ようともせず、聞き返した。
「仕事、どうだった?」
「…お前は?」
「本番アリなら、雇ってやるって」
何も答えない航平に、陽海は布団から顔を出し
「やめろ、って言わないんサ?」
と、非難の目を向けた。
「ワンはまだ十五だよ。人並みに高校も生きたいサ!恋だってしてみたいサ…」
少女なら誰しも思うだろう。だが今夜は、妹の願望など聞いてやれる余裕はなかった。
「選べる人種でも、選ばれる人種でもねえんだよ。俺たちは」
そう言い切る兄に対してか無力な自分に対してなのか、陽海の目から悔し涙が溢れ出た。
「…やるよ」
本番アリでもやらざるを得ない、覚悟したと言っている。
「そのかわり…」
陽海はじっと航平を見て手を握った。
翌日、航平は風俗店の前でタバコをふかしながら佇んでいた。店の中から当時まだ四十代前半の荻原が出て来た。風俗店のオーナーだから筋者のはずだが、身なりは中小企業の社長くらいにしか見えない。航平は意を決してジャンパーの懐から文化包丁を取り出した。ゆっくりと荻原に向かって歩いて行き、背後から喉元に包丁を突き立てた。
「おっさん、じっとしてろ」
だが荻原は、つゆほども動揺する素振りは見せなかった。
「今どき追いはぎかい?」
「あんた、ここで女を買っただろ?」
「買った、と言ったら?」
「俺の妹だ。落とし前をつけてもらう」
ドスを利かせたつもりだったが、軽く流された。
「なんだ、美人局か。悪い店だな、経営者の顔が見てみてえな」
顔は見えないが、苦笑いでも浮かべているか。と、そのときまだ二十代の小島が、荻原と航平の前に現れた。
「すみません、おやっさん。ちょっと便所行ってて…」
小島は一瞬躊躇したが、すぐに事態を把握した。
「おや、こんな顔かい」
その言葉が合図だったのか荻原がするりと包丁をかわしたあと、小島の鉄拳が航平の顔面に飛んで行った。
気がつくと荻原組の事務所に手足を縛られ、床に寝転がされていた。小島が憎々しげに航平を見下ろしている。壁の掛け軸には「侠」の一文字。それを背負うようにソファに座る荻原は、むしろ楽しげにニコニコと航平を見ていた。ようやく目覚めて
「…くそ。倍にして返してやる!」
と言ったそばから、小島に木刀で打ち据えられた。呻きながらも小島を睨みつける航平に、組長が言った。
「坊主。おめえ、おもしれえな。それに妹思いだ」
「陽海は?」
「安心しろ、追い返したぜ。なんだ、まだ十五だってえじゃねえか」
荻原は立ち上がり、小島を睨む。
「すいません。本人は十八って言ってたもんで」
荻原は電光石火にガラス製の灰皿を取り、小島の頭を殴りつけた。
「このくそ馬鹿野郎。外道の真似しやがって。銭になりゃ何やってもいいわけじゃねえぞ!」
二度三度と殴られ、小島は出血する頭を抱え蹲った。
「すみません。すみません!」
強面の大男が怯えきっている姿は、航平の脳裏に刷り込まれた。荻原はころりと笑顔になり
「坊主、悪かったな。どうだ、飯でも食わねえか?」
と、航平に優しく語りかけた。
荻原の行きつけの中華料理店で、それまで食べたことのない北京ダッグやらフカヒレを馳走された。そのあと航平は賭場に連れて行かれる。そこは「盆」と呼ばれる昔ながらの遊戯場で、最もシンプルな賭け事「丁半博打」が開帳されていた。薄明りに汗の沁み込んだ畳と博打うちたちが醸す独特の臭いが漂っていた。航平は場を臨む休憩所に待機して、荻原から手ほどきを受けた。
「坊主、いいか。丁半博打はな、賽の目に賭けちゃあ駄目なんだ。人に賭けるんだ」
意外な指南だった。素人の目から鱗を剥ぐような玄人目線。
