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第7話 桜の樹の下で

 翔吾はバスに揺られながらこれまでの自身の行いを悔いた。まさか一目惚れした相手が8年前、約束を反故した相手だとは思いも依らなかった。


(しかも名前まで忘れるとか鬼畜すぎるだろ)


 大きなため息、吊り革にぶら下がった顔が窓ガラスに映った。


(だっせぇ顔)


 そこで携帯電話が振動しLINEメッセージが届いた事を知らせた。


(誰だよ)


 翔吾はその目を疑った。思わず携帯電話の画面を二度見して吊り革を手放してしまった。両脚を床に踏ん張りLINEトークをスクロールするとと塩対応のメッセージが届いていた。


(ま、まじか!)


 聖マリアンヌ愛児園に程近いバス停は通り過ぎていた。翔吾は慌てて降車ボタンを押しビジネスリュックから定期券を取り出した。


「おっ、降ります!」


 慌てふためいた脚はタラップを一段踏み外した。レンガ畳みの歩道を走り大通りの赤信号で足踏みをした。人の波を掻き分けて急勾配の坂を降りると用水路のせせらぎと柳の樹、翔吾はポツポツと灯る街灯の下を出来る限りの速さで走った。


(ここ、ここか!?)


 額に汗が滲み息が上がった。見覚えのある景色、武家屋敷跡の土塀、3階建ての小学校、車2台が擦れ違える狭い道を左折すると懐かしいその場所愛児園の桜並木があった。


「あ」


 木造の園舎はコンクリート造りに形を変えていたが白い屋根の礼拝堂、教会のステンドグラス、避雷針と十字架、それは見覚えのあるものばかりだった。


「ここ、此処だ」


 電信柱の電灯に浮かび上がる白いベンチ、翔吾は小学校5年生の晩秋を思い出した。


(秋良、秋良は)


 周囲を見回したがそこに秋良の姿は無かった。もしかしたらこれは8年前の10月30日の仕返しのLINEだったのかもしれない。


(そりゃーーー怒るわなぁ)


 翔吾はその場から力無く立ち去ろうとした。するとその時、マリア像の陰から人影が長く伸びた。


「なに、あんたもう帰るつもりなの」

「え」

「根性なしね」

「秋良」

「あの日私はここで6時間あんたが来るのを待っていたのよ」


 そこには仁王立ちで腕を組んだ秋良が立っていた。秋良が言うには桜の樹には毛虫が居てベンチには座れないので園庭で話す事になった。


「勝手に入って良いのかよ」

修道女シスターには確認済みよ」

「そうか」

「あんたみたいに思い付きで生きて居ないもの」


 普段の翔吾ならば反論する所だが今夜は違った。


 翔吾は微妙な顔をしたパンダに座り、秋良はアシカには見えないアシカに座って10月30日の事を話した。秋良がお年玉を全額新幹線の運賃に注ぎ込んで富山県から会いに来たと話したので翔吾は財布を取り出して10,000円札を手渡した。てっきり「良いわ、要らないわ」と言われると思ったが、秋良は何も言わずにショルダーバッグに仕舞い込んだ。


「まじか」

「なにか文句ある?」

「まじか」


 貴重な10,000円札を失い茫然とする翔吾を尻目に秋良は「懐かしいからあれに乗ろう」とシーソーを指差した。


「これ、前は木で出来てたな」

「そうねあの変なパンダやアシカは居なかったわ」

「おまえ大丈夫なのかよ」

「なにが」


 シーソーを跨いだタイトスカートからは子鹿の脹脛ふくらはぎが伸び、薄暗闇の中でも太腿とその奥まで見えそうな気がして翔吾は顔を覆った。それを知ってか知らずか秋良は上下に脚を跳ね上げた。


