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第6話 最悪な再会

 秋良は外回りの営業社員が持ち帰った契約書を取りまとめ誤字脱字や記入漏れがないかを照合する業務を担当していた。不備があれば鉛筆でしるしを書き込み付箋を貼る。これは富山支店で担当していた業務となんら変わりなく作業は着々と進んだ。そんな秋良の作業を阻むもの、それは伊藤翔吾の存在だった。


「黒木課長!ただいま戻りました!」

「お帰りなさい、どうでしたか」

「新規契約1件取って来ました!」

「お疲れ様」


 秋良は翔吾に「伊東」から「秋良」と呼び捨てられる様になり、翔吾は秋良に「翔吾さま」と呼ぶ様にとごり押しした。


「ほれ秋良、契約書。チェックしろよ」

心の声A(褒めて、褒めて)


「はい、お疲れ様です」

心の声B(ツンデレかよ、素直じゃねぇなぁ)

心の声C(恥ずかしいんですよ)


 そして伊藤翔吾は事ある毎に秋良のデスクに寄りかかっては「なぁ、俺ら会った事あると思わん?」を繰り返した。それは翔吾が終業間際に持ち帰った契約書を秋良が慌てて照合している間も遠慮なく、九官鳥きゅうかんちょうの如く繰り返した。


「あの」


 秋良は「うるさい!黙れ!このクソが!」と怒鳴りたい声を押し殺して翔吾の顔を見上げた。確かに顔面偏差値は高い、これが鼻水を垂らして泣いていたと同一人物であるとは思えなかった。


「あの」

「なんだよ」

「もう終業時間なんです黙っていて貰えませんか」

「秋良が遅ぇのが悪いんじゃん」


「ーーーしょっ、翔吾、さーー伊藤さんが遅いからです!」

「なにがだよ」

「もう少し早く帰って来て下さい!」


心の声C(いやーこりゃ大胆、早く会いたいんだって!)

心の声D(にしちゃ顔、怖くね?)

心の声E(鬼だな)


「なんですか!」

「んにゃ、なんでもないわ」


 秋良とすれば翔吾の「会った気がする」が「伊東秋良」に結び付かない記憶能力の乏しさにはいっそ清々しさすら感じた。


(頭でも打ったの?記憶喪失?)


「なんだよ」

「いえ、翔吾さまの記憶能力は凄いなぁーーと」

「だろ!?契約書に間違い無し!」


心の声B(わーい!褒められた!)

心の声A(俺さまは無敵!)


「はい、ここ。ふりがなですが片仮名かたかなになっています」

「ーーーーーえ」

「お客さまに訂正印頂いて来て下さい」

「マジかよ」


 秋良は思った。


(この10年間の恋心を返せ!)


(うーーーーん)


 そんな秋良は整った面差しから「素敵」「イケメンすぎだろ」と囁かれ遠巻きに見られがちだった。その為か2週間経った今も昼休憩の社員食堂で孤独にカツカレーを頬張っていた。


(お父さん、ご飯ちゃんと食べとるかな)


 コップの水を飲み干すと窓の外をぼんやりと眺め、金沢駅発東京駅行きの新幹線を見送り富山でひとり暮らす父親に思いを馳せた。


「ねぇ、此処良い?」

「あ、はい」


 秋良が席を立とうとするとその女性社員は「まぁまぁまぁ座んなさいな」と椅子の背もたれに手を掛けた。見上げると黒髪ストレートボブに真っ赤な口紅の溌剌とした笑顔、営業部係長の村瀬 寿むらせことぶきがトレーを持って立っていた。