「…つまり、勝ち馬に乗っかる、ってことですか?」
「察しがいいな。どの盆にも大きく浮いてる奴がひとりくれえはいるもんだ。そいつが、今日の勝ち馬だ」
早速探してみる。
「一番右端の銀縁メガネが二百ほど浮いてます」
そのメガネの弦には金の装飾、時計はロレックス、仕立てられたダブルのスーツ。荻原が、そのやや筋者風のなりをした男の手もとを観察する。
「うん、悪くない」
荻原は休憩室を出て空いてる場に座った。航平もうしろにつく。
「まあ、見てな」
中盆と呼ばれる進行役が「ご一同様、壺入ります」と宣言してから壺振りを目で促す。
「はい。壺被ります」
賽が壺に放り込まれ、盆茣蓙に伏せられた。三度の押し引き。
「どっちもどっち」
賭けが募られ、総和が偶数の丁方、奇数の半方に分かれた。壺振りの向かいにコマと呼ばれるチップ代わりの木札が積まれる。半方に偏った。
「丁方ないか、ないか丁方」
中盆が客を見回す。
「丁」
メガネの男は、勢いよく札束を壺振りの手前に差し出した。ここではコマだけでなく、現金を賭けてもよいことになっている。荻原はそれを見届けてから、自分もコマを二枚「丁」に張った。
「出揃いました」
「勝負!」
中盆の声が賭場に響き、壺が開く。「四」と「四」、シゾロ。やはり丁の目だった。寺銭と呼ばれる場代一割を除いたコマがメガネと荻原のもとに振り分けられる。荻原は「な」と、航平にウィンクしてみせた。
その日は下見だけだと言って、荻原は航平をおでん屋台に連れて行った。航平はおでんを肴にしきりに感心した。
「驚きました。必勝法ってあるもんなんですね」
この親分さんから、もっと聞き出したいと思った。
「明日はどうなると思う?」
「確証はないけど、メガネの逆張りはどうっすかね?」
「なんで、そう思う?」
「奴は今夜勝ち過ぎました。明日は胴元が回収を仕掛ける」
「うん、察しがいいな。常連客の中にゃ、今日俺が尻馬に乗らせてもらったことに気づいた者もいるだろう。胴元が奴を好き勝手にさせとくとは思えねえ。俺らヤクザは、こいつと的を決めたら絶対に逃さねえからよ」
単純な疑問が浮かぶ。
「出目って、操作できるんですか?」
「わけねえよ。壺振りは、その出来で選ばれるんだ。老舗の賭場で振るような名人は、目を皿にしたって誰も見抜けねえがな」
荻原は小切手を航平に渡した。額面に『五百萬円』と書かれたものが二枚である。
「明日一枚だけ現金に換えて、ここに来い」
試してみろ、と目が誘う。
「でも、あのメガネ来ますかね?」
「あの男は裏の金融関係だ。何百枚ものピン札を慣れた手つきで数えてたろ。あのなりで銀行員なわけはねえからな」
観察眼にも感銘する。この人の言うことは信じていいだろう。
「じゃあ味をしめて、今日以上に張ってきますね」
荻原はまるで息子にするように、航平の頬をつねって言った。
「勝負してみろよ、坊主」
翌日、航平は就職活動用のスーツを着て言われた通りに賭場に入った。昼間銀行で換金した現金の束をいじり回した。今まで手にしたことのない金額だ。無料で出されるビールを飲みながら休憩室で待った。冷感が少し緊張をほぐしてくれる。
二時間ほどで昨日のメガネが現れ、航平の勝負が始まった。が、一時間ももたなかった。最後にメガネが「丁」に五十万ほど賭けた。
「半で」
航平は、壺振りの向かいにコマを置いた。
「出揃いました」
壺振りが開くと、丁の目だった。ため息があちこちで漏れる。航平のコマも引き揚げられる。チラとメガネを見る。もう八回目だった。今日も奴は勝ち続けるのか?
