翌日、実体を持っているうちに独自に調査をしようと思った巫女さんは真奈美に要らない服はないかと訊いて、彼女のジャージを借りた。中学生の時に使っていた物らしいが、巫女さんは彼女に礼を言いつつ、内心「『要らない服をくれ』と言われて、本当に要らない服をくれるとは」と少々驚いていたが、制服でなければ何でもいいかと受け取ったジャージをこれまた要らない紙袋に入れて貰った。真奈美の家を出てどこかで着替えるしかないなと考えつつ、制服に着替えた巫女さんはジャージと空の鞄を持ってさっさと一階へ降りて行ってしまった。
朝食を食べ終わり、当然のように真奈美の母は巫女さんの分まで弁当を作っていたようで、タッパーに詰められたサンドイッチを差し出された。悪いし、自分はコンビニで済ませると一度は断った巫女さんだったが、「いいから、いいから」と押し切られる形で持たされることになった。
「返しに来れないかもしれません」
「その時は真奈美に持たせちゃっていいから。ね?」
「……分かり、ました。ありがとうございます」
断るのも何だか面倒に感じてしまった巫女さんは、諦めてそうすることにした。弁当を鞄にしまい、真奈美の準備もできると彼女は真奈美の母に振り返って「お世話になりました」と頭を下げた。真奈美の母は気の毒そうな顔で口を開く。
「いいえ、このくらいお安いご用よ。また何かあったら、遊びにいらっしゃい。泊まっていっても良いから」
「あ、はい」
厭に親切な態度を取られて、巫女さんはどうしたらいいのかよく分からないという様子で曖昧な返事をする。果たして、またこのようなことが起こるかと言われれば、そうそう起こらないとは思いつつ、巫女さんは直ぐ様その思考を消し去った。余計なことだと口を噤んでおこうと彼女は心で決めた。巫女さんと真奈美の母が弁当を巡って話している間に、真奈美も自分の弁当を鞄に入れて玄関に向かいがてら、巫女さんに声を掛けていく。
「早くしないと遅刻するよ」
「おわっ。そうだ。じゃあ、すみません。私ももう行きます」
「はい、行ってらっしゃい」
その何気ない一言に巫女さんは思わず、足を止めた。こんな言葉を掛けられるのはいつ振りだろうとつい感慨に耽りそうになったところで、慌てて頭を振って真奈美の後を追った。
真奈美とはトンネルを抜けると別れ、そのまま巫女さんは橋を渡って住宅街の方へ急ぐ。取り敢えず、制服のままでは目立つので、どこかで着替えたいと周囲を見回しながら歩いていると、はっと彼女は近所の公園のことを思い出した。確かあそこには公衆トイレがあったなと同時に思い至る。以前、涼佑が言っていたことにはあのトイレは最近、改装されたばかりでまだそんなに長く使われた訳ではない。比較的清潔な場所で着替えられそうだと思いつつ、巫女さんは公園へ急いだ。
公園に着くと、周囲に誰もいないことを確かめた巫女さんは女子トイレに入り、一番奥の個室に入る。ドアを閉め切ると、巫女さんは否が応でも懐かしい気分に浸ってしまった。着替えている途中でつい手が止まってしまい、昔のことを思い出そうと思考が現在ではなく、記憶の中を探ろうとする。しかし、今自分が置かれている状況を顧みて無理矢理意識を目の前のことに向けた。
ジャージに着替えるとすぐに巫女さんは個室から出て、制服の入った袋を手に持ったまま、真っ直ぐ図書館へ急ぐ。本当はこの袋をどうにかしたかった彼女だが、金銭も持っていない身の上なので駅前のロッカーを使うこともできない。不本意だったが、補導される覚悟で彼女は足早に歩を進めた。
