1月31日午前10時、わたしたちはゾーイ近郊のニナ湖畔にいた。
中央軍団全軍が小休止を取っていた。
真冬にしてはわりと暖かい日で、気温は10度くらいあった。
晴れて日射しもあり、気持ちの良い日だった。
ジルベールは砂浜に座り、熱い紅茶を飲みながら、凪いだ湖を見ていた。
わたしは彼の隣で、たっぷりと砂糖を入れた紅茶の甘味を楽しんでいた。
ここで亡くなったというクルト王子のことを思い出した。
「お兄様の死の謎は解けたのですか?」
ふっと口をついて出てしまってから、訊いて良かったのかどうか悩んだ。
兄が殺されたかどうかなんて、センシティブな話題すぎる。
「事件性はなかった。兄は溺れて死んでしまった。それだけだ」
ジルベールがあっさりと答えたので、わたしの悩みは解消された。
改めて、ご冥福をお祈りした。
異変は、紅茶を飲み終わったときに起こった。
全天にわかにかき曇り、北風が吹きすさび、雹が降ってきた。
気温が急速に下がって0度になり、さらにぐんぐんと寒くなった。
雹は大粒の雪に変わり、たちまち地表に積もり始めた。
カイシュタイン山の寒さを思い出した。肌が痛いほどの寒さ。
急激に大寒波がやってきたのだ。
ニナ湖が見る見るうちに凍っていった。
通常の冬服程度では、生存が危ぶまれるレベルだ。
「クロエ、これは?」
「まちがいなく太陽神の攻撃です」
熱の放射を極度に弱めて、あらゆるものを凍結させようとしている。
「季節の魔法を使ってくれ」
「はい。水晶はありますか?」
「もちろんだ」
ジルベールは周囲にいた兵士たちに向かって叫んだ。
「水晶をクロエの前に置け!」
大勢の兵士が背嚢から水晶を取り出し、わたしの前に積み上げた。
大量の透明な結晶。これがあれば、わたしはソルと戦える。
立ち上がって、呪文を唱えた。
「極寒の冬よ、凍える寒波よ、鎮まり給え。エリエルの末裔クロエの願いを聞き、水晶の中に籠もり給え。生命ある者たちに憐みを!」
両手を天にかざし、つづいて手を合わせて祈る。
この世界の秩序は、数多の神と天使と精霊によって維持されている。太陽神は強大な力を持つけれど、彼ひとりで支えているわけではない。ソルは人間を嫌っているが、逆に人々の営みを愛おしく想っている神、天使、精霊もいる。わたしはエリエル様から受け継いだ魔力を使って、その存在たちに言霊と祈りを届ける。
「人と獣と魚と虫と樹と草と花を救い給え。夏冬の聖女の願いを叶え給え。世界に少しばかりの暖気を!」
太陽神と逆らうつもりはなくても、そっと助けてくれるものたちはいる。
「ねえ、あの子の願い、叶えてあげてもいいんじゃない?」
「そうだね、ちょっと暖かくしてあげようか」
「地上の生き物が滅びるのはいやだな」
雪の神がひっそりと隠れ、氷の精霊が水に変身する。
風の天使が疾走をやめ、雲の精霊たちが散らばっていく。
光の神が輝き、花の精霊が躍り出す。
わたしは祈りつづけた。
生存を拒むほどの大寒波、大地を凍らせる冷気が白い霧となって、水晶に吸い込まれていく。
透明な結晶が白く染まる。
黒水晶と逆の性質を持つ白水晶が生まれていく。
ソルに逆らう行為だけれど、わたしは季節の魔法を正しいと信じている。
この世界を滅ぼすことはないでしょう?
狂った冬をあるべき冬へ……。
やがて雪が止み、風はそよそよと穏やかになり、空の雲はちらほらと浮かぶだけになり、地上に熱と光が降り注ぐ。
気温が上がっていく。
春の花がまちがえて咲いてしまうかもしれないが、わたしはさらに祈りつづける。
目の前の水晶がすべて白く染まるまで……。
「よくやったね」と言うエリエル様の声が聞こえたような気がした。
「ありがとう、クロエ」とジルベールが言った。
「これはわたしの使命です。当然のことをしたまでです」
「それでも私たちは助かったのだ。礼を言わせてくれ。クロエのおかげで世界は救われた。本当にありがとう」
なんだか面映ゆい。
「寒さを追い払ったのは、おまえの力なのか、クロエ?」
檻の中で鼻水を凍らせていたサイラス王が言った。
「そうです」
「魔女ではなかった……?」
黒水晶魔法をまがまがしいと勘ちがいする人はいる。爆弾にもなる危険物だし。サイラス王もそのひとりで、早とちりして、わたしを国外に追放したのだ。
「わたしは聖女なんですよ」
「うぐ……」
彼は泣き出した。
「なにもかも、ボクがまちがっていた。ごめん、クロエ。許してくれ……」
「あなたがしたことは許せそうにありませんが……」
わたしは自殺を考えたほど苦しんだのだ。
「本当に改心したのですか?」
「したよお。許してえ……」
「仕方ありませんね。許します」
ジルベールはいったん氷結し、溶けたニナ湖の水面を眺めていた。
「すさまじい力だな。白水晶も兵器として使えるのか?」
使える。大穴を開けて冷気を浴びせれば、人間は凍死する。
でもそれは秘密だ。
「できませんよ。夏の冷房として使えるだけです」
「そうか」
王子は兵士たちに白水晶の回収を命じ、背嚢に入れさせた。
中央軍団はゾーイに向かって進み始めた。