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第8話 急接近

 古民家風の居酒屋、簾暖簾すだれのれんを開けると勢いの良い掛け声が彼方此方から挙がった。


「へいらっしゃい!」

「三共保険ですが」

「はい、三共保険さんお2階へどうぞ!」


 軋む階段を上ると堀炬燵の長テーブルには既に数人の同僚が其々思い思いの場所に座っていた。


「遅くなりました」

「えっ、伊東さん!可愛いね!」


 秋良が普段と違うフェミニンな装いで部屋に入ると男性社員の視線が釘付けになった。そうなると翔吾は面白く無く、翔吾の気がそぞろな事に気付いた三笠美桜はその腕を引っ張った。


(あっーーーーまた!)


 秋良とすれば翔吾の横に陣取った三笠美桜の姿が気に入らない。これ見よがしに胸元が大きく開いたペールブルーのワンピース、後毛を散らしたハーフアップ、ピンクの唇は明らかに翔吾を意識したものだった。


(髪、切るんじゃ無かったーーー!)


 秋良はもう2度と恋などしないと腰まであった髪を切った事を初めて悔やんだ。


「はいはいはい、みんな座って」


 秋良は歓迎会の主役だからと上座に座らされ、枝豆や唐揚げの壁を越えたその遥か彼方の末座に翔吾と砂糖菓子が座っていた。


「はい、伊東さんと美桜ちゃんに乾杯!」

「かんぱーーい!」


 各々の手にビールジョッキが手渡され乾杯の音頭が取られた。


「はい、秋良ちゃん、呑んで呑んで」

「もう、もうそのくらいで」

「なにぃ、係長のお酌は呑めて僕のは駄目なのぉ」


 元来、秋良はアルコール飲料に滅法弱く迫り来る上司や同僚の酌と闘わなければならなかった。これでは赤ら顔の男性社員の対応で精一杯、翔吾にしなだれ掛かる砂糖菓子を想像して気ばかりが焦った。


「はい、呑んで呑んで」

「もう、もうお酒は」

「じゃあ唐揚げ、ピザが良い?枝豆?」

「す、酢の物を」


 酔いが回った秋良の太腿には年配の男性社員の手が置かれ、同僚は肩を抱きお猪口に酒を注いでいた。耳まで茹蛸ゆでだこ、鼻先はトナカイさながらの秋良は意識が朦朧もうろうとしていた。


「はい、伊東さん酢の物」

「ありがとうございます」


 助け舟を出したのは村瀬 寿係長だった。九谷焼の小鉢に金時草きんじそうとワカメの酢の物、烏龍茶のジョッキを手渡してくれた。


「はい、男性陣は散った!散った!」

「係長、そりゃ興醒めだよ」

「なにがよ!もう真っ赤じゃない!」

「秋良ちゃんもグビグビ呑んでたし」

「あんたたちこんなに酔わせてどうするつもりなの!」


 その怒鳴り声に思わず翔吾は席を立ち上がった。


(あいつ、そんなに飲まされたのか!?)

「あん、翔吾さま〜」


 翔吾の周囲にはここぞとばかりに女性社員が押し寄せ、その口に唐揚げを次々と押し込み否応なしにビールのジョッキを持たせていた。


「ちょっ、と!」


 立ち上がった翔吾は袖を引かれて再び席に座らされた。


「んが、んが!」

「駄目よ、翔吾さまは此処に居て♡」

「んガンガ!」


 三笠美桜の目論見もくろみは明らかで、酔いが回った翔吾をその辺りのホテルに連れ込み既成事実を作ろうという魂胆が見え見えだった。


「呑んで呑んで♡」

「も、もう」

「呑んで呑んで♡」


 豊かな胸の谷間の向こうに秋良と村瀬 寿係長の姿が見えた。言葉を交わしているがその秋良の顔は火照り村瀬 寿係長は不安げな面持ちで誰かを手招きした。その目線の先には高坂壱成が居た。


(ーーーーちょっ!)


 タクシーチケットを手渡された高坂壱成は秋良の肩に手を添えて立ち上がらせた。「もう帰るのか」「もうちょっと呑みましょうよ」と言う声に2人は会釈し階段の方に向かった。


(え、ま、まじか!)


 翔吾は周囲を取り巻く女性陣と三笠美桜の腕を振り解き慌てて階段を降り革靴を突っ掛けて店の外に飛び出したが2人の姿は何処にも無かった。


 如何やって部屋に戻ったのか覚えて居ない。気が付くと秋良は洋服を着たままベッドで朝を迎えていた。


「え、え!これは一体どういう事!」


 リビングテーブルにはポカリスエットと頭痛薬、一枚の紙がありメモには =鍵はポストの中に入れました 高坂= と書かれていた。


(は、はははははは)


 記憶が無い、しかも部屋に入ったと言う事実に秋良は七転八倒した。


(ま、まさかあんな事やこんな事)


 高坂壱成の性格を考えればその様な事は無い、着衣の乱れもない、そんな事は無い筈だ。


(無い、無いよねぇぇぇ!?)


 秋良は取り敢えず襲い来る二日酔いに耐えるべく頭痛薬を口に放り込むとポカリスエットのボトルキャップを力任せに捻った。





 如何やって家に戻ったのか覚えて居ない。気が付くと翔吾はスーツを着たまま部屋の床に転がっていた。


(・・・・ん?)


