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ノワール・クロニクル「水面下」
よこゆき
ミステリーサスペンス
2024年11月02日
公開日
62,877文字
完結
バブル崩壊後の平成。平凡な銀行員・武田信也の父親が自殺。荻原組の経済ヤクザ比嘉航平の追い込みと断じた信也はフェンシングの剣で彼を襲うが、原因が航平と敵対する大和田組の企業舎弟・長尾の仕業と知らされて、ふたりは共闘して仇討ちを実行する。長尾の会社を奪い取った航平は、信也を投資顧問に据え外資系証券会社WGIを発足させる。ITバブルと荻原組の暴力を背景に雪だるま式に会社を発展させていくが、信也も航平も何もかもうまくいくことに言いようのない倦怠を感じはじめる。平成二十年秋。世界経済は百年に一度の危機を迎え、信也と航平の関係にも亀裂が。救われない魂のノワール・クロニクル(暗黒年代記)。

第1話

  序


 死闘だった。あれは互いに納得のいく戦いだった。相手もそう思ったはずだ。今のこの国では、不良やヤンキーはおろか反社ですら命のやり取りなどしないだろう。あのときほど生きてることを実感したことはなかった。ああ、どれだけのつまらない生活、つまらない仕事、つまらないギャンブル、つまらない人間関係が俺の人生に横たわっていたことか。

 国頭村の診療所の前に倒れてから応急処置を受け、浦添市の総合病院に搬送され約四か月入院した。金に糸目は付けない、最高の医療を受けさせてくれ、と成金のような恥ずかしいことを看護師や担当医に喚き続けたようだ。だがそのおかげで今、恩納村のプライベートビーチで安穏としていられる。

 沖縄の三月の海は既に浸かれる水温だし、沖の方まで見渡せるから安全を確保できる。少なくとも海面上には脅威と思しきものはない。遠くに漁船が見えるぐらいだが、おそらく五キロ以上は離れている。ロケット・ランチャーでも届きはしないだろう。あそこまで譲歩したのだから、まさか俺に手を出すことはないはずだ。それでも奴らは一筋縄ではいかないから油断はしない。使いもしないコテージを五軒貸し切りにした。

 海に浮かんだまま仰向けになる。緩やかな波がマッサージのように背中をさすってくれる。人生の意味について考えてみる。「意味」の意味についても考えてみる。無駄だ、と結論付ける。

「ああ。確かにくだらねえわ」

 誰かが言っていたことばだ。さらに武田信也は思う。いまは「平成」という名の乱世だ。この海のように一見穏やかだが、水面下で何が起きているのかは潜って見なければわからない。いや。そもそも潜る必要などないのだが…。




 平成元年~平成九年


 二度の大震災と「百年に一度の経済危機」が起きたにも関わらず、その時代は〝平成〟という名称だった。

 平成元年(1989年)三月、武田信也は高校一年生になろうとしていた。ただ彼の通う私立学校は大学までエスカレーター式なので、受験をする必要はない。この頃の信也は、通学途中の別の高校の合格発表を羨ましげに見ていたものだ。合格者が胴上げされ、落ちた者が呆然と立ち尽くす。その様子を見ていると、戦う機会を与えられない自分を恨めしく思うのだった。

 平成七年(1995年)、信也は大学を卒業し父親と同じ大手都市銀行に就職した。当時の名称は「東西銀行」で、創業以来関西を拠点としていたのだが、昭和後期に全国進出を図りこの年一月に起きた阪神淡路大震災をきっかけに本店業務を東京に移管していた。 

 武田家は転勤のたびに各地の社宅に引越す生活だったが、ここ数年は東京に落ち着いていた。マンションの壁には、ぎこちなく笑う小学生の信也と肩に手を添える皆子、父・宗太郎の家族写真で作られたカレンダーが掛けられている。バブル崩壊後、この写真以外で家族が揃うことは珍しくなっていた。この日の食卓もテレビの音だけが響いていて、たまに皆子がひとり息子に話しかける。

「仕事慣れた?どこの支店だっけ?」

 信也は面倒くさそうに答える。

「板橋支店の研修は先月終わったよ。内示がおりてさ、提携先の外資系証券会社に出向になった」

 いまの自分の状況を母親に説明すると、皆子は愕然とした。

「あなた、何かやらかしたの?入社したてで出向だなんて」

 長年銀行員と連れ添い、そのコミュニティーの中に身を置いてきた彼女は事情に詳しい。入社初年度は支店窓口等のリテール業務に配属されるのが一般的のはずだ。まさかわが息子はいきなり挫折したのか?信也は興奮する母親をいなすように説明した。

