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第3話

平成九年~平成一二年


 東京地検特捜部が東西銀行を家宅捜索してから、しばらく新聞紙面は関連ニュースで賑わった。『東西銀行頭取以下24名そろって退陣』『供出額125億円!時効前にも300億超―裏には大和田組フロント企業社長N氏の存在』等々。

 長尾が会長を務める経世研究会に捜査の手が伸びたのは、信也が東京地検に出頭したひと月ほど後だった。普段は物静かなインテリ風の長尾だが、連行されていくシーンだけはふてぶてしく居直った表情に見えた。それは報道各社がそういう瞬間を切り取ったためだろう。企業舎弟とは見るからに悪でなければいけないのだ。『特捜部、大和田組も視野』の記事はさらにそのひと月後だった。スクープゲッターの某週刊誌は『捜査の決め手は武田メモ』として、武田宗太郎と女の情事の現場写真まで掲載した。『これが経済ヤクザの手口だ!』と、大衆受けを狙う見出しで美人局という死語をよみがえらせた。

 東京郊外にある精神神経科専門の私立病院に、信也の母親が入院した。週刊誌ショックで心を病んだのだ。

 病室には屈強そうな男性看護士に付き添われた車椅子の皆子がいた。息子が入ってくると「ああ、ああ」とうめき声を上げて涙を流した。だがすぐに彼女は「あなた」と言い、信也は言葉を失った。

「やっぱり、やっぱりあなたは生きてた。信也なら大丈夫よ。あの子はすやすや寝てるわ。今日は運動会だったから疲れたのね」

 自分を夫だと誤認している。見ると母の目は濁り、心なしか吐く息すら臭いと感じた。そして、この人の面倒を見ていかなければならないのか、と信也は一気に憂鬱になった。相手もそれを感じとったのかもしれない。皆子の表情が急にこわばった。

「違う。違う、あんた武田じゃないわね!」

 徐に信也の首を掴んで締め始める。

「長尾!あんた長尾ね。私の夫を、私の生活を返しなさい!」

 看護士が皆子を取り押さえ首に鎮静剤を打ってからも、信也の憂鬱は増幅する一方だった。航平が運転する車の中でも黙り込んだままだった。

「まあ、ショックだわな。罠とはいえ、旦那のあんな写真が日本中に出回ったんだからな」

 言われて信也は首をさすった。母の手の感触が残っている。本当に殺されかねなかった、というえも言われぬ恐怖が今になって浮かび上がってきた。

「お袋さんのことは俺が面倒見てやる。お前はアメリカできっちり勉強しろ」

 こっちの気も知らぬ航平が恩着せがましく説く。右も左も鬱陶しい人間だらけだ、と信也は顔を伏せた。

「言ったろ?家族同然って。俺はな…」

 航平の言葉が耳をすり抜けていく。言われるまでもない。面倒なのはゴメンだ、とっととNYに行こう、と信也は決心した。

 次の週から「世田谷土地開発」に対する小島の攻撃が始まった。店内には客に応対する日常の光景が広がっていた。が、玄関先に街宣車が乗りつけてからは一変する。迷彩の軍服を着た男がマイクをオンにする。

「我々は、旭日烈風隊世田谷支部です~ご通行中の皆様~加えて世田谷土地開発に~ご来店のお客様」

 その伸びる声に、店内の客や社員たちが一斉に振り向く。

「この会社が~巷間、噂の経世研究会の~関連企業であることは~ご承知でしょうか?」

 店内に動揺が走る。世田谷土地開発は土地転がしに不良債権の差し押さえ、そんな業務を裏の日常とする不動産屋だったからだ。

 同時刻「スマイル」というローン会社に対しても、街宣車によるアジ攻撃が繰り広げられた。「あなたのスマイルがわが社のスマイル」と、アイドルを起用したテレビCMを打つ消費者金融から笑顔が消えた。

「この会社こそは~広域暴力団大和田組の資金源なのであります。すなわち~ここで、お金を借りることはあ~生き血を吸われる!ということなのであります。女性は~特殊浴場に~売り飛ばされる!ということなのであります」

 言葉を信じたというよりは、関わり合いになりたくないATMの利用客たちが顔をしかめて離れていく。小島はその様子を喫茶店のテラスから確認していた。

(こんな古くせえ手は何年ぶりだかな)

