「わ、たし……」
息子はもうこの町にいない。ここにいても、息子には会えない。
「本当は……」
そんなこと、とっくの昔に分かっていた。
だが、女には息子の居場所を探し出すことができなかった。縁が途中で途切れてしまっていたのだ。この町の中に残っている僅かな縁をよすがにするしか無かった。この町の中に閉じ込められてしまった自分には、息子と同い年くらいの少年達からほんの少しだけ楽しい思い出を引き抜いて、息子と同じ時を過ごすような心地になることだけが唯一の慰めだった。しかし、もうそれすらも止めなければならない。ならば、自分はこれからどうしたら良いのかと、女は途方に暮れてしまった。
何も答えない女に呼び掛けたのは、漸く意識を取り戻した巫女さんだった。いつの間にか涼佑に巻き付いていた黒い靄は晴れ、またその姿を隠してしまったようだ。巫女さんは少し咳き込みながらも、か細い声で告げる。
「縁を、辿れ」
「巫女さん、気が付いたのか」
涼佑の手から自力で立ち上がろうと巫女さんは少しだけ彼の体を押し、自分の足でしっかりと立つ。数歩、女に近寄ってもう一度、今度ははっきりと告げた。
「お前と息子が持つ縁を辿れ。親子の縁ってのは、そう簡単に切れない筈だ」
「で、でも……でも、私……」
「じゃなければ、これを持って行け」
しゅるり、と髪留めにしている御札のうち、一枚を取った彼女はそれを小さく折り畳んでから一度ぎゅっと握り、放す。広げられた掌には緋色の小さなお守り袋がぽつんとあった。表面には『縁結び』と刺繍してある。それを巫女さんは女の手にしっかりと持たせてやった。
「これは……?」
「神社でよく見るだろ? 縁結びのお守り。それに強く念じてこの町を出るんだ。そうすりゃ、息子と会える」
「もう悪さするなよ」と言った巫女さんを見上げて、女はお守りを大事そうにぎゅっと抱き締めた。これがあれば、大丈夫。そう思ったのか、先程の様子とは打って変わって、白い女基篠崎美咲はすくっと立ち上がった。
そうして、ぺこりと涼佑達一人一人に頭を下げ、女は晴れ晴れとした顔で涼佑と巫女さんに向き直り、口を開いた。
「ありがとう、巫女さん。それから、ごめんなさい。あなたにも、あなたのお友達にもとても悪いことをしてしまったわ」
「あ、いえ、そんな……」
急に畏まった態度になった女につられて、涼佑もぺこりと頭を下げる。美咲ももう一度、礼を返してからまたお守りを見つめて微笑み、背後へ振り返って襖を見た。
「あの襖ね、息子が好きだったのよ。『ママが好きな柄だから、僕も好き』って言ってくれたの」
「優しい息子さんなんですね」
そこで少し驚いたように涼佑を振り返った美咲は、また優しく微笑んだ。
「ええ、そうね。だからかしら、一目であなたに惹かれてしまったの。本当にごめんなさいね。それでは、私はもう行きます」
「はい。きっと、息子さんに会えますよ」
「ふふ、ありがとう」
ふと、頭上の梅の花が揺れ始め、この世界の終わりを告げているのだと涼佑と巫女さんは直感した。花びらが降る量が増え、少年達の記憶もぽろぽろと花に混じって落ちてくる。それらは地面に付く前にどこかへ浮かんで、じわっと滲むように消えて行った。次第にぶわり、と大量の花びらが舞い、涼佑達と美咲の間を遮るように降ってきた。去り際、美咲は微笑みを絶やさずに確かに言った。
「少しの間でも、息子の代わりになってくれて、ありがとう。それとあの男、夏神明貴には気を付けて」
「え? あの――美咲さんっ!?」
最後の一言はどういう意味か、その真意を問おうとした涼佑だったが、美咲の体から溢れる白い光に目が眩み、思わず腕で影を作ろうとする。その光に飲み込まれるようにして再び彼は意識を失った。
