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第三十七話 生きたがり少女と文字の森のみんな 2

「でも私は……ここで皆と、クマさんと一緒に暮らしたい! 私があっちに戻っても、誰も待ってくれている人はいない。あっちに帰ったって一人ぼっち……だけどここなら皆がいる! クマさんがいる! だから私は……」


 私はそれ以上言葉をつむげなかった。本当はもっと言いたい言葉はあったけど、真っすぐに私を捉えるクマさんの瞳を見てしまったら、何も言えなくなった。言葉を失った。言葉が消失してしまった。それぐらいクマさんの瞳は、気持ちは、本気だった。本物だった。


「ダメだよ文香。もう僕も心を決めた。文香からしたら突然なのかも知れないけれど、君があっちの世界を気にしたこのタイミングが、一番相応しいと思う。文香はこの森で居続けるべきじゃない。死んだまま生きるようなマネ、文香にはして欲しくない。僕が文香の人生を狂わせてしまうなんてことは、あってはいけない」


 クマさんの今までにないぐらい本気の話を聞いて思い知った。ああ、もう無理なんだと。ここでの夢のような生活は終わりなのだと知った。この不思議と非常識が交差する文字の森の中で、みんなとワイワイして、木を切ってドンドン生活を豊かにしていって、たまに危険もあるけれど、なんだかんだ無事に過ごしていたこの生活。


 今までの人生で、もっとも幸せだった一ヶ月少々……。これはもう終わりなのだと、他ならぬ文字の森の管理人に言い渡されたのだ。


 理屈は分かる。


 クマさんを困らせたくない。


 だけど私にだって、ちょっとぐらい我儘を言う権利だってあるはずだ!


「そこまで言うなら……だけど、たまに戻ってくるのは良いよね? リアルが辛くなったらまた来ても……」


「…………ダメ、だよ。文香、それはダメだ。この森は中毒なんだ。いつでも来られると思ったら、文香はあっちの世界での生活にリアルを感じれなくなる。それは絶対に文香のためにならない! だから……」


 クマさんのはじめの沈黙が、彼の本心をありありと示している。だから私は行動に出る。私は無言のままクマさんの手を引っ張り、ゲートを潜る。


「ちょっと文香!」


 私が抜けた瞬間、違和感を覚えた。右手に掴んでいたクマさんの手の感触が、一切なくなっていたのだから。


「え!?」


 驚いて後ろのクマさんを見ると、彼の片手だけが私に引っ張られてゲートを抜けている。そんな片手の肩から先が、透明になって消えていた。


「だからね、僕たちはそっちの世界には行けないんだ。そっちでは、僕たちは存在しないことになっているからね」


 そう言ってクマさんは、力の抜けた私の手を振り払い、手を引っ込める。すると彼の手は復活していた。


 ホッとした私とは違って、クマさんは大量の涙を流しながら、斧を構えていた。


 何度も見たあの斧”一太刀で切れる斧”を構えている。構えたまま泣いていた。


「もうお別れだよ。最後にこれをあげる」


 そう言って投げられたのは、木彫りの無機質なブレスレットだった。


「クマさん、これって……」


「文香。君に時の加護があらんことを……さようなら、文香。強く生きるんだよ? 絶対に自殺なんかしちゃダメだよ? 僕に文香の木なんて見せないでよ!」


 クマさんは泣きながら叫んだかと思うと、”一太刀で切れる斧”で文字の森と書かれたゲートを、一太刀で切り落とした。


 その瞬間、ゲートの消失と共に、文字の森への出入口は塞がれてしまった。




 あまりの状況の変化に耐えられず、私は富士の樹海のど真ん中で崩れ落ちる。ゲートの中と同じ夜の空、ちょっと肌寒い風が木々の隙間を縫って私の肌を撫でる。土の香りと、湿った地面の冷たさが、私の足をより冷たくさせて機能しない。足が震えてたてない。


 別れは余りにも突然で、唐突で、突拍子もない。ただただ呆然と、ほんの数分前まではゲートが存在していた虚空を眺める。眺めているうちに、涙が頬を伝って湿った地面にさらに水をやる。


 あまりに急すぎて声も出ない。出るのは淡々と流れる雫のみ。


 私の束の間の夢は終わってしまったのだ。


 きちんとした別れも出来ず、きちんとしたお礼も出来ず、永遠の別れは訪れた。クマさんのあの斧によって。


 たぶんクマさんも限界だったのだろう。あれはクマさんの本心じゃない。いや、本心かも知れないけれど、望んでいることではないだろう。本心と望むことが、必ずしも合致するとは限らないのだから。


 だからあれがクマさんの最後の意思表示。あのゲートを壊すことによって、強制的に私と文字の森の繋がりを絶ったのだ。もしもあれ以上話していたら、クマさんは自分を許せなくなる結果になっていたかもしれない。そう考えれば、この選択は悪くない。悪くないどころか、正解なのだろう。


 世間的に見れば、倫理的に見れば、道徳的に見れば、この選択は酷く正しくて、この選択を後悔しているような人間は、ダメだと言われるのかも知れない。一時の夢を懐かしんでばかりで前に進めないダメ人間。そうレッテルを貼られるかもしれない。


 だけど、それがなんだ? 世間や倫理や道徳がなんだ? それらが一度でも私の心を癒してくれたことがあったのか? 無いだろう? 無いから私は本日自殺未遂をしたのだろう? そこから救ってくれた皆を、環境を、懐かしんで何が悪いのか!


 そんな怒りにも似た感情を、心の中で蠢かせながら、私はただひたすらに泣いた。途中から雨が降ってきたが、そんなものは関係ない。雨に打たれようと風に吹かれようと、体が冷えてこようと、今の私には些事に等しかった。


「でも……これじゃあクマさんに悪いよね」


 何時間経過したかも分からない深夜、私は月明かりに照らされた空間を見つめる。彼が私の代わりに別れを切り出してくれたのだ。私とクマさんの関係……勿論恋愛感情は無いけれど、家族のような関係。あんな乱暴な別れ方はしたくなかったけれど、それをさせてしまったのは私自身なのだということは分かっている。


 私が彼に背負わせてしまったのだ。


 最初に彼を捨てたのは私なのに、最後の別れまで彼に背負わせてしまった。私は何一つ責任を負っていない。これではどっちが持ち主か分からない。


「帰らなくちゃ……生きなくちゃ!」


 私はふらつく足に鞭を打って立ち上がる。その時、自分が握りしめている物の存在に気がついた。私が握っているのは、木彫りのブレスレット。実にシンプルなデザインで、ワンポイントだけクマさんの形が掘られている。


 やめてよ……。


 そんな所にいないでよ……。


 せっかく引っ込んだ涙が、また視界を塞いじゃうじゃん!


 私は再び泣きながら、心の中でクマさんに文句を言う。いつものように。


「まったく……最後までクマさんはクマさんなんだから……」


 ふらつく足元に気をつけながら、肌寒い月明かりの中、一日ぶりの我が家に帰宅したのだった。

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