「違うよ。出向って言っても研修の続きみたいなもんだよ。俺トレーダー志望だから、むしろ期待されてるんだって」

 株や為替を取引して銀行の資金運用を任されるトレード部門は、バンカーにとって花形部門のひとつではある。だが東西銀行の場合トレーダーは系列の信託銀行か証券会社に出向し、本店業務からは距離を置くことになる。それは皆子の思い描く銀行員の王道から逸れることでもあるのだ。

 その後も嘆きとも説教ともつかぬ母の話は続いたが、すぐに信也の耳からその声は遠ざかっていった。この人はいま息子のことではなくコミュニティーの中での自分の立場を心配しているのだなあ、と今日もまた軽蔑する。彼は母親が嫌いだった。

 テレビでは、世の中を壊したいと考えたカルト教団のニュースが連日のように報道されていた。

 信也の運命を変える男との出会いは、二年後の平成九年(1996年)である。六月の東西銀行株主総会にその男は出席していた。無目的な暇潰し、あるいは肚に一物を抱えた株主の群れの中に比嘉航平はいた。株券を団扇代わりにしながら会場を見回している。壇上には総会進行役の武田宗太郎がいた。

「これより1996年度、東西銀行株主総会を始めさせていただきます。株主の皆様、よろしいでしょうか?」

 宗太郎の呼びかけに、会場のあちこちから「異議なし」「迅速進行」といった声が発せられる。仕込みの総会屋たちだ。航平はその声の主をひとりずつ確認した。今後俺の敵になる連中だ、と。

「ありがとうございます。それでは、議案第1号についてですが…」

 言い終わらぬうちに「経営陣に一任!」「一任!迅速進行」という声。先ほどと同じ男たちの顔を確認した航平は苦笑する。旧態依然、という四字熟語が浮かぶ。ふと見ると、前列に座る部下の渡辺が寝ている。航平はその背もたれを蹴った。

(始まったぞ。起きろ)

 諫められた渡辺が慌てて起きたあとも、不毛な出来レースは一時間以上続いた。航平が動いたのは、これからようやく閉会へ向かおうという頃合いだった。

「最後に、東西銀行副頭取・石川貢から皆様方への感謝の言葉をもちまして、閉会の運びとさせていただきます」

 宗太郎が下がり石川が壇上に立つと、会場から総会屋主導の拍手が沸き起こった。

「よ、次の頭取!」

「配当上げろ!」

 ヤジとも激励ともとれる声に、石川は苦笑した。

「ありがとうございます。頭取人事についてはともかく、配当につきましては決算報告書にあります通り、次年度も通年通り実施させていただきたく予定でございます。ただ政府が提唱します金融ビッグバンに備え、増額につきましては今しばらくのご辛抱を賜りとう存じます」

 政府によって守られる「護送船団方式」で、昭和という時代を乗り切ってきた日本の金融界。だがそのことがバブル経済を産み、破裂させることにもつながった。当時の橋本内閣は遥か先を行くイギリスやアメリカに倣い、金融市場の規制を緩め活性化・国際化を図ろうとしている。だが当の金融界にとってこの規制緩和は、長年浸かってきたぬるま湯から追い出されることを意味する。覚悟も体力も必要なのだった。

(それにお前らを守ってきたのは、政府だけじゃねえだろ?)

 と、航平は壇上の副頭取に語りかける。

「来る大改革におきましては、株主の皆様方のご加護が必須でございます。来期以降も何卒…」

 石川が締めにかかったタイミングで、航平は丸めた株券で渡辺の頭をポンとはたいた。

(ここだ。行け)

 それを合図に、渡辺が立ち上がる。

「質問!質問、質問、質問!」

 その大音声に戸惑うように、石川がスピーチを中断した。渡辺が続ける。

「われわれ株主への感謝のことばが、なぜ頭取ではなく副なのか質問したい!」

 段取りにない質疑応答要請に会場がざわつき始める。航平は注意深く会場の反応を観察した。さて、誰がどんな顔をするか。

「この大事な日に、頭取の高島はどこで何をしているのか?」

 現頭取・高島和寿は、ぬるま湯に浸かり過ぎてのぼせ上ったトップの類だった。素行不良の上、脇も甘い。宗太郎が下りてきて、ある男の席へ駆け寄る。

(ここを仕切っているのは奴だな。確か、大和田組の金庫番…本部長の長尾一慶)

