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第2話 10月30日 秋良

 石川県金沢市の10月下旬といえばみぞれが黒瓦の屋根を叩き車のワイパーに薄らと積もる時期だ。高等学校1年生になった伊東秋良はその年のお年玉と毎月の小遣いを貯めてJR富山駅から新幹線に乗って金沢駅に降り立った。


「うっわ、すご」


 もてなしドームと呼ばれる鉄骨が組まれたガラスのコンコースは秋良を幾らか温めたが吹き荒ぶ木枯らしに制服のスカートはひるがえった。合皮のローファーから這い上がる冷気に身体の芯から凍えた。


「えーと、何番のバスに乗れば良いんや」


 向かって右側にタクシーがずらりと並ぶタクシープール、メモ書きの住所を頼りに目的地を目指すよりは「聖マリアンヌ愛児園までお願いします」と告げた方が早かった。


「うーん、幾ら掛かるんやろ、1,000円、2,000円?」


 実際には金沢駅から1,000円も掛からぬ距離だが高校生の秋良には想像も付かない、ここは諦めて近江町市場経由兼六園行きのバスに乗る事にした。


「2番、2番か」


 バスの2番乗り場にずらりと並んだ観光客とキャリーバッグ、この時期は寒鰤かんぶりやズワイガニ漁が解禁になる。観光客は冬の味覚を目当てに石川県に訪れた。


「くっそ、狭っ!」


 バス乗り場に到着した北鉄バスにぎゅうぎゅうに押し込まれた秋良は父親が教えてくれた香林坊こうりんぼうでバスを降りた。ビルの谷間は晩秋の風が舞い上がり震え上がった。


「さ、さぶっ」


 ただ寒いのは身体だけでは無かった。母親は改心し親子3人で楽しく過ごしていると思われた。ところがその母親は秋良が中学3年生になった春に新しい彼を見つけて家を出た。以来、父親とふたり暮らし。父親は優しいが会社勤めで忙しく秋良は夕飯をひとりで食べた。


(ーーーもうすぐ!)


 その寂しさを埋めたのは今日、10月30日だった。


<秋良ちゃん5年したらこのベンチで会おう!>


 顔はうろ覚えだがいつも一緒に遊んでいた男の子が居た。名前は伊藤翔吾、同じだからよく憶えていた。名前は「翔吾」と呼び捨てにしていたので同年齢か歳下だと思う。


(どんな顔だったかなぁ、イケメンでない事は確かやね)


 秋良と翔吾は同じ日に愛児園を退所する事になった。翔吾は父親が迎えに来ていた。秋良は母親が迎えに来た。秋良と翔吾は泣きながら其々の車に乗り込んだ。


(映画化決定のラストシーンやったわ)


 急勾配の坂道を降りると用水が流れていた。その流れに沿って歩いてゆくと<長町武家屋敷跡>と看板が掲げられていた。なんとなく見覚えのある風景、近くに小学校が見えた。


(あーーーー覚えとる!ここや!)


 猫の額のような駐車場の隣には保育園があり、車2台がぎりぎり行き違う事が出来る道路が通っていた。その奥に白い屋根の礼拝堂がありステンドグラスの窓が見えた。ふり仰ぐと避雷針と十字架、連なる桜の幹は少し太くなったような気がした。


愛児園うちや!」


 秋良にとって此処は3年間過ごした家だった。記憶の中にある木造の園舎は鉄筋コンクリート3階建てへと姿を変えていた。


「うっそ、まじか」


 見遣ると椿の紅い花が咲いていた。


(ここや、ここやわ)


 2人で座ったベンチは無かったが椿の垣根には白いマリア像が微笑んでいた。ここは翔吾と手を繋いで5年後の10月30日に会おうと約束した場所で間違いない。ただ吹きっ晒しのこの場所でいつ現れるか分からないを待つ事は難しかった。


「こんにちはー、誰かいますかー」


 自動ドアのボタンを押すと金魚が泳ぐ水槽が有った。


「あれ!この子らうちらが金魚すくいですくった子じゃないけ!」


 オレンジがかった赤に独特な模様の金魚には見覚えがあった。これも翔吾と百万石祭りの夜店ですくった金魚だ。建物はすっかり変わってしまったが彼方此方に幼い頃の思い出が転がっていた。


「あら、どちら様?」


 振り向くと修道女シスターが訝しげに秋良の顔を覗き込んだ。彼女は母親代わりで世話になった人物だと思うが顔など憶えていなかった。秋良が返答に困っていると修道女の表情が明るいものに変わった。


「あら!秋良ちゃんじゃない!?」

「え」

「伊東秋良ちゃん、違うかな、憶えていないかな?」

「ごめんなさい、シスターの顔は憶えてないけど伊東秋良です」

「まぁ!大きくなって、綺麗になって驚いた!」


 秋良は腰までのゆるい巻き毛を肩で結えていた。くっきりとした二重に黒曜石の濡れた瞳、柔らかな面差し頬の線は白桃のようだった。


「今日は如何したの?今は何処に住んでいるの?」

「富山市です」

「またこんな遠くまで来て、親御さんは?」

「ひとりで来ました」


 秋良は5年前の翔吾との約束について話した。


「そうなの!あなたたち仲が良かったから。寒いから事務所に入りなさい。伊藤くんも此処に来るだろうからお茶でも淹れるわね」

「ありがとうございます」


 ところが翔吾はその場所に現れなかった。シスターは在園時に登録されていた連絡先に電話を掛けてくれたがそれは既に解約されており繋がらなかった。秋良は18:00過ぎの新幹線に乗車する為に愛児園を出た。心配したシスターがタクシーを呼んでくれたので帰路はビル風に吹かれる事は無かった。


(なんで来んかったんや)


 車窓に流れる車のヘッドライトを眺めた秋良はあの日と同じ様に涙を堪えた。

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