歓迎会から2週間経ったある日、秋良は村瀬 寿 係長のデスクに呼ばれた。然し乍らそれは普段見られない厳しい表情で秋良を凝視した。
「伊東さん」
「はい」
「ここ暫く伊東さんの書類に不備が多いの。如何しちゃったの」
「不備、ですか」
「訂正印、押しまくりじゃない」
デスクには訂正の二重線と
(ーーーこんな覚えない)
「ほら、この申し込み用紙見てご覧なさい。お客様の住所が見えないわ」
「申し訳ありません」
「気を付けてね」
秋良はその新規申し込み用紙を手にデスクに戻った。隣の女性社員にも「分からない事があったら確認して」そう言われた。秋良にすれば身に覚えの無い事ばかりだった。
「ちょっーーーお手洗い」
これまで自分の業務には責任を持って望んで来た。
(ーーーなんで)
けれどその自信が傲慢さに繋がったのかも知れない。思わず目頭が熱くなった秋良はデスクを離れた。その後ろ姿を翔吾と高坂壱成の視線が追い一足早く高坂壱成が席を立った。
心の声A(あっ、また先を越された!)
心の声B(なにのんびり座っているんですか!)
心の声一同(早く立て!)
翔吾は意を決し勢いを付けて椅子から立ち上がると小走りで営業部フロアを出た。左右を見渡すとそこに高坂壱成の背中が見えた。
心の声C(今度こそ、踏ん張れ!)
翔吾は手を伸ばすと高坂壱成の腕を掴んだ。
「な、なんだよ」
「高坂、おまえ何処に行く気だ」
「それは」
「秋良んとこか」
上背のある2人が廊下の真ん中で睨み合っている。行き過ぎる他部署の社員たちは壁際でその遣り取りを窺い見た。
「そうだよ、俺の勝手だろう」
高坂壱成は翔吾の手を振り払うと秋良が向かったパウダールームへと踵を返した。翔吾は再びその腕を掴むと高坂壱成に詰め寄った。
「勝手されちゃ困るんだよ」
「なにが」
「秋良は俺の女なんだよ」
一瞬、間が空き高坂壱成は「成る程ね」と両手を上げた。
「なに笑ってんだよ」
「歓迎会の夜、伊東さんを部屋まで送ったんだよ」
翔吾は高坂壱成のネクタイを掴むと眉間に皺を寄せた。
「やめろって、会社だぞ」
「くそっ、で部屋に入ったのか」
「仕方ないからね」
「なんもしなかったんだろうな!」
「さぁね」
「おまえ!」
心の声一同(殴っちゃ駄目ですーーー!)
翔吾の握り拳は高坂壱成の頬を
「おっととと、気を付けろよ」
「離せよ!」
「離したら倒れちゃうよ、良いの?」
「クソっ!」
高坂壱成に支えられてようやく立ち上がった翔吾はその顔を凝視した。
「で、なんもしてねぇだろうな」
「してないよ」
「そうか」
「伊東さんの部屋で面白い物を見付けたよ」
「なんだよ」
「伊藤、おまえ不細工だったんだな」
「はぁーーー!?」
秋良の部屋には愛児園で撮影された写真が飾られていた。そこには天使の如く可愛らしい秋良と思しき女児と鼻の頭を真っ赤にした男児が写っていた。高坂壱成がフォトフレームを手に取って眺めると男児の右目尻にはホクロが有った。(この男の子は伊藤だ)秋良が翔吾に
「おまえ、整形したのか?」
「してねぇよ!」
「可愛くないにも程が有るわ」
そう鼻で笑うと翔吾の背中を押した。
「早く行けよ、おまえの女なんだろう?」
「お、おお」
高坂壱成は襟足を掻きながら営業部のフロアへと戻って行った。
秋良がパウダールームから出て来ると翔吾が腕組みをして壁に寄り掛かっていた。赤く腫れた瞼を見ると気の毒そうな顔でその手首を引いた。
「え、なに何処に行くの」
「係長には言って来た、珈琲一杯分付き合ってやるよ」
「そんな事しなくて良いのに」
「そんな顔で行ったら余計にみんな気不味いだろ」
「そ、そうだけど」
なにか気の利いた言葉を掛けたいが見つからない、他人を見下す言葉ならば次から次へと浮かんで来るのに泣き顔の秋良にどう接すれば良いのか翔吾は戸惑うばかりだった。
心の声E(だっせぇとか)
心の声D(だっせぇとか、なに言うつもりなんだよ!)
心の声A(ど、ど、ど如何するよ)
心の声B(大丈夫だよ俺がいるから、とか?)
心の声C(ばばばばば馬鹿かよ!)
心の声一同(ーーー黙っておこう)
翔吾と秋良は珈琲の缶を手に誰もいない屋上で初夏の風に吹かれた。救急車両の忙しないサイレンが響きやがて遠ざかって行く。沈黙が2人に重くのしかかり、翔吾が上擦った声で話し掛けた。
「書類の不備とかおまえらしくないな」
「ーーーー」
「変だなって思ったらおばちゃんに聞けよ、あ、気が付かなかったからミスったのか」
「でも、覚えがないの」
「なにが」
「あの書類に覚えがないの、大口のお客さまの満期契約だから見落とす筈がないの」
「そうなのか」
「うん」
翔吾には秋良が嘘を吐いている様には思えなかった。何かが引っ掛かった。
「戻ったらちょっと見せてみろ」
「分かった」
「なに、如何した」
「ーーーー」
秋良は空き缶を足元に置くと翔吾に向き直りその胸に抱きついて来た。匂い立つ柑橘系の爽やかな香と汗ばんだ腕、翔吾の心臓は跳ね上がった。
心の声一同(な、なんですとーーーー!)
「翔吾」
「な、なに」
「ーーーー」
胸に顔を埋めたくぐもった声、翔吾の腕は広げたまま行き場を無くしていた。
心の声一同(そ、そこだ!抱き締めろ!)
石の様に固まった腕が秋良の肩を抱こうとした瞬間、目の前の鉄の扉が開き翔吾と秋良はバネに弾かれる様に飛び退いた。
「あーーん、探しましたぁ♡」
「みっ、三笠」
「伊藤さん1番に外線入ってますぅ」
「そんなもん折り返しゃ良いだろう!」
「あ、そっかー♡」
ぎこちない動作の2人を後に三笠美桜は階段を降りて行った。その眉間には深い皺が寄り、唇はきつく結ばれていた。
三笠美桜が対応した外線電話1番の相手は秋良が失態を犯したとされる大手企業の保険担当者からのものだった。今回は電話口頭での注意で済ませる筈が三笠美桜の話し口調が馴れ馴れしかった為先方は立腹し、直接会社に謝罪に来るようにと申し付けられた。
「ごめんなさぁい♡」
申し込み用紙の書き損じは伊東秋良、申し込み用紙を回収した営業担当者は伊藤翔吾という事でこの2人で謝罪に行く事となった。面会の約束時間は16:30、直帰でも構わないと村瀬 寿 係長は秋良の肩を叩いた。
「こんな事もあるから、気を付けてね」
「ーーーーはい」
「じゃあ、伊藤くんお願いね」
「はい」
横目で見遣った秋良はやはり納得出来ない顔をしていた。
「大丈夫か」
「大丈夫」
「それでは行ってきます」
「申し訳ありませんでした」
「行ってらっしゃい」
その姿を見送った高坂壱成は書き損じた複数の保険申し込み用紙を訝しげな面立ちで眺めていた。