 航平は長尾の顔をインプットした。そして彼に耳打ちする宗太郎の顔を、膝上の社員名簿と照らし合わせる。

(総務部渉外課の武田、か)

 額に汗する宗太郎に長尾は首を振って応対する。あれは俺たちの与り知らぬ輩だ、とでも言っているか。

「一説によると、高島は愛人とマカオで、カジノ巡りをしているとかいないとか」

 渉外課の男が目を剥いてこちらを見る。スキャンダル暴露は総会荒しの古い手法だ。自分への責任追及が頭を駆け巡っているのだろう。ざわつく会場と動揺する壇上のスタッフたちを交互に見て、今度は航平が立ち上がった。

「愚問!経営に影響な~し!」

 太く通る声が響き渡る。航平は長尾の表情が曇るのを確認しながら叫び続けた。

「迅速進行!迅速閉会を求める!」

総会屋たちが我に返り、航平の言葉に同調するように立ち上がって拍手をし始めた。どうやら総会を荒らすのが目的ではない、と安堵したようだ。

(長尾。お前さんへの名刺代わりだ。俺の面を覚えとけ)

 今日の仕事は終わった。航平は帰り支度を始める。

「いよ~お」

 会場全体がシャンシャンシャン、という声と柏手に包まれる。大改革を提起した東西銀行の株主総会だったが、最後は悪しき伝統に則って締められた。他の株主たちとともに会場を後にした航平は、うしろから追いかけて来た宗太郎に呼び止められた。

「お待ちください」

 そうら来た。航平は立ち止まり渉外課長を振り返った。

「なにか?」

宗太郎は息を整えながら、自分の名刺を示した。

「私、こういうものです。お名刺を頂戴できませんか?」

 おそらくあの男の指示なのだろう。航平は「比嘉経営コンサルタント」代表としての名刺を渡す。もう一枚の名刺をこの男が目にするのは、だいぶ経ってからになるだろう。

 遠くからふたりのやりとりを窺っていた長尾は(引越した途端、ハエがたかってきやがったか)と、こちらもまた航平の顔を脳に焼き付けてから唾を吐いた。

 それから三ヶ月ほど経った頃、信也は駒沢の体育館の中にいた。実業団フェンシング二部リーグの試合に出場していたのだ。彼自身は日本人に向いているフルーレという、最も軽い剣を使う試合にエントリーしていた。大学でインカレまで行ったフェンシングだったが、人事部の勧めで就職後も続けていた。

 団体戦は既に予選敗退が決まっている。個人の決勝戦に残った信也だが、仮に優勝したところで所詮二部リーグでありその先の目標はない。モチベーションを保てないまま試合に臨む。だが、あっけないほど簡単に勝負は決した。開始一分後に仕掛けたロングアタックが決まったのだ。しかし試合終了後に、マスクを取り相手と握手を交わす信也の顔は能面だった。全くの期待外れだ。そもそも競技人口の少ないスポーツ。実業団とはいえ趣味レベルの相手とインカレ選手とでは話にもならなかった。

 応援席でガムを噛みながらオペラグラスを覗く比嘉陽海は、その信也の虚無感を理解し共感する。そうそう、勝てる勝負は楽しくない。わかるよ。

(でーじ似てるば、あの人に)

 陽海はオペラグラスをおろして故郷の言葉でつぶやいた。手元には兄・航平から借りた東西銀行の社員名簿がある。そこには信也と総務部渉外課長の顔写真が載っていた。

(ありゃ。こっちは親子なのに似てないサア)

 その頃この国ではビストロと呼ばれる洋風居酒屋が注目を浴びていた。この日のリーグ戦の慰労会もそこで行われた。テーブル席は王様ゲームという幼稚な遊戯で盛り上がっていたが、信也は少し離れたカウンターで独り飲んだ。さてそろそろ帰ろうかというときに、隣の席に陽海が滑り込んできて訊いた。

「あんたさあ、総務の武田課長の息子さんなんだって?親子で銀行マンなんだ。ね、一緒にいなくていいの?」

 と、子どものようにはしゃぐテーブル席を顎で示す。

「かったるいから。あれ。きみもうちの社員なの?」

「あたし浅草支店の窓口やってる山田。今日の応援に駆り出されたんだけど、あんた強いねえ」

「…いや、所詮二部リーグだから」

 謙遜ではなく言った。

「ね。フェンシングって面白い?」

 ぶしつけな質問だが、実は信也自身試合中に考えていたことでもあった。俺はいま、くだらないことに時間を費やしてないか?

