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第三十四話 本当に森の外へは行けないの? 2

 あーさんと別れてから小一時間ほど文字の森をさまよい続け、ようやく見つけたのがアーチ状の木製のゲートだ。懐中電灯を向けると、文字の森と書かれている。


 懐かしい。一ヶ月ちょっと前の記憶が蘇る。確かあの時は、より良い死に場所を探してこのゲートに辿り着いたのだ。そしてこのゲートを潜った先で、あのコテージを見つけて、ベンチで眠るクマさんを見つけて……。


「今はその時じゃないよね」


 私は一度深く深呼吸する。呼吸を整え、去来する懐かしさを振り払い、ゲートを潜る。大きな一歩を踏み出す。ゲートを潜った瞬間、体がよじれるような感覚がした。内臓が捩じれるような、そんな感覚。


「どういうこと?」


 私はゲートを潜った後、空を見上げて懐中電灯の電源を落とした。何故ならすでに明るかったから。背の高い木々の隙間から、木漏れ日が地面にまで届いていた。おかしい。何かがおかしい。さっきまで夜だったはずなのに、今は日が昇っている。


「いろいろ確かめなきゃ」


 私は足元に気をつけながら、富士の樹海の中を彷徨う。彷徨うといっても、前回来た道を戻るだけなので、さほど迷いもしないだろう。


「そう思っていた私がバカでした」


 彷徨うこと数時間、私はうなだれていた。切り株に腰を降ろして休憩する。迷ってはいたけれど、大丈夫なはずだ。近くで車の音がする。人里はすぐそばだろう。それにしてもこんなに迷うとは思わなかった。


 思えば、最初に文字の森に行った時も、狙って行ったわけではなくて、自殺場所を探して闇雲に歩いていた。自殺するつもりだったから、始めから戻ることを考えて無かったため、道も憶えていない。


 当時の記憶そのものに欠陥があったのだから迷うのは当たり前だった。ほとんど同じ景色が続くのだ。ここで亡くなった人達の内何人かは、自殺ではなく迷って死んだのではないかと思わせるほどだ。


「でも、そろそろ家に着くはず!」


 私は力を振り絞って立ち上がり、エンジン音のする方へ向かう。


 ようやく富士の樹海を抜けると、そこは見知った光景だった。文字の森に行く際に通った道路、見覚えのある自動販売機、標識。それにこの道を真っ直ぐ進んでいけば私の家がある。


 私は覚束ない足取りで、家路を急ぐ。久しぶりの人間たちの世界。久しぶりの文明。久しぶりの私の世界。


 一ヶ月も突然いなくなった私を、この世界はどう捉えるだろう? 捜索依頼でもだされているのかな? もしかしたら家に、それこそトラロープぐらい張ってあるかもしれない。


 変な緊張感が全身を支配する。鼓動が高鳴る。両親を失った私には、この世界で待ってくれている人などいない。勿論知り合いはいる。親戚はいる。お隣さんだって顔ぐらいは知っている。だけど学校にもほとんど行ってなかった私が、たとえ一ヶ月学校に来なくても、誰も私のことなんか気にも留めないのかも知れない。


 そう考えた時、ふと足が止まった。歩みが止まった。でも私は首を横に振る。自身に芽生えた思考を振り払う。


「確かめないと!」


 私は長い道のりを歩き続けた。


 歩くこと小一時間、すっかり日が暮れて夕方。私は本当に近所まで来ていた。電信柱の陰から、久しぶりに自宅を覗き見る。とりあえず期待していたトラロープは張られていない。警察もいない。それどころか、一階の窓から明かりが漏れ出ている。


「一体誰が?」


 私は不安と期待で心臓をドギマギさせながら、自宅の玄関のドアノブを回す。鍵は掛かっていない。ゆっくりとドアを開けて、中へ入っていく。玄関から見える範囲全てが、私が出て行った当時の記憶のまま、散らかった下駄箱も、一カ所だけ切れた電球も、匂いも同じ。


 物音をたてないように靴を脱いで、廊下を進む。足音をたてないようにスルスルと進む。やがてリビングの前まで来て、そっと中を覗く。そこにいる人は誰なのかと、冷や汗をかきながら覗くと、部屋の中には誰もいなかった。


 ただただテレビだけがつけられ、人の気配も何もない。


 死を覚悟したあの日、なんでか知らずか出かける直前までテレビを見ていた記憶はある。見ていたというよりいうより、聞いていたに近いかも知れない。覚悟は決まっていたけれど、どことなく寂しくて、半分自暴自棄になっていた私は、ただ理由もなくテレビをつけていた。そのまま全てをつけっぱなしにして、出て行ったのだ。


「じゃああれからずっと付きっぱなしってこと?」


 一ヶ月ものあいだずっと、電気もテレビも付きっぱなしだったから、誰かが普通に暮らしていると思って、誰も気にしてなかったという事? そんなこと……。


 呆然としたままボーっとテレビを見つめていると、さっきまでやっていたバラエティーが切り替わり、夕方のニュースが始まった。事件の話が流れていくのを聞いているうちに、違和感を覚えた。おかしい。おかしい。そんなはずはない。


「〇月〇日、本日未明、病院で火災があり……」


 テレビから流れてきたニュースが耳に届いた瞬間、背筋が凍った。私はこのニュースを知っている。自殺を決意したあの日、富士の樹海に出かける前に流していたテレビで言っていた。〇月〇日未明。未明ということは朝だ。私が自殺に向かったのはお昼前、そして今このテレビからは”本日未明”と流れてきた。


「そっか……ゲートを潜った時、変だと思ったんだ。まさか、時間が経過していないだなんてね」


 この家にトラロープが張られていないのも当然で、警察に捜索願が出されているわけでもない。当たり前だ。この世界での私は、お昼前にお出かけしてさっき帰ってきた女の子でしかないのだ。行方不明にもなっていなければ、当然自殺もしていない。文字の森のゲートを潜って、こちらの世界に戻った際、真夜中だったのに日がさしていたのはそういう理屈だったのだ。


 私が過ごした文字の森での一ヶ月少々は、こちらの世界での一時間にも満たなかったということになる。


「一体何がどうなってるんだか……」


 頭の整理が追いつかない私は、ただリビングに立ち尽くしていた。

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