 いや昔より今の方が効果はあるはずだ、という確信もあった。社会はよりナイーブで脆弱になっているからだ。金融会社の二階ではサラ金の社員たちが手を止めて、外から飛び込んでくる拡声器の声に耳をすましていた。

「我々は~社会正義のために~暴力団の~報復を恐れることなく~ここに立ち上がった~愛国の士!なのであります」

 この会社は不動産屋など他のフロント企業に比べて、より濃い目のブラック企業だった。課長らしき男が電話で指示を仰いでいる相手は、大和田組本部にいる幹部だ。

「はい。はい、わかりました。そのように」

 営業課長は電話を切って

「絶対に手を出すな!無視して、通常業務に専念しろ」

 と一喝したが、社員たちは窓の外が気になってしょうがない。

「社員の皆さんも~転職をお考えになってはいかがでしょうか?」

 自重を求めた課長の方が無視できなくなった。

「おい、おまえら。転職でもなんでもしていいぜ。ただ、本当に怖いのはどっちか、わかってんだろうな!」

 さらに引き締めるつもりのセリフは萎縮しか産まなかった。ビリビリした雰囲気の中、「お母さんが泣いてますよ~」というのんきな声が社内に流れてきた。

 都内で比較的穏健な抗争が繰り広げられていた半年ほどの間、航平は温泉旅館に滞在した。『膿を出す!特捜部政界にも言及―前政権大臣級の関連示唆』『橋本内閣支持率73% 参院選へ手ごたえ』などといった見出しが躍る週刊誌も冷静に読んだ。

(へえ。政治家ってのは何でも票に替えるもんだな)

 と、感心したものだ。だがそろそろわかりやすい事件でも起きてくれるといいが。そう航平が思っていた矢先に、ターゲットのひとつ「帝都証券」でこんな事件が起きた。店頭にレインコートを着た不審な男が入ってきて「店長!店長はいるか?」と騒ぎ始めたのだ。何かが起こる、そこにいた全ての者が予感した。

「俺はな、お前らに騙されて、東西銀行の株買わされてなあ」

 男はコートの内から火炎瓶を取り出した。

「破産しちまったんだ!」

 火をつけられた凶器数本が事務所内に投げ込まれた。あちこちで火の手が上がり、店内がパニックに陥る。男は興奮状態で踊り始めたのだという。

「燃えろ燃えろ~」

 現場にいた客のひとりは、火よりも男の陶酔した表情の方が恐ろしかったとのちに語った。やがていかついグレーゾーンの社員が、消火器で男の頭を殴って倒した。この事件はテレビでも大々的に報じられて、航平はすぐに小島に電話を入れた。それを受けた小島は組事務所を出るところだった。

「違う違う。あんなド派手なこと俺がやらせるわけねえだろ。こっちはこっちで、おまえの仕込みかと勘ぐってたんだぜ」

 そう小島が弁解していた頃、本人と彼の取り巻きは気づいていなかったが、大和田組の刺客ふたりが電柱の陰から見張っていた。

「ああ。暴対法の手前、目立つことは厳禁だと若いモンにも口酸っぱく言って…」

 ふたりの刺客が電柱から飛び出し

「大和田組なめんなや!」

 と、ポケットから何かを取り出した。

「おやっさん!」

 小島が伏せ、組員たちがかばう。と、刺客たちは道端で拾ったであろう石を投げるだけ投げて一目散に逃げて行った。小島たちがあっけにとられていると、放り出された携帯電話から航平の声がした。

―おい、頭!どうした、なんかあったのか?おい!

 小島は立ち上がって、電話をとった。

「へえ、おまえに心配されるとはな。何でもねえよ、ああ」

 通話を終えた小島は、深いため息をついてひとりごちた。

「素人が火炎瓶で、ヤクザが石ころかよ。暴対法さまさまだな」

 それから石を拾い上げ、「警官立ち寄り区域」と書かれた看板に投げつけた。

 マスコミで一躍闇経済の象徴とされた長尾は、東京拘置所の面会室で顧問弁護士と話した。すでに年は替わって平成十年(1998年)である。拘置されてから半年以上が経っていた。仮釈放の許可は降りなかった。証人となりうる人物との接触を断つと同時に、彼らの安全を確保するためだ。つまり航平の用心は杞憂で、信也はアメリカまで行く必要はなかったとも言えるのだが。