「面白いか、どうかは相手次第なんだと思う。強い選手と戦うときだけは、きりきり来る」

「きりきり?」

「相手の切っ先がこっちに向かってくるとき時間が止まるんだ。真剣だったら俺はここで死ぬんだなあって、つまり…うまく説明できないや」

 理解できまいと思ったが、陽海は「わかる~」と返してきた。

「わかるの?」

「イクときそうなるよ、ヒヒ」

 会話はかみ合わないようだ。信也は苦笑した。陽海が脚を組みかえる。白く長い脚だ。信也はチラ見したが、すぐに取り繕った。

「ねえ、飲み直さない?」

 陽海に促され、ふたりは店を出た。一軒だけ静かなバーで飲んだあと、信也は彼女のアパートに誘われた。

 陽海が酔っ払った信也を支えながら入ったさきはは女子らしからぬ殺風景な部屋だった。信也が敷かれていた万年床に倒れ込む。陽海が冷蔵庫の方へ何かを取りに行く間、充血した目で見上げた壁。そこには数々の刺青のポスターが貼られていた。

 なんなんだ、この装飾は。あの女、一体どういうシュミを…呆れながらも目を持っていかれる。おどろおどろしい模様と色使い、それが描かれる肌とのコントラストに性的な魅力を感じるのか、下腹部が条件反射のように反応する。明治の文豪が引き込まれたのも、この生理だったのだろうか?

「さ、行けるとこまで行ってみよ」

 陽海がウイスキーのボトルとコップを卓袱台に置いた。

「君は何者?窓口、なんて嘘だよね」

「そらそうだ。銀行員にタトゥはないわ」

 と、女はケラケラ笑った。

「君も入れてるの?」

 信也は子どものように興味津々の目で女を見た。陽海は何も言わず、後ろを向いてブラウスを脱ぐ。彼女の背中には、片膝をついた菩薩が和彫りで描かれていた。半伽思惟観音菩薩像である。ボカシというのだろうか、濃い黒が毅然とした姿勢を、薄墨が菩薩の柔らかな表情を表現していた。恐らくはかなりの技術を要するのだろうと推察される。信也はまじまじと見てからつぶやいた。

「綺麗だ」

 陽海は満足げに、その言葉を背中で聞いた。当然よ。かけたのは金だけじゃないからね。時間と痛み、彫りに行くたびに彫り師に体を求められる屈辱。リスクの塊が背中に宿っている。信也の手が伸び、陽海の背中を指でなぞる。

「ストップ」

 陽海が振り返り、信也を睨んだ。

「お触りは別料金になります、お客様」

「お客って」

「冗談よ。でもここから先は、それ相応の覚悟を決めて動きなさいよ。墨なんか入れてる女が、パンピーなわけないから」

 当時の隠語「一般人」のことだ。

「私、ヤクザの愛人よ」

 どうする?と目が問う。信也は一瞬怯んだが、指先は抗いがたい磁力を帯び肌に吸い付いていった。酔いもあった。

「いいね。きりきり、来る」

 そう言って目の前のブラを剥ぎ取った。

 その年の暮れ、信也の父親が東西銀行の屋上から飛び降りて死んだ。宗太郎はフェンスを乗り越え、靴を揃えてから下界を見おろしたときも動揺はしなかった。

「…くだらない」

 それだけ言い残して、躊躇なく身を投げた。

「嘘よね?何かの間違いよね?」

 皆子はしきりに繰り返した。

「ご確認をお願いします」

 婦人警官に呼ばれ、信也は黙って母の背中を支えながら遺体安置室の中へ入った。

(俺たちに確認なんてできるのか?)

