「お母さん……」
私は久しぶりに対面した母親に向かって、そう口にする。今は亡き自分の母親とこうして対面できる機会など、世界広しと言えど私ぐらいだろう。
私の掠れた声に返事は無く、しかし彼女は返事の代わりに軽く微笑んだ。微笑みながら鳴いていた。涙を流しながらも、その手は止めない。分かっている。今私がお邪魔ししているのは死者の記憶。
そこに土足で足を踏み入れているのだ。だから彼女にいくら声をかけても返事は無く、いくら訴えかけてもその手は止まらない。ここは記憶の焼き増しの世界。私が、生者が変更を加えることなど到底許されない領域。
「お母さん……ごめんね。それと、ありがとう」
私はせめてそれだけを伝えたかった。
お母さんの気持ちも知らないで、恨んでしまってごめんなさい。そして最後がどうなったとしても、私を産んでくれてありがとう。
そんなありふれたなんの工夫も無い言葉。しかしもっとも伝えるのが難しい言葉。それを伝えたところで、過去は変わらない。目の前の私の母親は、もうじきロープに首を通すだろう。だから客観的に見れば意味なんてない。
だからこれは私の自己満足。生者のエゴだ。でもそれで良いと思う。私は元々幽霊とかは信じない質だ。そんな私からしたら、葬式やお参りも、生き残った者達のエゴだと思う。でも、それで良い。それで残された人が未来に進めるなら、踏ん切りがつくなら、なんでもするべきだと私は思う。
「だから……ありがとね、クマさん」
私は気がつけば文字の森の原っぱの上で横になっていた。現実に戻ってきた。お母さんがロープに首を通した瞬間、こっちに連れ戻された。何も言わないけれど、クマさんの配慮だろう。母親の自殺のシーンを、その娘に見せるつもりは無かったのだ。
「ちゃんとお別れできた?」
クマさんは仰向けになっている私の顔を覗き込む。
きっと全て分かっていたんだろうな。
私は呑気な顔をしているクマさんを見上げながら、心底そう思った。
たぶんクマさんは、あの悪い者の正体が私の母親の木から発生していると気づいていたに違いない。だから私にだけ妙に過保護だった。私が連れ去られないように、私が引きづられないように。そしてきーさんを先に帰したのも、私が母親と対面するとこまで見越していたからなのだろう。私がそれを、クマさん以外に知られたくないと思っていたことも承知していた。
やっぱりクマさんは侮れない。つくづくそう思う。
「お別れ……出来たのかな? たぶん出来たと思う」
我ながら曖昧な答えだが、許してほしい。これが今の私が答えられる精一杯の返事なのだから。
「じゃああの手紙ももういらないよね~」
手紙? 今手紙って言った?
「なんのことかなクマさん?」
私は顔面から血の気が引いていくのが分かった。手紙ってもしかしなくてもあの手紙だよね? 他に私手紙って書いてないし……。
「あれだよあれ。拝啓、母へって書いてある奴だよ~」
クマさんはニコニコしながら、秘密の手紙の存在を公にする。いや、ここには私とクマさんしかいないから公とはちょっと違うのかも知れないけれど……それにしたって誰であろうと存在は知られたくなかったのに!!
「どこで見たの?」
「え? 引き出しの中だけど?」
クマさんは私の声のトーンが、一段階下がったことに気がついているのだろうか? きっと気がついて無いんだろうな……。
ああ……それにしても、まさか引き出しにしまったままだった手紙が読まれるとは思わなかった。私がミスって机の上に置きっぱなしにしてたら、まだ気持ちの整理というものがつくのだけれど、ちゃんと隠してたのに読まれたんじゃあ、私に落ち度はないよね? クマさんが悪いよね? だって勝手に私の部屋の引き出しを漁ったんだから。
「なんで、引き出しの中を見たのかな?」
「ふ、文香、怒ってる?」
おバカなクマさんもようやく気がついたらしい。
「う~ん……どうだろう?」
私は敢えてにっこりと笑う。
しかし私のその笑顔が逆に恐ろしかったのか、クマさんは
そんなに私って怖いのかな? 結構優しい方だと思うけど。まあでも目の前でここまで震えられたんじゃ、それこそ私の怖さを証明しているようなもの。じゃあやっぱり私の作り笑顔は怖いらしい。
「いい? クマさん? 人の部屋の引き出しは勝手に漁っちゃダメなんだよ?」
私は子どもに教えるぐらいの気持ちで、大きなクマさんに教える。これは教育であって、決して私が怒っているわけではない。
「なんで?」
「プライバシー」
「ぷらいばしー?」
「そうプライバシー。人には誰だって他人に知られたくないことや物ってあるでしょう?」
「僕には無いよ?」
クマさんは首を傾げる。元ぬいぐるみだけあって、愛くるしさがヤバいのだが、それに飲まれてしまってはならない。ここはクマさんに人というものを教えるチャンスなのだ。
「それはクマさんがぬいぐるみだからでしょ!」
「ああ~そういうことか! 文香は頭がいいね~」
クマさんはそう言って立ち上がり、伸びをする。いつどうやって体が縮こまっていたのかは知らないが、とりあえず伸びをしていた。
分かったのかな? たぶん分かっているはず。クマさんはこう見えて、見た目よりは多少頭は良いのだ。
「帰ろう。文香。僕たちのお家へ」
そう言ってクマさんは私を引っ張り起こしたのだった。