どんっ、という衝撃で体が飛んで行く。硬いアスファルトに打ち付けられた体には全く力が入らず、溢れる血と共に体温がどんどん抜けていくのが分かった。寒い。すぐに二つの丸い光越しに誰かがこちらを覗き込んでくる影が見える。びくり、と影は身を震わせて暫くの間立ち尽くしていたかと思うと、その場から急いで立ち去り、丸い光が遠ざかっていく。寂しい。もう自分では動けそうもない体を無理矢理動かそうとして、意識がぷつりと途切れた。
それを、川縁に咲く梅の木だけが見つめていた。
ある朝のホームルームで、珍しく松井が神妙な面持ちで注意を促した。
「最近、川縁に生えてる梅の木、あるだろ? 夜中、あそこに行くうちの生徒の姿が度々目撃されてるそうだが、暗い中じゃ危ないから川縁には近付くんじゃないぞ。何をしてるのかは知らんが、夜遊びも程々に。親御さんに心配掛けるなよ。はい、じゃあ、今日のホームルーム終わり」
その言葉でホームルームが終わり、松井が出て行くと、噂好きの女生徒達は「やっぱり、あそこの人魂見に行ってんのかな?」や「松井せんせが注意するってことは噂は本当なんじゃない?」とかひそひそと話している。『人魂』という単語が聞こえたので、涼佑は思わず声に出すと、後ろの席の直樹が「やめろよぉ」と情けない声を上げた。数日前に『転ぶと死ぬ村』の怪異に出会った直樹はあの悪夢から目覚めると、霊が見えるようになってしまったらしい。今もふわふわと涼佑と直樹の間を『何か』が通って行ったようで、「うひぃっ!?」と妙な悲鳴を上げている。
「ま、巫女さんの話では、一度あの世に近い場所まで片足突っ込んだからなぁ」
「うぅ……これ、ほんとにそのうち治まるのかよぉ……」
あの怪異から脱出した後、直樹、絢、友香里はそれぞれ五感のうち、一つだけが少しあの世に近付いてしまったらしい。直樹は目、絢は耳、友香里は鼻でそれぞれ例の存在を感知できるようになった。夢を通じて一度擬似的に死んだことで、魂があの世に片足を突っ込んだからだろうというのが、巫女さんの見解だ。効果は一時的なもので、そのうち無くなるだろうと言われていたが、それまでずっと直樹は周りの霊達に怯える羽目になっていた。数日も霊が見える環境にいれば、慣れるものだろうと言う呑気な涼佑に直樹は必死な形相で「慣れる訳無いだろがっ!」と雄叫びを上げていた。
「オレにキレんなよ」
「だって! 涼佑がぁ……!」
「分かった分かった。今日はオレの弁当のおかず一個やるから」
「騙されねぇ。おれはそんなことで騙されねぇぞ……!」
「んじゃ、いらない?」
「いる!」
「いるんじゃん」
現金な奴、と涼佑が思っていると、否が応でも周囲の噂話が耳に入ってくる。
「昨日、目撃されたうちの生徒って、二年の先輩じゃない?」
「あそこってやっぱ、人魂見れるってほんとぉ?」
「らしいよぉ」
「ねぇ、今日の夜、見に行ってみようよ」
「行きたいけど、でも、こわーい」
きゃっきゃと、ある女子グループは楽しそうに肝試しの計画を練り始めている。一瞬、危ないから止めに入ろうかどうしようか迷った涼佑だったが、その様子を見越してか、傍らの巫女さんにそっと教えられる。
「涼佑、大丈夫だ。あそこの怪異に害は無い。放っておいても問題は無いだろう」
「え? 害は無いって、そういうのもいるのか?」
「ああ。人魂ってのは名の通り、単なる人の魂が現世に現れたもの。謂わば、思念だ。それだけじゃ、悪さはできないからな」
「あそこの梅の木は狂い咲いているが、それだけだ。別に大した霊力にもならんし」とやる気の無い回答に涼佑は「巫女さんがそう言うなら」と言い、すぐに忘れることにした。
