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 みきが自分の部屋に戻った後、またすぐにコンコンとドアがノックされる。今度は何だと思い、ドアを開けようと涼佑がノブに手を掛けたところで、巫女さんが鋭い声を上げた。


「開けるなっ! 涼佑!」

「うぉっ!? いきなりデカい声出すなよ、巫女さ――」


 手元を見ずにそのままきぃ、と少しだけ開けられたドアの先を見た涼佑は、そのまま動けなくなった。巫女さんにも緊張が走り、咄嗟に腰に提げている刀に手を添える。僅かに開いたドアの隙間からは、あの影が覗いていた。今まで以上にすぐ近くにいるせいか、いつもは見えない部分が見える。その影は厳密には影ではなく、真っ黒い人間のような『何か』だった。ドアの隙間からこちらをじっと見つめるその目には生気というものが全く無く、真っ黒な虚無を映している。あまりにも距離が近くて、涼佑は悲鳴すら上げられずに、苦しげな浅い呼吸を繰り返していた。

『何か』は何も言わずに廊下に佇んでいた。顎までの短い髪からぽたぽたと雫が落ち、着ている制服を濡らす。青白い肌に紫色の薄い唇が、今目の前に佇んでいるものが死者なのだと否が応でも示している。ぐっしょりと全身が濡れたそれに釘付けになりながら、涼佑はただ動けずにいた。身動ぎすらできないでいる彼の視界に青白いものが映る。反射的にそれに目をやると、ドアの隙間から青白い手がゆっくりと差し入れられている。

 中に入って来ようとしている! 涼佑がそれに気付くとほぼ同時に、刀を抜いた巫女さんがドアの隙間を刺し貫こうとした。


「ちっ。やっぱり、駄目か」


 巫女さんからその言葉が発されると、重苦しい空気は消え、涼佑の体からも強張った力が抜けた。浅かった呼吸を整え、さっきまで『何か』が佇んでいた場所を怖い物見たさで、確認しようとドアを少し大きく開けた。一人ではすぐに確認など、無理だが、今は傍に巫女さんがいる。少し安心していた気持ちから、普段の涼佑ではあまり考えられない大胆な行動に出られた。


「う……そ、だろ」


 ついさっきまで、あれは現実ではないのかもしれないという淡い期待はそこに残されていたものに打ち砕かれた。涼佑の部屋の前にだけ広がる水溜まり。単に水を零しただけのように見えるが、よくよく見ると、砂と水草のような欠片が浮いている。何より、水っぽい中に腐ったような臭いが混ざっており、涼佑は思わず鼻を摘まんだ。


「……あまり時間は無いのかもしれないな」


 巫女さんが呟く言葉をどこか遠くで聞いていた涼佑は、翌日、母が「もう誰よ、こんなところに水零したの」と文句を言いつつ、雑巾で拭いてくれるまで一歩も部屋の外に出られなかった。




 翌朝、涼佑は宿題を全くやってないことに気付き、飛び起きて死に物狂いで取り掛かる。朝からなんでこんなに疲れなきゃいけないんだと自分の迂闊さと世の中の理不尽さを思い知り、教訓を一つ得た。宿題は早めにやろう。学生としてそんな当たり前のことを噛み締めて、何とか終わらせた彼は忘れないようにそのまま鞄に突っ込む。部屋から出る際、昨日の水溜まりが本当に無いかどうかだけを確認し、無いと分かると、涼佑は鞄を抱えてなるべく廊下の端を歩き、階下へ降りて行った。


 それからはいつも通りに登校し、休み時間に巫女さんに訊いたことをちゃんとまとめられているかノートを確認して、昼休みを迎えた。涼佑の高校は昼食は弁当なので、各自好きな場所で食べられる。天気の良い日は中庭に出て食べたりもするが、今日は人が多いところを避け、空き教室に昨日のメンバーが集まった。

 話し合いをしやすくする為、皆互いの顔が見えるように座って、食べながら昨日のトンネルでの出来事を共有する。涼佑の話は恐らく一番内容が濃いという理由で最後に話すことになった。と言ってもトンネルでのことは彼以外大した差は無く、皆懐中電灯を投げた辺りで記憶が途切れ、気が付いたら涼佑がその場に倒れていたという。前日に巫女さんが言っていた通り、涼佑と彼女以外は何も見ていないようだった。その間、真奈美はずっと何か思案しながら聞いているようだった。話している間は箸が止まるので、いつもより食べ終わるのが遅い。


