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第4話 三共保険株式会社 秋良

 秋良は富山大学を卒業し富山駅前の三共保険株式会社富山支店に就職した。然し乍ら入社して2ヶ月で金沢駅西口の金沢本社への異動が決まった。人は栄転だと言ったが定年間際の父親を残して富山を離れる事には躊躇ためらいがあった。


「秋良、懐かしい街じゃないか、行っておいで」

「懐かしい、なにが」

「なにがって、愛児園に決まっているだろう」


 懐かしいもなにも、あの10月30日が苦い思い出となり愛児園の事を思い出すと秋良の胸は痛んだ。記憶の中で美化しているのかもしれないが小学生の秋良は伊藤翔吾の事が好きだった。


(それなのに)


 翔吾は自分から5年後に愛児園のマリア像の前で会おうと言ったにも関わらず5年後の10月30日に姿を見せなかった。高等学校1年生の秋良は酷く傷付き長かった髪を短く切り、もう2度と恋などしないと心に誓った。





「ここが金沢本社」


 三共保険株式会社は金沢駅西口の片側3車線の大通り沿いにあった。15階建て全面ガラス張りの本社社屋は圧巻で思わず口を開けて呆けてしまった。


(こ、こんな所で働くの)


 多分に御局様おつぼねさまと呼ばれる先輩にロッカールームで嫌味を言われるのではないかと思いきや石川県民・金沢市民の気質は穏やかで営業部であるにも関わらず気忙しさは無く不穏な空気も感じられなかった。


(のんびりしているのね)

「はい、ここが伊東さんのデスク」

「ありがとうございます」

「西日が当たって眩しい時はブラインド下げても良いからね」

「ありがとうございます」


 秋良には一番窓際の席が当てがわれた。段ボールから細々とした物を引き出しに仕舞う作業は新年度らしく新鮮で背筋が伸びる思いがした。そして隣の机に座る女性社員は優しかった。


(優しい)


 これまで秋良の周囲に集まる女性は皆、優しかった。いや持てはやされていた。高等学校の体育祭では詰襟の制服を着るように薦められ、赤いハチマキに白い手袋を着けて応援団に並ぶと黄色い声援が彼方此方からあがった。文化祭では秋良のスナップ写真が販売され、卒業式では在校生のみならず同級生の女子生徒も別れを惜しんで号泣した。


「伊東さん、人気があったでしょ」

「人気、なんの人気ですか」


 斜向かいの年配の女性社員が飴をくれた。


「だって、ほら」

「ほら?」


 刈り上げた襟足、緩い巻毛の長めの前髪、面長で色白、切れ長の黒目がちな瞳、薄い唇、上背もあり手足も長く薄化粧も相まってヴィジュアル系バンドのボーカリストの様だと彼女たちは頬を染めた。


(なるほど、それでみんな優しかったのか)


 秋良はたおやかな少女から凛々しい女性へと姿を変えていた。


「髪が短いから、そう見えるだけですよ」

「ううん、それだけじゃない」

「それだけじゃない?」


「なんだろう、陰があるというか何処か寂しそう」

「秘密がありそうな感じで格好いい」

「私、寂しそうですか」

「あ、ごめん気にしてた?」

「いえ、大丈夫です」


 寂しげな表情はあの10月30日を今も引き摺っているからに違いなかった。


(いい加減忘れなきゃ)


 秋良がふと営業部フロアの扉を見遣ると男性社員が大欠伸おおあくびで入室した。


黒木くろき課長すみません、遅くなりました」

「遅いぞ、今何時だと思っているんだ」

「え、まだ始業前ですよね」


 上司に横柄な態度で受け答えをしている男性社員。


「遅刻寸前で君は何故そんなに偉そうなのかな」

「ーーーーえーと、性格?」


 秋良は伊藤翔吾を忘れなければと思っていた。


 その男性社員は課長のワークデスクの前で軽率な会釈をしただけで悪びれた風もなく秋良のデスクの方へと歩いて来た。途中で気の弱そうな眼鏡を掛けた男性社員の頭を手に持った書類で軽く叩く、その姿は遠慮なく太々ふてぶてしい。


「おっはようございます!」

「はいはいおはよう、伊藤くんいい加減にしないと始末書書かされるわよ」

「なんの始末書ですか」

「ポンポン叩いて、パワハラよパワハラ!」

「パワハラぁ?あれは愛情表現ですよ、愛情表現」


 伊藤と呼ばれた男性社員は自分のデスクの前に見慣れない顔が座っている事に気が付いた。そして椅子にどっかりと腰掛けると肘付に腕を投げ出し脚を組んで一回転した。


(ーーーな、なによ)


 デスクに積まれた書類の山から秋良を覗き見た。


か、富山の田舎もんは」

「い、伊藤くん!なに言ってるの!」

「田舎じゃん」

「新幹線だって停車するのよ!」


 秋良はこの扱いには慣れていた。金沢市の人間は富山県民を<越中さえっちゅうさ>と呼び富山県民は金沢市民を<加賀者かがもん>と呼ぶ。それは何百年も前の前田家のお家騒動が起因らしいが下らないいさかいだ。


(そんな事言うあんたの方が田舎もんじゃないがけ!?)


 秋良は内心眉間に皺を寄せたが精一杯の作り笑いで対応した。するとその伊藤は秋良の事を男性だと思ったらしく「女々しい顔だな」「俺の方がイケメンだろ、な?」と隣の年配女性社員に詰め寄っていた。


「伊藤くん」

「なんですか」

「その新人さんは」

「なんだよ」

「お、女の人なのよ?」


 男性社員は素っ頓狂な叫び声を上げて椅子をずらすと秋良の足元を見た。その視線は黒いパンプスから舐めるように脚を伝いタイトスカートと胸の膨らみを確認すると一歩後ろに退いた。


「お、おんな」

「伊藤くん、なんで見て分からないの」

「こんなの違反だろ、分からん」

「伊東さんに謝りなさいよ!」

「そんな男みたいな女がいる方がおかしいだろ!」

「伊藤くん!」


 そこで伊藤は立ち上がり遠慮なしに秋良の胸元のネームタグを手に取った。この遠慮の無い急接近に秋良は尻込んだ。


(な、なにこの人、図々しい!)


「なんだ、俺と同じじゃん」

「そ、そうですね」

「俺の名前は伊藤翔吾いとうしょうご、翔吾さまって呼んで」


「しょ、しょーーーうご」

「なに、翔吾さまだろ」


 逆三角形の輪郭、黒々とした直毛の髪、アーチ型の眉毛に丸くつぶらな瞳、右目尻のホクロ。確かにその面影があった。


「なになに、伊東いとうあき、名前はなんて呼ぶの、これ」

「あき、秋良あきら、伊東秋良です」

「へっ!やっぱり名前も男みたいじゃん」

「おっ、女です!」


(ーーーー伊藤翔吾だ!)


 秋良は怒りをあらわにし頬を赤らめたがその面立ちの下には戸惑いと喜びが隠されていた。ただ目の前の翔吾さまとやらは秋良の事をすっかり忘れている様だった。



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