梅の木というのは、八野坂第一高校の前に架かっている橋より少し下流の土手沿いに生えている大きな梅の木のことだ。何故か、昔から一本だけ生えているその木は例年よりかなり早く咲いている。まだ秋だというのに見事な花をつけているので、今年は狂い咲きだと母も言っていた。だが、元々植物にそれほど興味の無い涼佑は、そんなことすらすぐに忘れてしまった。
それから一週間後、いつものように登校すると、厭に欠席者が多いことに涼佑と直樹は気が付いた。ここ最近、何か病気でも流行っていたかと、二人して首を捻ってみるが、特に思い当たる節は無い。松井からもそんな話は聞いていないしと訝しみながらも、取り敢えずいつものように自分の席に座った。そんな二人の耳に、またある噂話が飛び込んできた。
「また増えたよね、休んでる人」
「知ってる? 休んだ人全員、あの梅の木に出る人魂見に行った人らしいよ」
「え? 私は人魂じゃなくて、心を取られちゃったって聞いたけど?」
「え? 何それ?」
「うん。なんか、あの梅の木見に行った人みんな、心取られちゃって別人みたいになっちゃったから休んでるって聞いたよ」
「えー、何それこわーい」
そんな会話が耳に届く。一連の会話を聞いて、涼佑は不思議そうに「心を取られた……?」と呟いた時、背後から「そうだよ」と肯定の声が聞こえた。振り返ると、丁度教室に入って来た夏神が涼佑達の後ろに立っていた。
「うおっ!? 急に後ろから話しかけてくんなよ、夏神。びっくりするから!」
直樹が威嚇気味にそう言うと、他の女子達に「あんたが勝手にビビってる癖に夏神くんのせいにしないでよね」と言われてしまう。そんなことは意に介さず、夏神は「ごめんね」と口パクで二人に伝え、「あの梅の木のせいで、みんなおかしくなってしまったっていうのは、本当の話だよ」と続ける。
「なんで、お前がそんなこと知ってんの?」
「うち、神社だから色んな話が入ってきやすいんだ」
以前、直樹に「神社のお坊ちゃん」と言われたことを少々根に持っているのか、やや皮肉を込めたような言い方だった。そこには特に言及せず、直樹は「そ、そっか……」とだけ返す。
夏神には未だ信用に足るものはあまり無いが、この話が本当なら放置する訳にはいかないと理解した涼佑は、何気なく「じゃあ、放課後。ちょっと行ってみるか。真奈美達も誘って」と答えると、直樹は明らかに嬉しそうな表情をし、涼佑に顔だけで感謝を述べていた。少し不信感を持ったまま、涼佑は夏神の方をちらりと見る。夏神は相も変わらず、にこにこと人当たりの良い爽やかな笑顔を浮かべていた。
やはり、松井から流行病の話などは無く、普段通りの学校生活を送った涼佑達は、常のようにまずは梅の木まで行ってみることにした。夜の方が人魂が出やすいという情報を真奈美が既に持っていたので、親には友達と勉強会をすると言って、涼佑は家を出た。
勉強会をすると誤魔化しの為の言い訳をしたが、集合場所の学校前まで行くと、皆それらしく見えるように荷物は大きめの物を持って来ていた。荷物はどうしようかという話になったが、今更誰かの家に置きに行くのは面倒だということになったので、梅の木に着いたら、近くに置いておこうという話になった。
「で、問題の梅の木なんだけど……」
そこで絢が七津川の下流の方を指した。ここからだと梅の木は小さく見え、少し色が濃い桜にも見える。直樹が「あれ?」と改めて訊くと、絢は頷いた。
「んじゃあ、行くかぁ」
「眠いけど、頑張る」
「寒いから早く済ませちゃおう」
口々に好きなことを言いながら、一同は梅の木を目指して歩き始めた。この時、皆気付かなかった。夜の川べりには明かりが殆ど無いのに、どうして離れた場所から梅の木だけが見えたのか。誰も気が付かなかった。