(今日は、奴の逆を張ればいいんじゃないのか?)
用意した五百万円分のコマがなくなりつつある。
「失礼します」
もう夜だ。銀行は閉まっている。どうすればいい?航平は立ち上がって、帳場に向かった。残った額面五百万円の小切手を出して頼んでみた。
「これでコマをお願いします」
胴元の男が、小切手の発行元をチェックする。
「荻原さんとこのだな。悪いが確かめさせてもらうぜ」
胴元は小切手を持って奥の事務室に消えた。どこかに電話をかけたらしく、ものの二分ほどで帳場に戻ってきた。胴元は「あんちゃん、熱くなるなよ。明日にした方がいいんじゃねえか?」とコマを渡しながら言ったが、航平の耳には届いていなかった。
戻った航平は「人に賭ける」以外にも教えてもらったことが他になかったか思い出していた。そう確か荻原はこうも言っていた。壺振りは自在に丁半振り分けられる、出目は操作できると。壺振りを盗み見る。だがその片鱗すら航平には掴めない。
「壺、被ります」
壺が振られ、三度の押し引き。あの親分さんは、こうも言ったはずだ。
―俺らヤクザは、こいつと的を決めたら絶対に逃さねえ。
銀縁メガネが手元の札束を、両手で抱え上げるのが見える。
「さ、どっちもどっち」
「半に全部」
メガネが下手にどさりと置いたので、おお、と歓声が上がった。航平も憑かれたように、コマの全てを張っていた。
「丁!」
自分がいま何をしたのか、わからなくなっていた。壺が上がる。「四」と「一」。ヨイチの半。
(的は、俺なのか?)
すべてを悟り、航平の首筋からは大量の汗が流れた。
陽海は荻原が経営する風俗店の個室のバスルームで化粧を直していた。鏡には、電話で話す荻原が映っている。
「…そうか、五百溶けたか…いや、続けさせてくれ。いいんだ、若い者に勝負をさせてやりたいんだ。まあ、人材への投資ってやつだな」
電話を切ったのを見届けてから言った。
「組長さん、ニイニイを信じてくれているんですね?ありがとうございます」
だが荻原は、何も言わずワイシャツを脱ぎ始めた。肌着は着けておらず、すぐに不動明王の刺青が入った背中が現れた。これほどの刺青を至近距離に見るのは初めてで、陽海の目は釘付けになった。
「俺はお前さんの兄貴に刃物で脅されて、仕方なく一千万渡しただけだぜ」
「え?」
鏡の中の荻原が近づいて来た。両手首を掴み、陽海を鏡に向かせ両手を鏡面につかせる。
「…い、や」
ようやく声が出たが、すぐにワンピースのファスナーが引き裂かれる。陽海の細く白い背中が現れる。
「さびしい背中だな。お嬢ちゃん」
ごつごつした手で背中を撫で回す。
「どうだ、墨でも入れてみねえか?」
そう言って、屹立したものを挿入した。鏡の中の陽海の顔が歪んだ。
茫然自失の航平がゆうべのおでん屋台の前を通りがかると、小島が声をかけてきた。長椅子に座って焼酎を飲んでいる。
「よお、お疲れ」
「あんた、なんで?」
明らかに待ち伏せだろう。航平は嫌な予感しかしない。
「大負けしたらしいな。ま、座れよ」
言われるがままに隣に座ると、コップを持たされビールを注がれた。
「それにしても一晩で一千万かァ。一生に一度の快感だろうな。羨ましいぜ」
随分上機嫌だ。辟易するほどに。
「でもオヤジは、きちんと返済すりゃあ示談にしてやるってよ」
「返済?示談?」
この男は何を言っている?小島が懐から一枚の紙を取り出した。盗難届けだった。
「こないだ刃物を持って、うちの事務所にタタキに入った奴がいてな。信じられるか?」
それが俺だ、ということになっているのか?