「なに、伊東さんはひとりぼっち飯なの?」

「なかなか馴染めなくて」

「1人いるじゃん」


 銀のスプーンは食券売り場に並んでいる他の社員より頭ひとつ分背の高い黒髪を指した。


「ーーー翔吾さまですか」

「あぁ、それそれ、翔吾。伊東さんに懐いているじゃ無い」

揶揄からかわれているだけです」

「ふーーーーん」


 すると向かいに座った男性が日替わりA定食の鯖の味噌煮を箸でほぐしながら肩をすぼめた。


「翔吾は俺さまだから伊東さんも大変だね」

「はい」


 この男性社員は誰なのだろうかと首を傾げているとそれに気付いた村瀬寿が豚カツを頬張りながら秋良に向いた。


「あ、これうちの営業成績ナンバーワンの高坂、高坂壱成」

「ああ!申し込み用紙に不備の無い高坂さん!」


 髪をオールバックに撫で付けた銀縁眼鏡の高坂壱成は誰かと違い誠実そうで落ち着いて見えた。


「そうそう、褒めてやって」

「いつもありがとうございます!助かります!」

「いえいえ、こちらこそいつもありがとう」


 話に聞けばこの2人は同期で27歳、あまり仲が良いので左手を見たが高坂壱成の薬指に結婚指輪は無かった。村瀬寿は孤立している秋良を気遣い声を掛けた。それに付け加えて「高坂壱成はお買い得よ」と見合いの仲人さながら立板に水で話し続けた。


「村瀬、伊東さんが困っているから」

「そう?寿さまの見立てに間違いはないわよ」

「え、そんな」


 高坂壱成は困り顔をしつつも満更まんざらでもない雰囲気だった。然し乍ら秋良の表情は浮かなかった。


「あ、ごめん。付き合っている人、居た?」

「その、男性とお付き合いした事が無くて」


 村瀬寿は福神漬けをトレーに溢し、高坂壱成は鯖の小骨が上顎に刺さった。


「う、嘘ぉん」

「いえ、本当に、高等学校も女子校だったので」

「大学は」

「母親が居なくて家事に忙しくて」

「あーー、ごめん」

「いいえ」


 その驚きの事実を知った村瀬寿は鼻息を荒くして高坂壱成を推し始めた。


「お客さま、お目が高い!」

「係長、お目が高いってなにがですか」

「高坂壱成はなかなか手に入らない一級品です、ぜひ!」

「は、はぁ」


 秋良の浮かない顔に村瀬寿は不満げな顔をした。


「なに、片思いでもしてるの」

「そういう訳では」

「分かった、後はご両人に任せるわ!」

「ご両人、ですか」

「ふんが」


 奥のテーブルでは翔吾が同僚と副菜を取り合いはしゃいでいた。秋良はその背中をため息を吐いて眺めた。


 その後、村瀬寿の紹介もあり秋良と高坂壱成の仲睦まじい姿が社内で散見される様になった。2人の間に恋愛感情が存在するか否かは明らかでは無かったが噂は一気に広まりそれは翔吾の耳にも届いた。


心の声A(え、なんで!)

心の声B(なにがですか)

心の声C(秋良って俺の事が好きなんじゃねぇの)

心の声D(え、そうなの?)

心の声E(知らんかったわ)


心の声一同(このままで良いのか!)

心の声一同(否!)


 その翔吾だが通常なら軽い雰囲気で「なぁ、連絡先教えろよ」と言えるのだがを抱いた相手に直接尋ねる事は躊躇ためらわれた。それはあの10月30日と同じく自分から行動する事に恥ずかしさを感じる厄介な俺さま気質がそうさせた。


「ねぇねぇ」

「なに」


 翔吾は隣に座る年配の女性社員の書類に鉛筆を走らせた。


「あっ、ちょっとなにするの!」

「消えるって」

「で、なに」


 翔吾は筆記で秋良の連絡先を尋ねた。


「なに、目の前にいるじゃない聞きなさいよ」

「しっ!」

「面倒臭い子ね、でも私は知らないわよ」


 肩を落とした眉毛は八の字になり眉間に皺が寄った。そこで翔吾は秋良が席を外している事を確認し数人の女性社員に連絡先を知らないかと聞いて回った。然し乍ら誰もが口を揃えて知らないと答えた。


「伊藤さん」

「なんだよ」


 背後にほくそ笑む姿があった。


「僕、知っていますよ」

「えーーー!」


 それは毎朝毎朝、翔吾に頭を2回叩かれる眼鏡を掛けた気弱な男性社員だった。彼は此処ぞとばかりに勝ち誇った面立ちで椅子に座ると脚を組み大きく仰け反った。


「もう2度と僕の頭を叩かないと誓いますか」

「うぐっ」

「誓いますか」

「ぐっ」

「ち・か・い・ま・す・よ・ね」

「ぐっ」


心の声一同(誓え!その無駄なプライドは捨てろ!)


「メールアドレス、ご入用なんでしょう?」

「ぐっ」


心の声一同(高坂と秋良が出来ても良いのか!)