「結局、俺はとかげの尻尾だったってわけか」

 自嘲気味に言う長尾を弁護士が宥める。

「まあ、そう言うなよ。こうやって顧問弁護士をつけてくれてるんだから、大和田さんもきみを見捨てているわけじゃないよ」

 だが長尾は白けた顔で床に唾を吐き、それを見た刑務官が気色ばむ。

「二〇八番!そういう態度をとるのなら、打ち切るぞ!」

 何も言わない長尾の代わりに弁護士が慌てて刑務官に謝った。そして小声で

「うまく立ち回れば五年で出られるんだから、短気起こすなよ」

 と諭したが、長尾は黙っていた。

(五年?ふざけるな)

 長尾は決断した。

「じゃ、私はこれで。会社に伝えておくことあるかい?」

 帰りかける弁護士に事務的に伝えた。

「そう言えば長いこと、比嘉コンサルタントの社長に不義理をしているな。ウチの総務部に、今年は新賀祝いを倍にして贈るよう言っといてください」

 弁護士は頷いて「それで、わかるんだね?」と返した。長尾も笑みを浮かべて頷いてみせた。喧嘩両成敗だろ?笑みの裏で長尾被告はつぶやいた。

 温泉旅館で妹母子を待つ航平は、露天風呂を見下ろす窓際で、五年前にも彼女たちとここに来たことを思い出していた。まだ四歳の瑠奈とこの風呂につかった。水鉄砲で航平を撃ちながらキャアキャアはしゃいでいたものだ。

「お前は本当に、女の子なのか?」

 航平はしばらくなすがままにさせていたが、抱きしめて落ち着かせた。瑠奈は航平の頬にキスして言った。

「ニイニイは、今日から瑠奈のターリー(お父さん)にしてあげる」

「…おい。俺はお前のニイニイでも、ターリーでもないぞ。叔父さんだ」

「おじさん?」

 瑠奈には意味がわからないようだ。そこへ裸の陽海が入ってきた。

「誰が見ても親子サ」

 湯を背中の観音菩薩にかけながら言った。

「わんはニイニイ、瑠奈はターリーでいいサ」

「バカ野郎、そうはいくか。あと、お前ウチナーグチ(沖縄弁)やめろ」

「あ、出てた?ヒヒ」

 陽海が前も隠さず、湯船に飛び込むように入ってきた。飛び散る飛沫に瑠奈は大喜びだ。

「ぬう、フラー!(この馬鹿)」

「ニイニイもウチナーグチ」

 陽海はケラケラ笑いながら、航平をうしろから抱きしめた。その姿は幸せな夫婦と娘にしか見えなかったはずだ。

(もう少し…だからな)

 航平は回想を打ち切って、瑠奈の好きそうな子ども用の惣菜を注文するため電話に向かった。

 小野寺修は汗ばむ手で大型トレーラーのハンドルを握っていた。ミラーに貼った妻と娘のプリクラが彼を見守る。

「博子。朋美。ごめんな。でも、これで借金全部返せるから…」

 子煩悩でごくごく善良な大型車両の運転手だった。だが、スマイルローンで金を借りた。驚くほど容易かった。そのうちに借金と貯金の区別がつかなくなっていた。貯金は使えば無くなるだけだが、借金は使った分を返さなければいけない。そんな子供でも分かることなのに…。

 もう一度「港〇‐△××□」と書かれたメモを見る。さっき高級マンションの駐車場で、車種を確認した。黒塗りのベンツだった。

 比嘉陽海は航平のマンションの地下駐車場で、ベンツのトランクに荷物を積み込みながら携帯電話で兄と話した。

「…やだ、東京の電車は難しいサ…うん、ニイニイの車借りるよ…ナビついてるから、なんくるないさあ」

 思わず出身地の訛りが出るのは、心が躍っているからだ。

「…そそ、瑠奈は学校で拾ってく。じゃあ」

 陽海は携帯を切って、ハンドルを握った。

「瑠奈、温泉久しぶりだねえ。ヒヒ」

 陽海の運転する黒いスモークガラスを張ったベンツが、ゆっくりとマンションの地下駐車場を出た。十メートルも進むと大通りに出る。車の前方が通りに差し掛かった時だった。

 大型トレーラーが尋常ならぬスピードで走ってきて、ベンツを弾き飛ばした。陽海を乗せた車は何度も横転を繰り返し、二十メートル先でようやく止まった。頑丈が売りの高級外車だったが大破した。

