その時、二階から何かが割れたような音が響き、二人がそちらへ目を向けると、間もなく真奈美と絢の二人が非常に慌てた様子で飛び込んで来た。二人とも顔色が悪く、青ざめている。しかし、手にはしっかりとそれぞれの靴があり、すぐにでも出て行ける準備だけはしてある。二人の様子からもうこれ以上の長居は無用だと判断した友香里は、何か言及される前にさっと立ち上がった。
「で、では、すみません。お邪魔しましたっ。もう遅いし、私達これで失礼します! あの、おばさん。気を確かに持ってくださいね? 私、また来ますから」
訊きたいことは色々あるが、友香里の言葉に励まされて望の母は「え、ええ」としか答えられない。非常に慌ただしく、友香里は青ざめて何も言わない二人を連れて、出て行った。
二階から破砕音がする前、真奈美は最後のページを捲る。それまで散々『あの人』への恨み言が口汚く書かれていたページの先には、ある一文のみが書かれていた。その一文の周りには指で何度か擦ったのか、酸化した血だろうと分かる茶色い汚れが一文を囲むように付着していた。
これで私はあの人を
「……何なの、これ」
悍ましい感情の果て。それだけしか書かれていないそのページから何かとても強いものを感じた真奈美は、ふと視線を感じて顔を上げた。大きな窓の向こう、ベランダに『それ』はいた。
顔は見えない。逆光になっているというだけではなく、顔だけが真っ黒な『それ』は真奈美の目には影のように見えた。窓の外から真っ直ぐこちらを見つめ、かりかりとまるでこじ開けようとしているかのように右手の指で引っ掻いている。いつの間にかそこにいた、という事実と初めてこの世の者ではない者を見た衝撃は思ったよりも大きく、彼女は初め『それ』が何であるか、理解しきれなかった。『それ』に釘付けになっていると、真奈美の様子に気が付いた絢が同じように窓を見る。絢にも『それ』は見えた。真奈美を食い入るように見つめ、憎悪すら感じる一切光の無い目。透明な窓ガラスには大きな罅が入り、『それ』が中に入ろうとしていることに気が付くのに数秒も掛からなかった。咄嗟に真奈美の手と二人分の靴を引っ掴み、絢は蒼白な顔で階段を駆け下りる。次にがしゃんっ、と窓が割れる音が響き、リビングへ飛び込んだ絢は無言で友香里を数秒見つめ、何も言わずに玄関へ向かう。ただただ頭の中で「逃げなきゃ」という言葉だけが彼女を支配していた。
望の家から離れ、漸く知っている道に出て初めて絢は走るスピードを落とし、止まった。肩には同じように顔面蒼白の真奈美。後ろからは走り疲れてへろへろの友香里が息を乱しながら何とか付いて来ていた。彼女はやっと止まった絢の前まで来ると、途端に両手を膝に付く。
「ぜぇ……はぁ……はぁ……へぇぇ…………。きゅ、急に、どう、した、の。絢……」
元来、あまり体力が無い友香里の息切れ姿を見て現実を認識した絢は、真奈美の腕を下ろし、近くにあった家の塀に背中を預けて座り込んでしまった。真奈美もゆっくりと立ち上がり、依然として青い顔のまま、友香里に手を差し伸べる。彼女も絢と一緒に走ったせいですっかり呼吸が乱れていた。
「大、丈夫……?」
「それ……こっちの、セリフ。はぁ……」
少し呼吸が落ち着いたところで座り込んでいる絢に近付き、友香里は何があったのかと問う。絢と真奈美はふい、と顔を上げてただ一言だけ言った。
「望に会った。あいつ、私らのこと見てた」
真奈美達が出て行った後、一人残された望の母は無言で三人分のお茶を片付ける。彼女の頭の中では友香里の「望ちゃんの気持ちに応える」という一文のみがぐるぐると回っていた。その言葉を反芻していると、温かい気持ちになり、彼女の足取りを軽くさせる。茶碗を片付けて洗い桶の中を綺麗にし、食器を全て食器棚の中へしまう。そこまで終わってから彼女は「そういえば、さっき二階で何か物音がしたな」と思い出した。