「ヤクザの事務所に、だぜ」
陽海はベッドにうつ伏したまま、不動明王に白いワイシャツがかけられるのをなぜか惜しいと思い見つめた。
「初めてじゃねえな?」
数日前に踏ん切りををつけるため兄とした儀式を思い出す。
「兄貴とやってるのか?」
何もかも見透かしているんだぞ、という言い方に陽海は反感を覚えキッと荻原を睨んだ。
「血が繋がってるのかどうかは知らんが、避妊だけはしろよ。ろくなことにならねえぞ」
男は財布から一万円札を三枚取り出し枕元に置いた。これが今の私の値段なのか。だがこれだけ稼ぐには、ハンバーガーショップで一体何日働かなければならないだろう?
「期待してるぜ。陽海ちゃんにも、航平にもな」
期待…言われたことのない言葉だった。
屋台では小島が航平に釘を刺していた。
「朝七時までに便所を掃除しとけ。明日から毎日だ」
それから一万円札を置いて「おやじ。今日は好きなだけ飲ませてやってくれ」と、言い残して去っていった。
突き出される前に警察に自首するか、今夜のうちに陽海と東京を脱け出すか。いや、この二択はない。自首する前に、逃げ出す前に俺か陽海のどちらかは拉致される。拉致で済むかどうかも怪しい。朝七時前に便所掃除をする。永遠に…。注がれたビールはもう気が抜けていた。悔し涙が溢れた。
小渕官房長官が新年号「平成」を発表した頃、航平はビニ本を売りさばいて生計を立てていた。恋人たちがスキー場で愛を語っていた頃、陽海はソープランドで働いていた。
空前のグルメブームで有名店の行列ができていたが、航平はカップラーメンをすすりながら、ラジオで競馬中継を聞きノミ屋稼業に精を出した。背中に刺青を入れながら、陽海はトレンディドラマを観た。美男美女のキスシーンの後、彫り師の凌辱を受けた。ジュリアナ東京では、ワンレン・ボディコンが蝶のように舞い踊っているというのに。
やがて航平にも金になる仕事が回ってくるようになった。専有屋のプレハブ住宅を、ブルドーザーで破壊していった。某企業の総務部に乗り込んで、自分の手の甲にドスを突き立てたこともあった。企業は一流であればあるほど、暴力に弱いことを知った。
闇社会の一員となって五年、航平はあいかわらず安アパートに住んだ。エアコンも付けようと思えば付けられたが、故郷の沖縄の暑さに比べれば必要ないと思えた。隣には汗ばんだ陽海が並んで寝ている。包帯を巻いた手で、陽海の背中の観音菩薩を撫で回してみた。
「それ、評判いいんだよ。ゾクゾクするんだって」
と、背中を向けたまま言った。
「変態は、どこにでもいるからな」
「うん。なんか、一流企業のお偉いさんが集まってる、変なクラブに呼ばれた」
陽海はタバコに火をつけて、航平に渡してやる。
(使えるな)
いろんな絵図面が浮かび、考え始めようとしたとき言われた。
「ニイニイ。使えるな、とか思ったでしょ?」
航平は少しむせて
「今度そいつらの素性、探っとけ」
と言って、背中を向けた。陽海の恨めしい目は見たくなかった。
「マチ金をやらせてもらうことになった。開業資金を捻り出す」
「…」
「もう少し。もう少しだからよ…」
陽海は航平の傷ついた手を握った。
「わかった。わかったから、もう危険なマネしないでね」
泣きそうな声で言うので航平が思わず振り返ると、そこには菩薩のように微笑む妹がいた。
それから二十年近くが経っていた。航平はデザイナー設計のひろびろとしたリビングにぽつんと独りいて、陽海の遺影を見ながらゴルフクラブを磨いている。
(確かにもう、危険なマネをすることはなくなったぜ。金なんざ、右から左に流れてきやがる。だがな…)
長い間、航平は陽海の顔を見据えた。
「これほどくだらねえ生活も…ねえ!」
クラブでサイドボードを叩き壊したのを皮切りに、次々と家具を叩き壊していった。
つづく