 夕方には長野の旅館に電話があり、深夜航平は都内の救急病院にいた。手術室前の長椅子で瑠奈の手を握って結果を待った。手術中のランプが消えて、執刀医が出てくる。航平が立ち上がると、執刀医は首を振った。医者がなにか説明を始めたが聞こえなかった。航平は瑠奈を置いて、抜け殻のようにふらふらと病院を出た。

(…ああ、電話しなきゃな)

 携帯電話を取り出した。既に夜は深まっていたが、あっちは一日の活動が始まったばかりのはずだ。

 まだWTCビルが建っている頃のウォール街に信也はいた。ホイッスラーNYという証券会社に出向していたのだ。洗練された職場で研修生として働く信也の生活は充実していた。身なりや仕種はすっかりスマートなビジネスマンに成長して、この日も株価チェックと顧客の応対に目まぐるしく動いていた。研修教官が受話器片手に信也を呼ぶ。

「サニー、4番に国際電話。ヒジャアとかいう日本人からだ」

 ああ、ヒガはそう聞こえるのかと信也は苦笑して内線を繋いだ。

「あ、比嘉さん?武田です」

―調子はどうだ?

「ええ、いい勉強させてもらってますよ。世界経済の中心ですから実戦的で役に立つことばかりですね」

―お前、休みとって一時帰国できねえか?いや、帰国しろ。

 命令口調に一瞬むっとしたが、思い返した。

「…お袋に何かあったんですか?」

―はるみが死んだ。

 はるみ、が陽海とつながるまで時間がかかった。

「妹さんが?…あ、ご愁傷様です」

―弔い合戦をやる。兵隊が必要だ。

 話が見えなかった。兵隊?弔い合戦?

「いや俺はヤクザじゃないし、比嘉さんの部下でもないし…」

―てめえは陽海と寝ただろうが!

 救急病院の中庭をいらいらと歩き回りながら、航平は続けた。

「お前はあいつの人生に関わったんだ。当然の義務だ」

―そんな無茶苦茶な…

「うるせえ!いいかあいつはな、この世でやりたいことを何もできずに死んだんだ。恋愛とか、結婚とか、しあわせな家庭とか」

 話すほどに取り乱していく。

「あいつの人生はな、献身だけだったんだよ。わかるか?献身だ。どいつもこいつもてめえの欲得しか考えねえのにだ。あいつは、あいつは」

 興奮する航平の視界に、中庭の燈火の下で佇む瑠奈の姿が入った。

じっと航平を見守っている。

「あいつは…」

 と言いかけて電話を切った。瑠奈の許へ歩く。

(…俺が、殺した)

かみしめた唇は鉄の味がした。

 皮肉なほど青い空に煙が立ち上る。あの気体が人間の魂なのだとしたら、人生はやはり薄っぺらく軽い。瑠奈の手を握りながら喪服姿の航平は口を歪めた。

「瑠奈。死ぬのは怖いと思うか?」

「ん。わかんない。けど、悲しい」

「死はいつも隣にいるんだ。俺の隣にも瑠奈の隣にもな」

 脅かすつもりで言ったわけではない。時折陽海にも話した口癖のような航平の持論だった。瑠奈の肩を抱き寄せたとき、内ポケットの携帯電話が鳴った。発信者は荻原組長だ。反射的に瑠奈を自分から離す。聞かせたくも触らせたくもない世界から遠ざけるように。

―おう、比嘉。陽海ちゃん、残念だったな。お悔やみ言っとくよ。

「恐れ入ります」

―うん。ところでこんなときに何だが、穂高ローンの会長から泣きが入ってなあ。一刻も早くって言うもんだからさあ。

「…はい。うかがいます」

 自分に背を向けて話し込む航平を、瑠奈は恨めしそうに睨んだ。航平もまた、もう一度肩を抱くことはなかった。

 成田空港の搭乗者出口から慎也がカートを押して出て来た。待ち構えていた航平は何も言わず顎をしゃくって車に案内した。車の中ではじめて、航平は信也に説明を始めた。

「俺たちは三年かけて経世研究会、つまり大和田組傘下の企業三社を営業不能に追い込んだ。株主の大部分は手を引いたが、引くに引けない大株主がいる。穂高ローンの会長だ」

「日本トップクラスのノンバンクですよね」

「今日は、その穂高邦夫と話をつける」

 帰国したその日に、信也は大任を言いつけられた。拒否の隙間も与えられなかった。フランス料理店の個室で商談が始まった。メンバーは荻原、そのボディガードとして若頭の小島、航平、信也と穂高邦夫の五人だった。穂高が切り出す。