「おまえ、意外と重いな」

「あんただってスーツ脱いだらビール腹なんじゃ無いの」


 確かにこうしていると小学校の頃の記憶が鮮明に甦った。姉だの何だのと理由を付けて会いに来なかったのは単純に恥ずかしかったのだ。


「私、あんたが初めて好きになった子だったの」


 逆光の中、秋良の表情は見えなかった。翔吾がまごついていると秋良はシーソーから降りてしまい翔吾は激しく尻を地面にぶつけてしまった。


「いってぇ」

「これで8年前の事は無かった事にしてあげる」

「え」

「おやすみ」

「え、ちょっ」


 秋良は背後で手を振ると一度も振り向かずに表通りへと歩いて行った。誰も居ない園庭に残された翔吾は秋良に伝えたい言葉を一言も伝えられずにその背中を見送った。


(くっそーマジ惚れたわ)


 翔吾が自分の気持ちに気付いた時既に遅し。高坂壱成は連日の様に新規契約を取り付けては秋良の元へ申し込み用紙を手渡しに来た。


「はい、チェックお願い」

「お疲れ様です、今週新規契約3件、すごいです!」

「頑張っちゃったよ」

「ふふふ」


 それを間近に見る翔吾の眉間には皺が寄り眉は吊り上がった。


「あんたどうしたのよ」

「なんですか」

「ドーベルマンみたいな顔してるわよ」


 隣の年配女性社員に指摘され鏡を見ると確かに眉間に皺が寄っている。そこで翔吾はメモ用紙にボールペンを走らせた。


「なに」


 そこには秋良と高坂壱成が恋人関係にあるのかどうか知っていたら教えて欲しいと書いた。すると「わかんないわよ本人に聞いたら?」と返って来た。そんな事を尋ねるなど愚の骨頂、その場で一発玉砕する事が目に見えていた。


 翔吾が鬱々とした日々を過ごしていると、今度は秋良が悶々とする出来事が起きた。それは長期研修に出向して居た女性社員の登場、名前は三笠 美桜みかさみおと言った。


「翔吾さま〜ただいま帰りました〜♡」


 察するところこの砂糖菓子の様な22歳は翔吾推しの1人で熱烈なファンらしい。毎日手製の弁当を差し入れボディタッチもさり気無く「あ〜、肩、凝ってますね〜もみもみしますね〜♡」と肩を揉みながら豊かな胸をグイグイ押し付け目に余るものがあった。


「あれは、なんなのですか」

「気にしないでいつもの事だから」

「はぁ、そうですか」


 秋良としては面白くない、思わず眉間に皺が寄り目尻が吊り上がった。隣の女性社員が一口サイズのチョコウェハースを手渡した。


「はい、ストレスには甘いものが一番よ」

「ストレス、ですか」

「般若みたいな顔してるわよ」


 慌ててパウダールームに駆け込むと眉間のファンデーションがよれていた。高坂壱成との浮き名が流れようともやはり想い人は小学5年生の時から伊藤翔吾一筋、今更あの砂糖菓子に奪い取られるなど言語道断だった。


(ちょっーーーちょっと若いからって!)


 ファンデーションを塗り直しデスクに戻るとバインダーが置かれていた。なんだろうと手に取ると出欠欄があった。


「歓迎会」

「そう、ちょっと遅くなったけど三笠さんも出向先から戻った事だし伊東さんの歓迎会をする事になったの。今週末の金曜日だけど空いてるよね?」

「行きます!」


 実はその日は以前から観たかった映画の最終日で鑑賞する予定だったが秋良は出席すると即答し出欠欄に印鑑を捺した。


(こ、こうなったら酔いに任せて告白!)


 「ーーすん」と冷静な印象を持たれがちな秋良は意外と肉食系女子の素質があった。再会したからには手に入れなければ!と密かに闘志を燃やし砂糖菓子を睨み付けた。


(あ、洋服)


 然し乍らワードローブはパンツスーツのみ、秋良はファッションフロアに踏み入れると迷う事なくスカートに見えるベージュのワイドパンツを手に取った。


(口紅)


 そして普段はマットなベージュしか付けないがシアーなオレンジの色味がかったベージュの口紅を新調し、小振りなプラチナのピアスも買った。


(翔吾、待っていなさいよ!)


 これで臨戦態勢は整った。秋良は生まれて初めてのフェイスパックをしながら購入した服のプライスタグを切り取った。

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