 翔吾は清水の舞台から飛び降りた。


心の声一同(頑張った!俺、頑張った!)


 翔吾は屈辱を感じたが秋良のメールアドレスを入手した事で騒つく胸の内をなんとか抑えて席に着いた。そして次はそのメールアドレスを携帯電話の画面でタップ出来るかどうか、エベレスト山脈級の難関が待ち構えていた。


「俺、外回り行って来ます」

「もう17:00過ぎてるよ、約束アポでもあるの」

「ま、そんな感じです」

「行ってらっしゃい」


 翔吾はエベレストに登頂する為、営業に出ると偽って会社を飛び出した。走りに走って近場の緑地公園に駆け込み震える指で電話帳を開いた。ここでようやく登山道入口に立った。終業時間は17:15、秋良は書類をまとめて村瀬係長のデスクに提出している頃だ。


(ーーーこ、ん)


 震える指で文字を打ち込むと無駄に可愛らしい絵文字が表示され腹が立った。


「くそっ!」


 携帯電話を草むらに投げ付けたが数秒後冷静になって拾い上げた。


「くそっ!」


 今度は微妙な文字変換が邪魔をして腹が立ち、気が付けば草むらに携帯電話を投げ付けていた。


<こんにちは、元気ですか>


 送信した瞬間後悔した。元気もなにも数十分前まで目の前のデスクに座っていたのだ。しかもLINEトークと違ってメールが開封されたかも分からない。メールを無視され明日顔を合わせるなんて公開処刑以外の何者でもなかった。





<こんにちは、元気ですか>


 秋良の携帯電話がメールの着信を知らせた。詐欺まがいのメールだと思い削除しようとしたがメールアドレスを確認し、それが誰から届いたメールかを瞬時に悟った。


syo-gosama1031@****.**


(自分の名前に様付けってどれだけ自分が好きなの!)


 あの純粋だったはもう何処にも居ないのか、秋良は半ば諦めながらメールを返信した。


<こんにちは、元気です>


<こんにちは、元気です>


 翔吾はメールの着信音に飛び上がり恐る恐る受信フォルダを開いて見た。そこには秋良からの返信が届いており翔吾はそれだけで拳を握りしめた。遂にエベレスト山脈の登山道を一歩踏み出したのだ。


「返事きたーーーーーーー!」


心の声ABCD(やっぱり秋良は俺に惚れている!)

心の声E(なんでおまえはそう単純なん)


 自分大好き俺さま気質の特徴として愛されて当然というスペックが備わっている。太々しい事この上ないがその根底には愛に飢えた寂しがりという深層心理が働きこれは得てして聖マリアンヌ愛児園での暮らしがそうさせているのかもしれなかった。


<もう仕事は終わりましたか>

<終わりました>


 秋良とすれば翔吾の意図が分からなかった。そもそも自身のメールアドレスが何処から漏洩したのかと営業フロアを見渡すと眼鏡を掛けた男性社員が平謝りをした。


「あぁ、あなた」

「はい、毎朝頭を叩かれています」


 己の平安と引き換えにメールアドレスを献上したのだと白状した。


「ごめん!」

「緊急連絡先で登録したものだし問題ないわ」

「伊東さん、ごめん!」

「そんなに謝らないでお互い大変ね」

「本当にごめん!」


 その間も秋良の携帯電話には翔吾からの短文メッセージが次々に届きメール受信フォルダは埋め尽くされた。


<ごはん何食べた>

<コンビニ弁当>

<俺、牛丼>


<今何してるの>

<髪の毛乾かしてる>

<俺もシャワーすっかな>


「あぁ、しろよ!さっさとシャワーして日本海に流れてしまえ!」


 秋良は携帯電話の電源を切った。


翌日


「ねぇ、伊藤さんちょっと良いかしら」


 秋良に見下ろされた翔吾はその気迫に尻込みした。


心の声一同(また怒ってるーーー!)


「お、おう。この仕事終わってからで良いか」

「昼休憩でも良いわ、12:30に屋上の芝生広場で待ってる」

「あ、あう」


心の声一同(あ、あうってなんだよ!なにビビってんだよ!)


 秋良に呼び出された翔吾はエベレスト山脈の一合目に到達するか否かの瀬戸際かと思われたがあの雰囲気はそんな甘ったるいものでは無かった。


心の声A(俺、なにか地雷踏んだか!)