 ここしばらく、いや人生を通じてだって俺は父親の顔を直視したことはあまりない。この人もそうだろう。

「お顔の方は、形成させてもらってます」

 飛び降り自殺の遺体は最悪だという。専門の形成科医が身元確認のために整えてくれたのだろう。顔にかけられた白い布が外された。その後しばらくは、皆子の取り乱した悲鳴だけが室内に鳴り響いた。

 一週間後、武田家は警視庁の家宅捜査を受けた。捜査二課の刑事たちが、書斎からめぼしい書類や日記などを悉く押収して行く。リビングでは、吉永という刑事が皆子に事情を説明していた。

「押収した物品は、ご主人の死に事件性のないことが認められた時点でお返しします」

 刑事は皆子に事務的に一礼した。

「あの、主人は自殺ですよね?まだ遺体も返していただいてないし…会社で、銀行で何かあったんですか?」

 信也は階段の途中に座って、皆子と吉永の会話を聞いた。

「まだ、捜査段階でして…」

 進んでいたとしても、事件関係者に話すはずはない。

「銀行に、暴力団が押しかけてきたんでしょう?黒田常務の奥様から聞きました」

 皆子の声に信也はピクリと反応した。

「そういったことも含めて、一度署の方にお話をですね…」

 会話の続きは聞かずに信也は階段を駆け上がった。刺青の模様が脳裏にちらついたからだ。

 ―ことが終わったあと、陽海という女は布団の中で背を向けていた。彼女だけでなく菩薩像までもが汗ばんでいる。

「別にいいんだけどさ、何ていう組?」

 満たした後、理性と不安が沸き上がってきた。そのことを悟られたくなくて、虚勢を張りながら背中に訊いた。

「何が?」

「きみの愛人」

 刺青の女は起き上がり、コップにウイスキーを注いだ。

「今時のヤクザはね、組になんて出入りしないもんなのよ。企業舎弟って言って、表向きは堅気の仕事しているわ」

 と、渇きをいやすように飲み干した。

「企業舎弟?」

「本籍、関東侠星会荻原組。現住所は比嘉経営コンサルタント。そこの社長さん」

 経営コンサルタント?つまりフロント企業というやつか。〇〇組の幹部よ、とでも言われたら見栄か脅しと鼻で笑えたが、現実味のある返答に信也は萎えた。この女とは二度と会ってはならない。

「なに?小指でも詰めて持ってく?」

 言ってから陽海はケラケラ笑った―。

 自分の部屋に飛び込んで、信也はパソコンを立ち上げる。「比嘉経営コンサルタント」のHPを探し当てた。そこには代表取締役の笑顔と会社の住所が載っていた。

「ここまでやるのか、ヤクザってのは」

 プリントアウトした。

(くそ!銀行マンが誰でも泣き寝入りすると思うなよ)

 若さゆえの虚勢だが、誰かに呼び寄せられている気もした。

 腹を決める必要があった。信也は区民体育館でひとり、フェンシングの練習をした。

「プレ(用意)」

 マスクをつけて、構える。

「アレ(始め)」

 前に出る。

「アタック(攻撃)」

 さらに前へ。

「トゥシュ!(突き)」

 虚空に向けてフルーレ(剣)を突いた。トゥシュは突きが決まった時に審判にアピールする掛け声だ。

 ウォームアップと己への気合注入を終えた後、自宅に戻った信也は改造剣を作り始めた。まず、どこにでもあるビニール傘を用意し、ラジオペンチで傘の中軸を抜き取る。フェンシングの剣はブレード(刀身)、ガード(鍔)、ヒルト(柄)に分解することができる。偽装するために目立つガードを取り外し、ブレードとヒルトを傘の中軸代わりに仕込んだ。慎重に受け骨の中心を通し針金で固定した。傘を開いてみる。問題なし。これで傍目にはビニール傘にしか見えない改造剣の出来上がり。

 目的地に着いた頃には、折しも雨が降り始めていた。信也は比嘉経営コンサルタントの入るオフィスビルの向かいの庇を借りて、ビニール傘で顔を隠しながら目立たぬように佇んだ。

 一時間ほど待っただろうか、ビルの中から数名の人影が現れ、玄関先に並んだ。どの男も身なりはスーツ姿だが、目つきがサラリーマンのそれではない。ボスの帰りを迎える黒服のマフィアか。黒塗りの車が玄関先にすべり込み、中から運転手の男とターゲットらしき者が出てきた。信也はプリントした顔写真を確認する。間違いなくHPに載っていたあの男だった。

「プレ」

 針金を外し、ビニール傘から改造剣を引き抜く。フルーレのヒルトを握り締め、比嘉航平目がけて走り寄る。五感が冴えているのか周りの動きはスローになり、地に張った雨水を蹴散らす自分の足音がうるさかった。思いのほかスムーズに通行人たちの脇をすり抜けた。不意を突かれ、黒服の男たちが立ち往生するのが見える。間隙をついて、剣を突き出す。剣筋よし。

(トゥシュ!)