「もともとがでんな、大和田さんの肝煎りで買うた株ですねや。全国展開するときのみかじめ料代わりですわ」

「古いタイプの組織ですから強引ですよね。お気の毒です。でもおかげで、穂高ローンの名前を知らない者はこの国にはいません」

 慰めにもならないことを荻原が言うと、小島までが

「ああ。体操着着たねえちゃんたちが踊るCM、ありゃいいよな」

 などと呟いたため、航平はテーブルの下でその脛を蹴った。

「でもそれを売ったりしたら、大和田さん気を悪くしませんか?」

 荻原が心配そうに訊いた。これだけは航平の貫目では確かめられないこと。事前に組長には示唆しておいたこと。

「いえいえ。もう組長からして、長尾にはあいそ尽かしてますよってに」

 荻原が航平に目配せをする。商談だ。

「ざっくばらんに申し上げます。当方は時価の五割増しで買い取らせていただく用意をしておりますが、いかがでしょう?」

 好条件のはずだ。だが穂高はナイフとフォークを置いて

「えらいすんません。お断りします」

 と頭を下げた。下げられた荻原組の者たちは凍りついた。

「手前勝手な話で恐縮なんですが、もう私はスジもんは懲り懲りですねや」

 と言うなり、爪楊枝で歯をせせり始めたのだ。それからは一同が黙々と食事を続けた。

 中座した航平は化粧室の洗面台で顔を洗った。打ち合わせと違う方向に話が進んだため、不安を感じた信也が追いかけるように入ってくる。

「驚いたぜ。ヤクザ呼びつけといて、スジもんは懲り懲り、とはな」

 苦笑いする航平に、信也は自分のハンカチを手渡した。どうするんですか?と。

「だが、想定の範囲内だ。打ち合わせ通り、頼むぞ」

「本気ですか?CEOには研修の初日に挨拶したぐらいですよ。ましてや」

「ましてやジャパニーズ・マフィアがらみの会社を買収するわけが、ってか?」

 ハンカチを返しながら言った。

「やってみなきゃわからねえよ」

 個室に戻るとすでにデザートが出されていた。レアチーズケーキだった。穂高が小さなフォークで突つき

「私ダメですねや、チーズが昔から。要は腐った牛乳やろ?」

 と駄々をこねたので、小島が給仕を呼んで下げさせるように命じた。だが、犬のように臭いを嗅いでいた穂高が今度は

「いや、こいつは臭うないなあ。ちょっとトライしてみるわ」

 と給仕の方を制し、ひとかけらのケーキを口に放り込んだ。食えないおっさんだ、と小島は心の中でため息をつく。

「あ、なあんや。甘いやないか。悪うないなあ」

 と機嫌を取り直したところで、航平が再提案を試みる。

「会長、いかがでしょう。間に外資をはさんでみては?」

 穂高はデザートを口いっぱいに頬張り「…外資?」と、少なからず興味を示した。すかさず航平はケーキをフォークに刺して示す。

「ええ。腐った牛乳も“ケーキ”に加工すれば、この国の人間は納得してくれるのではないですかね?」

「そらそや。要は臭みが消えればええねんから。けど、そんなうまい具合に…」

「この男、私の義理の弟なんですが、ホイッスラーNYに勤めてまして」

 航平が隣に座る信也を紹介した。

「ホイッスラー…全米十二位、総資本52億ドル、中の上やな」

穂高が間髪入れずに言い当てる。信也は驚いて航平に頷いてみせた。どうやらこの男の頭の中には、古今東西問わず金に関わるデータが詰まっているらしい。航平が信也を促す。

「…実はひが…義兄の会社とホイッスラーは、来年業務提携の契約を交わすことになっております」

 航平が引き継いで言う。

「どうでしょう。この際三社もまとめて合併させてみては?」

「なるほどなあ。外資いうオブラートに包む、か」

 穂高は口を拭いながらしばらく考えていた。新たな緊張状態がほんの数秒続いた。徐に荻原に向かい、

「荻原はん。これからも末長う、お付き合いくださるようお願いします」

 と、穂高が頭を下げた。これで決まりだった。一同は安堵した。

 フランス料理店を出た車の中では小島が運転し、助手席に信也が座った、後部座席には荻原と航平が並んだ。

「航平。今日からお前、組の本部長やってくれねえか」