「っと、その前に掃除機を掛けておかなくちゃ」
娘が死んでから暫く使っていなかった掃除機を階段下の収納から引っ張り出してきて、掃除機を掛ける。降り積もった埃を吸い込み、綺麗になったと確認して満足そうに笑んだ。それから彼女は掃除機をその場に置いてお気に入りの鼻歌を歌いながら、二階への階段を上がる。
二階へ上がると、何故か娘の部屋のドアが開いていた。娘の望がいなくなってから一度たりとも開かれたことの無いその部屋へ、彼女は嬉しそうに入って行く。中ではベランダへ続く窓が一枚割れており、寒々しい風が入ってきていた。つい、とそちらへ目を向けた彼女は心の底から破顔し、上ずった調子で感激する。
「まぁ、そこにいたのね! 望……! ――ああ、そうね。まず準備をしなくちゃいけないわね。ちょっと待ってて」
一体、誰に向かって話し掛けているのか。最早彼女には理解が及ばない。誰もいない空間へ愛おしそうに手を伸ばしそうになったところで、彼女は娘の学習机へ振り返った。その中のチェストに近寄り、予め用意していたのか、取り出したナイロンのロープをまるで旅行の準備でもするかのように至極楽しげに、何重にも巻き付け始める。まるで何かの記念日の時のように嬉しそうに。何度も何度も何度も何度も。そうして、絶対に解けないだろうという状態にした後、ロープの端を娘の使っていた鋏で切った彼女は、切った端を輪っかにしてみた。今度も絶対に解けないように念入りに確認し、そのまま窓へ近寄る。
「ええ、分かるわ。友香里ちゃん。私はあの子の母親だもの。娘の気持ちに応えなければいけないわ」
割れた窓を開けてベランダへ出る。そうして、ロープを窓に挟むように閉めてから彼女は手摺りに身を乗り出した。輪っかにしたロープに首を通してみた彼女は空へ向かって両手を振り上げ、いっそ歓喜の涙すら流しながら声を高らかに身を乗り出し、落ちて行く。
「ありがとう、友香里ちゃん! もう寂しくないわねっ! 望っ!!」
背後でがごんっ、とチェストが窓に思い切り当たっていく音を聞きながら、彼女の体は宙吊りのまま、壁に打ち付けられ、暫し藻掻いていたかと思うと、完全に脱力した。
早く有力な手がかりを掴みたい。その一心で涼佑は休みの間、スマホや図書館で望の事故について調べていたが、本当に小さな記事しか引っかからない、見つからない。何も収穫が得られない中、ある地元新聞社のサイトに少し気になる記述があった。
「樺倉望さん(十六歳)の遺体が発見されたのは、七津川の下流。死因は大量の水を飲んだことによる溺死……」
「それは何回も見ただろう? 諦めた方が良いんじゃないか? それ以上の情報は新聞には――」
「いや、待って。これ、当時の遺体の状況が載ってる。七津川の下流で見つかったけど、その首には縦に引き裂かれた蛇の死骸が巻き付いてた……って」
「蛇の死骸?」
「でも、首には何かで絞められたような痕は無かったって書いてあるから……う~ん? どういうことだ? 尚、この蛇の死骸は樺倉と死後経過時間が異なることから、関連性は無いものとみられる。でも、おかしいよな。あの台風の日にわざわざ縦に裂いた蛇の死骸を捨てに行く人なんているのか?」
「ふむ……」
その奇妙な記述に二人はどうにも引っかかりを覚える。望と蛇の死骸など、一見関連性は無さそうに見えるが、完全に無いとも言い切れない。今は繋がりが見えないが、気になる事実だなと思った涼佑は覚えておいて損は無いだろうと、その部分をスクリーンショットして画像として残した。