「で、ここからはいよいよ新條の話よ。どう? 説明できる感じ?」

「うん。大丈夫。ノートにまとめてきた」

「真面目かよ」

「いや、だって、オレだって色々知りたかったし」

「巫女さん、新條君に何があったのかは教えてくれた?」


 友香里に痛いところを突かれて、涼佑は答えを窮した。非常に答えにくいと思いながら、取り敢えず「う~ん……」と声を出して考える。数秒稼いで言うか言うまいか判断し、決めた。

「それがさ、そこも訊いたんだけど、逆に巫女さんに質問されちゃって。何かオレは今まで巫女さんが憑いた人達とはちょっと違うみたいで……」


『今まで憑いた人達と違う』という部分を聞いた途端、皆一斉に涼佑へと期待の眼差しを向ける。直樹なんかは「おっ? おっ?」と隙あらば、ちょっとからかってやろうと顔に書いてあった。しかし、涼佑にとって『人と違う』ということは輝かしいものでも何でも無い。心の中でどこか自嘲気味に笑いながらも、真奈美まで目を輝かせて見つめてきたのは意外だなと思いつつ、説明を始めた。

 昨日巫女さんと話し合った内容を涼佑なりにまとめたものを話し終わると、真奈美は大変興味をそそられたようで、目をきらきら輝かせながら考え事をしている。絢が彼女に「ねぇ、真奈美。今までこんな事例あったっけ?」と訊いたが、彼女も聞いたことが無かったらしく、「いいえ。こんなことは今まで聞いたことも無い」と返した。彼女達も聞いたことが無いと聞くと、彼は「とうとうオレは一人だけちょっとヤバめな世界に片足突っ込んじゃってんのか?」と自分を疑いたくなる。


「でも、新條君が見たその空間には興味をそそられる。狸だから巣穴っていうのも、何かリアルだし。まだ確信は持てないけど、新條君が入った空間って、心象風景の世界だったりするのかも」

「心象風景?」

「他人の目には見えないけど、みんなそれぞれ自分の中にはあるじゃない? 印象に残ってる景色とか絵とか音楽、芸術だけに限らず、色々。そういうのをまとめて心象風景――イメージってこと」

「ああ、そういうことか。…………。そうなのかな。入ってた時はよく分からなかったけど」

「でも、それだって凄ぇじゃん。幽霊の中に入って、そいつのイメージを見られるって。絶対普通の人間にはできねぇよ」

「おい、それだとオレは普通の人間じゃないって言いたいのか?」

「おれはできないもん、絶対」

「否定しろよ! 主にオレが普通じゃないって部分を!」


 涼佑と直樹がぎゃあぎゃあ言い合っていると、不意に友香里が何か思い付いたのか「じゃあ!」と希望に溢れた口調で言った。


「新條くんは霊を正しく成仏させてあげられるってこと、だよね? それって凄く良いことしてると思う。この世に彷徨ってる人達が少しでも減って、安心して旅立てるってことじゃない?」


 彼女の言葉に、涼佑の心がいくらか救われたのは事実だ。彼自身、そう言われるまでそんな風に考えたことは無かったからだった。友香里の言葉に他の面々も納得したようで、一様にうんうんと頷く。


「そうかな?」

「うん! きっとそうだよ! 彷徨ってる魂を救ってあげることができるんだよ! 凄いじゃん!」


『救う』。その言葉は涼佑の中で燦然と輝いているように感じた。霊を救うというと、住職や宮司のイメージが強いが、そこに『涼佑にしかできない』という要素が加わると、何か凄いことができそうな気がしてくる。

 成仏という点では、巫女さんが付け加えてくれた話では、彼女の刀で霊の核を破壊すると、核を持っていた霊は成仏ではなく、消滅するのだそうだ。消滅とは、もうこの世からもあの世からも一切の痕跡を残さず、跡形もなく消えること。彼岸と此岸の境界を越えて害を成す者に、容赦などする必要は無いというのが彼女の考えだ。それはそれで一つの解決策ではあるが、涼佑はそれだけでは救いが無いと思えた。罰が重過ぎるのではないか。相手の理由によっては、思いを叶えて成仏させるという手段もあって良いのではないか。それを自分ができるかもしれないとあっては、彼はやりたいと思いそうになって、慌てて止めた。そもそも巫女さんに憑いてもらったのは、他でもない『あの影』を祓うことだ。あっぶね、と彼は一旦落ち着きを取り戻す。おだてられて、危うく全く関係ないことに手を出そうとしてしまったと涼佑は反省した。


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