昼下がりの教室はランチボックスから香り立つ料理の匂いたちで埋め尽くされている。母が仕事の日は学校の購買で菓子パンを四つほど買うモカだが、今日に限ってはその感情が少ない。
袋を破り、ガサガサと真ん中の切れ目にジャムが塗られたコッペパンを抜き出して、小さく齧る。大量生産されるごく普通のそれは、何となく味がしない。ぱさぱさした塊にゼリーのような弾力のある液体が口を蹂躙しているような、ある意味で不快感が舌を襲っていた。
「お疲れ、モカ」
ぼーっと、ただパンを齧っているだけのアンドロイドになっていた彼女は、掛けられた声音を聴き損ね、下から覗かせるように目線をやった裕翔は彼女の瞳に神妙な面持ちを向けていた。
「どうしたの? ぼーっとしてさ」
「のわぁっ?!」
椅子から転げ落ちそうになって慌ててバランスを取る。突拍子もなく現れた顔面はホラーゲームの一面蒼白のお化けに見えてしまったのだ。
「急に声、掛けないでよ」
「呼んだんだけど、反応がなかったからつい」
気さくに笑う裕翔へ、モカは返す言葉に窮した。彼はもう知っているのだろうが、あえて普通を演じる演者に成り代わっているのか、それともただ向こう見ずなだけなのか。それを訊ねようとすると口の端が見えない何かに突っかかって動かない。
すると裕翔がチラリと机の上に視線を落とす。午前中も珍しく会話がなかった二人の間と少ないパンの数。訝り寄って固くなった眉間の皺がだんだんと再びモカの元へと上がってくる。
睨まれているようで窓の外に顔を背ける彼女の反応から、機嫌をそれとなく察した。そしいて明楽な声のトーンが落ち着いて、慰めるような穏やかで優しい表情にすり替わる。
「何か、あった?」
「……別に」
裕翔自身、彼女がどんな目に遭ったのか、知る筈もなかった。オタサーとは連絡先を交換していないし、モカともメッセージアプリでは話すが、自分から話題や用件が無い時は基本的に開きもしない。三日間ログオフしていた彼女のアカウントにほんの些細な違和感を覚えていたが、経験則からしてまた街づくりに勤しんでいるだろうと思い込んでいた。
登校日が訪れていつもの時間に歩く通学路に彼女の背中がないことが気がかりだった。これも遅刻の常習犯として前学期はクラス中に名を知らしめていたし、最近はめっきり減ったそれがぶり返しでもしたのだろう、なんて浅はかな考えに至っていた。
が、ここですべてがひっくり返る。これまで行動には原因が存在していた。沈没している彼女の表情や仕草が目につくと思ったら、予感は的中しているようだった。
「別に、じゃわからないよ……お母さんと喧嘩でもした?」
「そうじゃない」
「じゃあ……データが吹っ飛んだとか」
「……」
二つ目で早くも首を振るだけになったモカ。三つ目を問い出そうとした途端、冷徹なツツラが裕翔の鼓膜を振るわせる。
「少し、放っておいてほしいんだけど」
誰と話す気分でもない。それに裕翔の顔を見るだけでも、溜飲が喉のすぐそばまで上がってきそうだった。
「……ごめん」
それが優しさに対する冒とくだと語った後に気がついてモカはアリの吐息のような声で謝る。
「いや、いいんだ。こっちこそ空気読めなくてごめん」
流れる空気が氷点下まで冷え込んで、会話がないまま数分が過ぎ去ってしまう。ネガティブになっているのはまだいい。けれど心配を無下にするのは、裕翔に申し訳ないと悔やむ。
眼を逸らし、辛気臭い雰囲気の二人へ遠くから覗いていた目線が近づいてくる。自分の机から持ってきた座席をモカの横にくっつけると、その少女はポンポンと頭に手を翳すように撫でた。
「よく頑張ってましたわよ。あなたは」
「おた、秋葉さん?」
思わずゲーム内のユーザーネームで反射的に呼んでしまいそうになって、慌てて直したモカは、優しく叩かれている頭をその小さな力に負けて下げていく。
顛末を知り、自暴自棄になって部隊に顔も見せなくなった顔を現実世界で見つめながら、御子は思いの丈をやっと伝えることが出来ると安堵したような微笑みを彼女へ差し向けて撫で続ける。
「我武者羅に私めの仇を取ってくださろうと奔走する姿。ジャックさんやカーリングさん、そこで身を粉にして戦った皆様が仰ってましたの」
「でも……私は御子を犠牲にした。助けられなかった」
「いいんですの。助からなかったのは重々承知しております。それを咎めたり、責め立てようなんて気はないんです」
「……でも私が私自身に納得がいかない。またあんな取り返しのつかないことを」
「だから、もういいんですよ。終わったことですもの。それに」
否定を続けるモカ、上塗りするように否定を捻じ曲げ、あの戦場での出来事を肯定する御子。対極的な二人の言葉が擦れ合うたびに、彼女の暗闇を刹那のアークが照らしていく。しかしその灯りはまだか弱く道は映らない。
一筋の光。手を伸ばせば届き、けれどモカは頭を抱えて逡巡してしまう。青い火花はやがて点から線になり、彼女の腕を引き寄せようと近づいていく。
「皆さん、待っていますわ。あなたの戦車も用意して」
「私の……?」
「えぇ、パーソナルカラーのあの色に塗り替えて」
「戻っても……いいんですか?」
「え?」
「ダメな私でも、戻っていいんですか」
「モカ……」
自虐は虚しく、されど御子の心に焼き付くような悲惨さを物語っている。カーリングのように憤りという感情ではなく、悲哀に満ちてモカの肩に両腕を回し、抱き寄せた。
「天性というのは時に残酷です。私だって羨望するその力がございますのに、それをまるで自分勝手に棄てようとして。私は無念で無念で、仕方ありませんの!」
「私に天性なんか」
「あるでしょう。わずか一か月で発売当初からやり込んでいた面々を出し抜くのは、努力や才能以外の言葉でとても片づけられません。もう一度、一度だけでいい、あの世界で鋼鉄の騎兵に跨って、私たちを率いてくれませんか?」
蒼穹の線、青い電撃の腕がラヴェンタ、モカを掴んで、水底に落ち込んだ彼女の戦意を引き揚げた。感涙で目の前が霞み、涙は昨夜の跡を洗い流すように頬を伝う。
やがてぽたぽたと無欠だった御子の制服に藍色の水玉を射していく。
懺悔の時間は終わりを迎えた。ただ私は突っ走ればいい。もう味方の散り様を見なくていいように、前に進めばいい。見出した答えが、連れ出してくれる。
モカは誰もが戒めたくて、八つ当たりをしたくて怒鳴っているわけではなかったのだと気づく。遠まわしにカーリングが伝えようとしていたことは、独自解釈だけれど理解することが出来た。
答えは一つじゃない人の意思を詮索するつもりもなかった。モカはしばらく泣いた後立ち上がり、追加のパンを買いに購買へ走る。
泣いていたら腹が減ってしまった。その背中に御子と裕翔は目配せを交わして、微笑みを見せあった。