心の声B(メールが面倒だったんじゃないですか)

心の声C(LINEじゃないんだし)

心の声D(あー、それな)

心の声E(LINE交換すれば良いんじゃね)


心の声一同(そんなん恥ずかしくて言えるかよ!)


 昼休憩のチャイムが鳴った。唾を呑み込み足を一歩前に出したが開放的な屋上への階段が死刑台へ向かうそれに近く足取りは自然に重くなった。


(ーーーお、俺、だっせぇ)


 緊張で心臓が破裂しそうだった。然し乍ら階下へ向かう女性社員とすれ違うと「えーー、ほら営業部の」「伊藤さん格好良いね」「営業部羨ましいなぁ」等と囁かれば良い気なもので幾許いくばくかの自信を取り戻した。


(よし!)


ばんっ


 扉を開けると真正面のベンチに秋良が脚を組んで座っていた。やはりなにか鬼気迫るものを感じ翔吾は慄いた。


「お、おう」

「どうぞ」


 秋良はベンチの隣を指して座るように促した。翔吾はベンチの一番端に座ると両膝に手を置いて縮こまった。


「なん、なんだよ」


 秋良は翔吾に向き直った。


「あのメールはなに」

「なにって」

「元気かどうかなんて見れば分かるでしょう!」

「飯はなにを食ったか分からないじゃねぇか」

「私がなにを食べても伊藤さんに関係ないわよね!」

「ーーーーぐっ!」


心の声一同(頑張れ!)


 そこで秋良が思わぬ提案をした。


「伊藤さん、LINE交換しましょう」

「えーーーー!えっ!」

「なに、そんなに驚く事なの」

「えっ、いや、そんな事ないし」


ぴろーーん


心の声一同(ふぉぉぉぉぉ!)


 念願のLINE交換、ところが翔吾が喜んだのも束の間、秋良の言葉はエベレスト山脈の永久凍土より冷たかった。LINEメッセージは必要事項以外は送って来ない事、送って来ても既読無視、LINE通話は拒否というものだった。


「な、なんで」

「なにか文句ある」

「それじゃLINE交換の意味が無いんじゃ」


 翔吾の顔面偏差値は東京大学か京都大学かと例えられる程に持てはさされ、これまで女性社員に理由なく嫌われた事は皆無だった。


「なに、好かれて当然とでも言いたそうね」

「そんな訳ないし」


 翔吾は不貞腐れた顔で腕組みをした。


「どうしてそう偉そうなの」

「ーーーーー性格?」


 秋良は深いため息を吐き額に手を当てた。


「伊藤さん」

「なんだよ」

「私と会った気がするって言ったわよね」

「言った」

「なにか思い出した?」


 翔吾は眉間に皺を寄せて空を仰いだ。


「よく考えたら秋良に似た顔なら何処にでもいるような気がする」

「あ、そう」

「あ、いないかも」

「あ、そう」

「いるかも」

「どうでも良いわ」

「いないかも」


 翔吾は自分の発言を二転三転と覆した。間違いや思い違いを認めたくない、これも拗れた俺さま気質の成せる技だった。


「はぁーーーーー」


 意味のない押し問答に面倒臭くなった秋良は翔吾がを思い出すきっかけに有効となりそうな何枚かのカードを切った。


 秋良は翔吾に近付くと小声で呟いた。


「伊藤さんは小学6年生の頃小松市に住んでいた」

「えっ!」

「お父さんとふたり暮らし」

「ええっ!」

「小学校3年生までおねしょしていた」


 翔吾はベンチから転げ落ちる寸前まで端に寄り、両手で身体を支えた。


「なっ、なんで!」

「私は翔吾の事ならなんでも知っているわよ」

「す、ストーカー」

「な訳ないでしょ、ここまで言って分からないの?」

「わ、分かんねぇ」


 秋良は翔吾の鼻先に指を突き出してくるくると回して見せた。


蜻蛉とんぼの顔が嫌い、首がげそうだから」

「きっ、気持ち悪ぃだろ」

「オニヤンマは怖い」

「黄色と黒とか反則だろう!」


 翔吾は秋良の指先を払い除けるとその場に立ち上がった。


「おまえ、俺の履歴書を見たのか!」

「なに、伊藤さんの履歴書には蜻蛉の事まで書いてあるの?」

「かっ、書いてねぇけど!」


 そこでLINEメッセージの着信音が鳴った。


 翔吾と秋良が携帯電話をタップするとメッセージは秋良に届いていた。その横顔は可憐で小さく微笑んでいた。


心の声一同(うわぁ、可愛い)


 翔吾は見惚れた。ところが秋良が返信すると程なくして屋上の扉が開き姿を現したのは高坂壱成だった。手にはコンビニエンスストアの白いポリエチレンの袋をぶら下げていた。


、ありがとう」


心の声一同(え、なに、なになになにその親密さはなに!?)