ばっと一瞬で紅梅は散り、花びらは全て地面に広がる。その様はそこだけ紅梅の絨毯を広げたようになっており、涼佑はその上に倒れていた。もう何の気配も不気味さも感じないその場所に、真奈美達はわっと駆け寄る。
「涼佑くん! 涼佑くん!」
「怪我してないっ!?」
「……大丈夫っぽい。ただ気を失ってるだけ?」
「分かんない……」
「う……うぅ……」
周囲でかしましい三人娘の声に起こされた涼佑は、ゆっくりと目を開け、覗き込んでくる三人娘の顔をぼけっと見つめていた。未だ少し意識が覚醒しきっていないのか、少し眠そうだ。そのうち一番近くにいた真奈美の顔を認識すると、彼はのそりと片手を挙げる。
「おお、まなみ……ありがとな」
「……本当に、涼佑くん?」
「んぇ? うん……」
寝ぼけながらもそう応えた涼佑の額に照準を合わせ、真奈美はぺちんっとデコピンをした。突然の痛みに「いてっ」と額を摩りながら涼佑は不思議そうに彼女を見る。
「なんだよぉ」
「涼佑くんのバカ。お礼なんて言ってる場合じゃないでしょ」
「心配したんだからね」とちょっと怒っている真奈美に、涼佑はふにゃっとした笑顔で朗らかに答える。
「そっか。ごめん、心配してくれてありがとうな――って、真奈美達がいるってことは、ここは現実?」
「おっそ! 今更!?」
絢の呆れたと言いたげな言葉を半ば無視して、涼佑は急いで立ち上がり、梅の木を見上げた。以前はあんなに咲き誇っていた梅の木は花が全て散ってしまい、本来の枝振りを見せている。この季節に相応しい姿になった梅の木を見ても、以前のような妙な気配は欠片も感じない。本当に美咲はここから解放されたのだろうか。何だか久しぶりに感じる靴越しの地面を踏みしめ、涼佑は傍らにいる筈の巫女さんに呼び掛けた。
「巫女さん、美咲さんは?」
常と変わらない姿で再び現れた巫女さんも彼と同じように梅の木を見上げる。そうして、少しの間、梅の木と周囲を見回して首を振った。
「いや、いないな。おそらく町の外を目指してここを離れたんだろう」
「そっか。だったら、良いんだけど」
安心したようにほっと胸を撫で下ろす涼佑に、巫女さんはどこか硬い声で続けた。
「それより、涼佑。お前、美咲との別れ際に言われたことがあったろ」
「え? ああ、あれか。確か、夏神に――」
その瞬間、乾いた発砲音のような音が辺りに響き、涼佑の足元を抉った。幸い、銃声に驚いた涼佑が飛び退いたお陰で、銃弾に足を貫かれるようなことは無かった。咄嗟に傍らにいた巫女さんは実体を持っていない状態にも拘わらず、腰に提げた刀の鯉口を切る。
「な、なにっ!? 誰だっ!?」
涼佑も一拍遅れて近くにいた真奈美達を背後に庇おうと、彼女達の前に腕を広げるも、その腕から身を乗り出すようにして絢が梅の木を指した。
「あそこ、誰かいる!」
絢が指した梅の木。花が散った枝に紛れ、曲がった幹の上に誰かが立ってこちらを見下ろしていた。しかし、背後に昇った月の光で顔は見えない。辛うじてシルエットから、それが男だというのは分かった。男は手に持っていた銃を下ろし、忌々しげに舌打ちをする。
「チッ……代わらなかったか」
その一言だけで皆、それが誰なのか分かったが、普段の彼とは全く違う声音に誰もが自分の耳を疑った。信じられないと思う反面、頭の片隅でいつかはこうなるのではないかと半ば確信していた涼佑は、その名前を口にする。
「お前、夏神だよな?」
「え? うそ……」
涼佑の確信を持った一言に、絢がショックを隠しきれずに呟く。彼の一言に幹から下りた男は再び銃を構えて、撃った。二発目の銃声が鳴り、またしても涼佑の足元が抉れる。驚き、短い悲鳴を上げて後退る三人娘を涼佑は尚も庇った。外した、というよりは狙っていなかったのだろう。梅の木の陰から現れたのは、やはり夏神明貴本人だった。今にも三発目を撃とうとリボルバー銃を構えた夏神は、不敵な笑みを浮かべて言った。
「だったら、何だよ。単なる依り代が」