しかし、巫女さんの予想に反して誰にも見つかること無く、図書館に辿り着くことができた。目的は過去の新聞記事。それも、あの梅の木周辺で起こった事件や事故について。入り口の自動ドアをくぐる。ジャージ姿の彼女が入って来ても、カウンターに就ている数人の司書は特に気にした様子は無い。それどころか顔すら上げないので、巫女さんは少々不思議に思いながらも、これ幸いとそのまま真っ直ぐ地方新聞の棚へ向かった。最初に手をつけるのは本棚に入っている資料か、その近くのラックにぶら下がっている新聞記事にしようか逡巡した後、巫女さんはすぐ終わりそうな最近の新聞記事を手に取った。見出しだけに注目してパラパラと記事を捲る。一社の新聞を見終わったら、次、また次と手に取って捲り、全てのページに目を通してそれらしい記事が無いと分かると、すぐに本棚の方へ近付き、その中の一冊を手に取ろうとした。
「!?」
ふ、と指が空を切ったことに巫女さんは瞠目する。確かに本の背表紙へ指をかけた筈だ。だが、その感触が無い。何が起こっているのか理解できず、巫女さんは自分の右手をじっと見た。よくよく観察すると、実体と魂にズレが生じているせいか、時折、体が透けるような微かな『揺らぎ』ができていると分かる。
「まさか……」
思えば、おかしな話だ。いくら八野坂町が長閑な田舎町だとしても、誰も彼女に何の反応も無いというのは、いくら何でもおかしいことなのではないか。先程の司書達の反応だってそうだと思い至った彼女は、ある一つの仮説に行き着く。
「涼佑の体が、死にかけてるのか……?」
この体の持ち主である涼佑の魂が奪われてしまったことで、巫女さんの依代として機能していただけに過ぎない彼の体が着実に死に向かっている。考えてみれば、彼の魂が奪われたのは昨日の夜。普通の人間なら、とっくに死んでいる筈だ。偶然に巫女さんが宿っていたから動かしていられるだけで、その時間ももう僅かなもののようだ。今日の夜まで保つかどうかも、分からない。これ以上、一人で行動するのは危険だと思った巫女さんは急いでその場から立ち去った。その後ろ姿を目で追う人物がいたことに、焦っている彼女は全く気が付かなかった。
制服のポケットの中でブルル、と震えるスマホに気が付いた真奈美は授業中だったが、音を立てないようにそっとスカートのポケットへ手を入れてスマホを取り出した。表示は涼佑からのメッセージだが、今は巫女さんからのものだ。何か急ぎの用事だろうかと思いながら、彼女は何気なくウィンドウをタップする。そこには放課後、図書館で調べ物をして欲しい旨と涼佑の体が死にかけているかもしれないということが書いてあった。つい驚きで声を上げそうになった真奈美は、慌てて口を手で押さえて周囲を見回す。幸い、周囲には彼女を見咎めるような目も声も無く、皆授業や教科書の陰でやっていることに夢中だ。教師にも気付かれた素振りは無い。ほっと一息ついて真奈美は巫女さんとの会話をスクリーンショットし、その画像を絢と友香里へメイムを通して送った。絢は真奈美の隣、友香里は斜め前の席と近いが、授業中にあまり目立つ行動はしたくない。そっと真奈美が二人の様子を観察していると、二人も真奈美と同じように自分のスマホを取り出し、画面を見る。文章を読んでいる少しの間の後、今度こそ絢が驚愕の声を張り上げた。
「うぇっ!?」
そのあまりの大声に黒板に例文を書いていた教師も他の生徒達もびくっと一瞬、震えて彼女に注目する。真奈美と友香里は絢の大声にスマホを見ていたことがバレやしないかと戦々恐々としていた。
「どうしたの? 白石さん」
「えっ? あ、え、えっとぉ……い、今窓の外に何かいたので、それで、びっくりしちゃって……!」
そう言いながら窓の方を指す絢だが、当然外には何もいない。いつもの校庭や街並みが広がっているだけだ。彼女の主張に皆首を捻ったが、男子が言った「寝ぼけてたんだろ?」という軽口に「うっさい!」と強気に返して、その場は流れていった。何とか誤魔化せたことに真奈美も友香里も密かにほっと胸を撫で下ろすのだった。