 だが、突きは決まらなかった。ターゲットは一瞬顔をしかめはしたが、信也が最後の一歩を踏み込む刹那、部下であろうひとりの体を楯に使った。剣先はその肩に突き刺さっただけだった。

(ち。パラードか)

 パラード、防御されたということだ。失敗。

「取り押さえろ」

 冷静な反応だった。くそ、慌てさせることすらできなかったか。三秒後には航平の部下たちに襟首をつかまれ、信也は雨に濡れた石畳の上を引きずり回された。だが取り押さえられてなお、航平を睨みながら言った。

「何が企業舎弟だ。愛人を寝取られて親を脅すなんて、ただのチンピラだろ!」

 航平は襲撃者の言葉が理解できず

「は?何言ってんだ。この…」

 ガキ、と言いかけて周囲を感じ取る。人が見ている。

「お客様」

 信也を立たせ、その肩を抱いた。

「ここではなんですから、事務所の方へお越しください…」

 ませ!と続けると同時に、信也の鳩尾にショートフックを入れた。周りに悟られないよう慎重に的確に、そして強力な一撃。

(り、リポスト)

 突き返された、という意味。それにしてもプロのパンチとはこういうものか。自分の体にこれほどの衝撃を受けた経験はなかった。ドラマや映画の安い演出のように、呻き声すら上げられず信也は失神させられた。代表取締役は部下たちを見回し、吐き出した。

「戻れ。緊急会議だ」

 会議は荒れる。そこにいる者たち全てが予感した。

 信也は事務所の中の応接室に放り込まれた。手足を縛られアイマスクと猿轡をかまされている。隣の会議室からはゴンゴンと鈍い音がする。窓の内側に血が飛んでへばり付く。航平が皮手袋を嵌めて部下たちを殴りつけていた。

「こういうとき進んで盾になるのが、てめえらの仕事だろうが。なんのために飼ってると思ってやがる。穀潰しどもが!」

 運転手の渡辺が、折れて血が止まらない鼻を押さえながら航平にすがる。

「か、堪忍ひてください、ひゃちょー」

 航平は聞く耳を持たず、渡辺を蹴り上げた。全治二週間の見せしめだ。椅子に座って手袋を外す。

「お客様を丁重におもてなししろ」

 殴られた部下たちはわれ先に会議室を飛び出していく。残された航平が改造剣を弄ぶと、切っ先が指に刺さった。

(つっ。針みてえな剣…フェンシングか?だが、こいつはスポーツに使うような健全な道具じゃあねえな)

 指から出た血を見つめる。フェンシングの事はよく知らないが、確か切っ先はゴムカバーで覆われているはずだ。そうでなければ毎試合怪我人が出るだろう。対してこの切っ先には、やすりで研いだ跡が見受けられる。

 大真面目の襲撃ってか?だがプロでもない。本職ならもっと手っ取り早い道具を使う。俺なら日本刀だ。とち狂ったド素人ならせいぜい包丁かナイフだろう。狂ってもいないのにこの素人は、自分にみ合った武器で俺を襲ったわけだ。気色わりいな。信也の財布の中を調べると東西銀行の社員証が出てきた。「投資部 武田信也」とある…そうか…あの武田の息子が同じ会社にいたはずだ。航平は応接室に向けて叫ぶ。

「おい!ちょっと待て」

 本当にお客様のようだ。航平が応接室に入ると、部下たちはソファに寝かせた信也を囲んで立ち尽くしていた。

「どうした?」

 静まり返った中、かすかに寝息の音が聞こえる。航平がアイマスクを取ると、襲撃者の寝顔が微笑んでいた。

「ハ、こいつ面白えな。面白えわ」

 笑いながら航平は、向こうから飛び込んできた獲物をしばらくは大事にしてやらねばと思った。



つづく


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