 秋良は翔吾を振り返ると「早く思い出しなさいよ」と念を押し高坂壱成の元に駆け寄って2人で隣のテーブルベンチに腰掛けた。


「秋良ちゃん、サンドイッチで良かった?」

「うん、ありがとう」

「ミルクティーは無糖」

「大正解!」


 2人は和気藹々わきあいあいとランチタイムを愉しみ始めた。取り残された翔吾は秋良の後ろ姿を口を開けて見るばかり。


(ーーーーえーーと、蜻蛉?)


 ここまで聞けばなにやら薄ぼんやりと輪郭が見えて来た様な来ない様な、翔吾は首を傾げながら社員食堂へと向かった。


 食堂ではやはり秋良と高坂壱成の話題で持ち切りだった。2人が交際を始めたとの事で女性社員が肩を落としていた。


(あれ、高坂ってそんなに人気あったか?)


 自分以外眼中にない俺さまにとって高坂は対象外、耳を澄ませば女性社員がこの交際発覚で項垂れた相手は伊東秋良だった。中性的な魅力が堪らないのだと言った。


(そうか?女に見えるけどな)


 親子丼に箸を付け、たくあんをかじりながら秋良の面影を思い浮かべるとが引っ掛かった。


(どっかで見た事あるんだよなぁ)


 中学校の同級生、陸上部のマネージャー、付き合った相手には居なかった。高等学校の3年間、伊藤は何人か居たが男子ばかり。就職を前後して別れた恋人は当然では無かった。


(いとう、いとう、いとう、いとう)


 そこで翔吾の記憶の引き出しが音を立てて開いた。


「姉ちゃん!」


 食堂の前後の席に腰掛けていた社員が振り返った。


(そうだ、姉ちゃんもだった!)


 8年前、聖マリアンヌ愛児園での再会を反故にした姉ならばこれまでの冷淡で無表情な塩対応も腑に落ちた。姉は10月30日の事を怒っているに違いなかった。


(しかも名前を忘れたとか、俺、馬鹿の極みじゃね?)


心の声A(いとうはいとうでも漢字が違うじゃないか!)

心の声B(そうだよ)

心の声C(親が伊東と再婚して伊東秋良とか!)

心の声D(そんな訳ある!?)

心の声E(ないよなぁ)


心の声一同(本人に聞くしかないか)


 翔吾はLINE画面をタップした。


 翔吾はLINEメッセージを送ると両膝に握り拳を作り携帯電話を凝視した。緑の画面に表示されたメッセージが既読になり喉仏が上下した。


思い出しました

既読


 (は?)


 塩対応は健在で素っ気の無いメッセージが返ってきたがこの遣り取りは有意義なものと判断され既読無視対象外だった。安堵のため息が漏れた。


伊東秋良さんは俺の姉ですか

既読


 (馬鹿なの?)


 安堵したのも束の間、秋良が姉である事が全否定された。そもそも10月30日に待ち合わせたという説は稚拙な(といっても高等学校1年生)自分が考え出したものでしかなかった。


あなたは誰ですか

既読


 (伊東秋良)


ごめんなさい

既読


 (なにが)


行かなくて

既読 


 (何処に)


 そこで可愛らしい猫が [アホちゃいますか] と突っ込むポーズのLINEスタンプが送られて来た。


ごめん

既読 


 その後秋良からメッセージが返って来る事はなかった。8年経った今もこの件に関してはご立腹の様子だった。


(しかも名前を忘れるとかマジ最悪じゃね?)


 昼休憩が終わり気不味い面持ちでデスクに向かったが秋良は何事も無かったように隣の女性社員と会話し、翔吾に笑顔で語り掛けて来た。


(これ、絶対作り笑いだよな)


 翔吾の書類を受け取る指先は震え口元は引き攣った。

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