組長はいつになく名前で呼んだ。それが彼のお褒めの言葉なのだ。

「あ、ありがとうございます!」

 平身低頭する比嘉社長を見たのは初めてだったので、信也は小声で小島に訊いた。

「本部長ってどんな役職なんですか?」

 小島は苦々しげに「金庫番だ」とだけ答えた。

「買収できたことより、穂高会長と懇ろになれたのがでけえやな。知ってるか?あの人の個人資産、一本だとよ」

「まさか、百億っすか?」

 小島の答えに荻原が首を振った。

「一兆だ」

 車内が静まり返る。当然国税が把握していない金額だろう。荻原は航平の腿をなでながら言った。

「そう考えるとよ。上納金が年五億って、物足りなくねえか?どうだい?航平」

 もっと出せるんじゃあねえのか?と恐喝され、明らかに怯えている。信也は助手席で苦笑した。あの鬼のような比嘉航平が、この工務店の社長のような初老の男を本気で恐れているのだ、と。

 口からでまかせの業務提携だったため、信也は後付けに動かざるを得なかった。出向先のホイッスラー本社に稟議書を提出した。どうせダメ元、目も通してもらえないだろうと高をくくっていた。ところが、ジョン・ホイッスラーCEOは乗った。アジア進出を狙っていた彼にとって、証券・不動産・ノンバンクが一度に手に入るこの提案は渡りに船だったのだ。

 アメリカの実業家は、動き出したら世界一速い。トップの決断を受けて、事務方はわずか二ヶ月で手続きを済ませてしまった。

 国際記者会館で経済記者を集めた会見の日、ホイッスラーは満面の笑みで“Whⅰsler・Global・Investment”略して「WGI」のロゴを紹介した。当面は現業を日本スタッフに任せホイッスラーはノベルティを取って名前を貸すだけ、というグレーゾーンの外資系証券会社がここに誕生した。比嘉航平も初代社長(GM)として紹介され、反社会的勢力の一員でありながら記者の拍手を全身に受けた。

(いつまでもこの国はアメリカという名前に弱い、ということだろうな)

 と、いつもの冷ややかな笑みを覗かせながら。

 その頃、信也が籍を置く東西銀行は大型合併を果たし「第一協同東西BANK」という長ったらしい名称に変わっていた。金融ビッグバンの波に飲まれ、各行はこれ以降も統廃合を繰り返して行くことになる。WGIが立ち上がった一週間後、信也は細川という人事部長からある辞令を受け取った。

「出向の、出向?ですか」

「うん、ホイッスラーCEOたっての希望でね。一応当行在籍のまま、投資顧問としてきみの辣腕を奮ってほしいそうなんだ」

「ぼくは、どこで働くんですか?」

「まあ、ホイッスラーNYと東京のWGIの役職を兼任することになるね」

「ぼくの席はこの銀行にはない、というわけですか?」

 細川は、サラリーマンがゴネるんじゃないよ、と軽く目でけん制しながら続けた。

「メガバンクになりゃ、業務も多角化せざるを得ないってことさ」

 信也は辞令をじっと見たまま、推理を働かせる

(無論それだけじゃあない。たぶん、今も手を切れないでいる闇社会からの圧力もあるんだろう?)

 細川はフレンドリーに信也の肩を抱く。

「いいか。きみはやつらの監視役でもあるんだ。くれぐれも取り込まれるなよ」

 小声で囁くその目は笑っていなかった。

 WGIビルの一階は証券取引所のミニチュアのような造作になっていた。

「信也、見ろ。俺の賭場だ」

 航平が上機嫌に語る。前面には大型モニター、頭上には回転式の株価情報ディスプレイが設えてある。

「これからは、好き勝手に遊ばせてもらうぜ」

 ビル全体が吹き抜けになっていて、航平と信也はいま階上の重役オフィスフロアから取引所を見下ろしている。

「ぼくは当分、NYとここを行ったり来たりですね」

「ああ。よろしく頼むぜ、投資顧問」

 航平は信也の前では楽しげに振るまったが、ふと目を伏せる瞬間があった。

(陽海。これがお前の命と引き換えにしたモノだ)

 本当にこれを見せたい者はもういない。すきま風はこの頃から男の心の中に吹き始めていた。



つづく


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