 襟元が涼しく首を締め付けていた紺色のネクタイが見当たらなかった。何気なく姿見を見遣ると首筋とワイシャツの襟になにか光る痕が付いていた。


「な、なんだよこれ」


 指先で拭うと淡い桜色で粘り気のある物が付着した。


「口紅、口紅だよなこれ」


 スーツのポケットやビジネスリュックの中を探したがネクタイは入っていなかった。念の為にマンションのエントランスまで見に行ったがそれは落ちて居なかった。


「起きたんか」


 父親が言うには翔吾は「タクシーで帰って来た」と話し、その隣にはビジネスリュックを手にした可愛らしい女性が部屋まで付き添ってくれた。


「お、親父」

「なんや」

「その女、何色の服を着ていた?」


 ゴクリと唾を呑んだ。


「あーー水色やったかな」

「み、水色」

「えらい胸のデカい女の子や。おまえの彼女か、ん?」

「違っ、そんなんじゃねぇし」


 水色の服、ピンク色の口紅、豊満な胸、付き添ってくれた女性が三笠美桜である事はほぼ間違い無かった。


(俺は階段を降りて)


 歓迎会の居酒屋を出たところまでは記憶がある。


(その後は、その後は?)


 翔吾はミネラルウオーターをコップに注ぐと一気に飲み干した。


 月曜日の朝は憂鬱だが今朝は特に憂鬱だった。翔吾と秋良は互いの目を見ないようにデスクに座った。書類の受け渡しも顔を見ず「はい」「どうも」と言葉を交わすだけで内線電話も「伊藤さん、内線2番」「どうも」の繰り返しだった。


「なに、あんたたち如何したの」


 こんな時、年配の女性は勘が鋭く思った事を遠慮なく口にする。


「え、別になにも無いですよ」

「はい、普通です」

「何処がぁ、歓迎会でなにかあったの」


 (ありました)(あったんだよ)


 翔吾と秋良は互いの顔を見て苦笑いをした。秋良としてはされたのではないかという疑念、翔吾は何処かのホテルにのではないかという疑念が脳裏で渦を巻いていた。


「はい、秋良ちゃんチェックお願い」

「はい」


 そこへ新規契約の申込書を持った高坂壱成が満面の笑みを湛えて現れた。秋良は一瞬怯んだが笑顔を作ってそれを受け取った。


「わーーー今週、1件目の契約ですね(棒読み)」

「うん、そう言えばあれから如何だった?」

「ど、如何とは?」


 翔吾の耳は大きく膨らんだ。


(痛く、痛く無かったーーーって、なにが痛いんだよ!)


「あ、はい。優しくして下さって嬉しかったです」

(やさ、優しくって優しくよーーー!?)


 よく見れば秋良の頬は桜色に色付いていた。そんな衝撃の事実を目の当たりにして動きを止めた翔吾の隣に三笠美桜が例の如く手作り弁当を持って現れた。秋良がその姿を横目で見遣ると手には見覚えのある物が握られていた。


「翔吾♡わ・す・れ・も・の」

(しょ、翔吾ーーー!翔吾さまじゃないの!?)


 秋良の目は大きく見開いた。


「え、これ俺のネクタイ」

(やっぱりーーーー!)


「翔吾ったら急いで、もう、やだ」

(なにを、なにを急いだのーーーー!?)


 よく見れば翔吾は耳まで赤らめ鼻先を指で掻いている。これは秋良がよく知っている、翔吾が嘘を吐いたり誤魔化す時の仕草だ。


(ーーーーーー)


 翔吾は弁当とネクタイを持ち、秋良は新規契約申込書を手に苦笑いをした。


 そして三笠美桜は翔吾と秋良のぎこちない所作に目を光らせた。それは、互いに意識し合っている事は明らかだった。


(ーーーーなによ、ばばあの癖に!)


 三笠美桜は実に面白く無かった。歓迎会のお開きの後、彼女は翔吾を繁華街近くのビジネスホテルに連れ込もうとした。ネクタイを緩め三笠美桜にもたれ掛かる翔吾は泥酔していた。


「ほら、翔吾さま、ホテルに着きましたよ♡」

「もう歩けない」

「そんな所に座り込まないでお部屋に行きましょ」

「部屋」

「そう、お部屋」

「もう部屋に着いたのか」


 ホテルの植え込みにしゃがみ込んだ翔吾は三笠美桜の手を取り立ち上がった。思い通りに事が運ぶとほくそ笑んだその時、翔吾が意外な名前を呟いた。


「秋良」

「え」

「秋良、ごめんな」

「秋良って伊東さんの事ですか?」

「秋良ぁ」


 日頃からデスクが真向かいというだけでなんの接点もなさそうな2人が個人的に通じ合っていた。三笠美桜は眉間に皺を寄せて翔吾をタクシーの後部座席に連れ込むと紺色のネクタイを外してショルダーバッグの中に仕舞い込んだ。


「伊東秋良より美桜の方が可愛いですよ♡」

「ーーーー」

「美桜の事を好きになります様に♡ちゅっ♡」


 桜色の唇を頬に寄せた三笠美桜はその首筋とワイシャツにキスマークを付けた。


「どちらまで」


 タクシー乗務員から行き先を問われた三笠美桜は躊躇う事なく翔吾の住むマンション名を告げた。彼女は社員名簿の個人情報も把握済みだった。


「プラザ寺町までお願いしまぁす♡」

「かしこまりました」

「この人をお家にお届けしたら戻って来ますから駐車場で待っていて下さいね♡お・ね・が・い・しまぁす♡」


 そして今、翔吾のネクタイを弁当と一緒に手渡し、歓迎会の後にかの様に見せ掛け秋良を威嚇した。


(こっ、この子)


 秋良は三笠美桜がたわむれで翔吾に構っているのだろうと鷹を括っていた。ところがそれは全くの見当違いで本気で伊藤翔吾に好意を抱いていた。


(この子、本気で翔吾の事が好きなのね)

(このクソババア、消えろ!)


 秋良と三笠美桜は好敵手ライバル、然し乍ら三笠美桜はやや厄介な気質の持ち主だった。



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