「クマさん! 雨が!」
アイツが来る……。
「掴まって!」
クマさんは私を背負って、猛烈な速度で走りだす。それはもう見事なスピードで、普段のクマさんからは想像も出来ないほどだ。下手したら車並みに速いのではないかと思う程。初めて本気のクマさんを見た気がした。
クマさんは必死に走っているが、雨脚も強くなってきた。纏わりつくような風も吹き荒れ、空に広がる分厚い黒い雲の隙間を、時折雷光が走る。
もういつ悪い者が現れてもおかしくない。私がこの森に住み始めてから今回で二回目。最初の時は、チャイムを鳴らしてきたんだ。そうだった。つまり悪い者には、それなりの知性があるということになる。
そして狙われた者は徐々にその精神を病んでいき、やがてきーさんの持ち主だった私の親友のように、自ら命を絶ってしまう。それが悪い者が起こす現象。前回は、コテージの中で鍵をかけていたから安全だった。しかし今回はどうだろう? 今私達は森の中、コテージまでそう遠くは無いはずだけど、前回のように黙って身を隠すことなんて出来ない。
「文香、今から一言も喋らないで、出来るだけ息を止めていて」
クマさんは急に立ち止まり、雨の音にかき消されそうなほど小さな声で囁く。要するに、今度こそ本当に死んだふりをするべき時らしい。私が最初にクマさんと会った時にそうしたように、あの時は間違っていたけれど、今回ばかりはそれが正解のようだ。
死んだふりをするために態勢を整えた際、クマさんの肩越しに私は見てしまった。
おそらくあれが”悪い者”だろう。
その大きさは人間と同程度。富士の樹海で自殺した人の怨念や執念が形になった者であるなら、人と同じくらいの姿かたちなのは理解できる。
大きな黒いローブを頭の上からすっぽりと被り、その表情や体格などは一切分からない。おまけに体から周囲に黒いオーラを垂れ流しているように見え、その不気味さを増している。
私は何故だか、ぱっと見で女性だと思った。そう感じた。理由は分からないけれど、なんとなくそうだと認識した。
私は目を薄っすらと開けて、クマさんの背中に全てを預け、顔を右側に向ける。もうアイツの姿は見えない。というより見たくない。見ているだけで、体の奥底から震えが止まらなくなる。
クマさんはゆっくりと刺激しないように、歩き出した。私は歩く振動を感じながら必死にしがみつく。悪い者は、そのまま動いてる気配はない。その場に立ち止まっているのだろうか? そもそも立っているのか、浮いているのか分からない。
クマさんはやや左側に遠回りしながら、悪い者の隣を通り過ぎるつもりだ。体感的にも、コテージまであと少し。コテージに逃げ込んでしまえばこちらの勝ちだ。
それまでできるだけ刺激しないように、悪い者に認識されないように、ゆっくりと動く。
ちょうどクマさんと悪い者がすれ違う瞬間、両者の間は五メートルほどは開いていたと思うが、右側を薄っすらと目を開けながら向いていた私は、気がついてしまった。
悪い者のローブから覗く視線。その紫の視線は、間違いなく私を見ていた。クマさんではなく私を。まるで私以外には興味が無いかのような、そんな絡みつくような視線。そしてその口元が微笑んだような気がした。
私は緊張で、しがみついている両手に力が籠る。それを察知したクマさんが全速力で駆け出した。私はすれ違いざまに少しだけ首を捻って後ろを確かめると、悪い者はこちらを振り向くこともなく、ただその場に立ち尽くしていた。
「早く入って!」
コテージに到着したクマさんは、私を背中から降ろして背後を確認する。
私は指示通りコテージに飛び込み、クマさんの後ろから周囲を見渡す。あの様子だと悪い者は追っては来ないだろうけれど、用心に越したことはない。何せ相手は、正体がいまいち分かっていない怨念の集合体なのだ。
「無事だったか?」
背後からかけられた声に驚いて、コテージの中を振り返ると、先に戻っていたきーさんとうーさんがダイニングテーブルの下に隠れていた。
テーブルの下にいたってあんまり変わらないと思うけど。
一瞬そう思った私は、急遽その考えを改める。彼らは、今までに悪い者を直接見たことがあるのかも知れない。だったらこの反応も理解できる。さっき見たあの悪い者は、やはり常識では考えられないほどの不気味なオーラを放っていた。
あの死んだような視線が私を捉えた時の恐怖感といったらもう……表現のしようが無いほどだ。有り体に言ってしまえば、心臓が凍ったような感覚。とても正しい表現とは思えないけれど、それくらい生きた心地がしなかった。
「追っては来てないみたいだね」
ドアを厳重に閉めたクマさんは、いつも通りの穏やかな口調に戻っていた。ただそれだけで体温が戻ったような感覚に陥る。気がつけば私は、それだけクマさんの事を信頼していたのだ。
いざという時は頼りになるクマさん。見た目に反してキビキビ動けるクマさん。そして何よりも私を優先してくれるクマさん……その事実が私の心の内を満たしていった。