横浜南署の第一取調室では、千春による何回めかの聴取が行われていた。
「恋愛リアリティショー?あの、動画サイトで人気の?」
「アイチューブ版で『カップルが成立したら十万円の賞金がもらえる』ってプロデューサーに言われて。そりゃ、こっちも選んでくれそうな地味メン狙うわよ」
莉緒の供述内容はこうだ。
恋愛リアリティ動画「勝手にマッチング!」の撮影が行われたパーティー会場。男女数十名がお見合いをし、あちこちでカップルが誕生する。МCが「さあ、今回も十数組のマッチングが成立したようだ」などと、司会進行をしている。その中に、満生と莉緒のカップルもあった。
「こっちのカップル。彼氏が彼女を選んだポイントは?」
「あ、全部、です」
満生が恥ずかしそうに答えた。
「彼女の方は?」
「ええ?彼頭よくてえ、将来はお医者さんになるって言うしい…」
莉緒の正直な答えに、ⅯCがすかさずツッコミを入れる。
「動機が不純だよ!さ、ここからは、それぞれが愛を育んでもらうことになるぞ。気になる人は、チャンネル登録よろしく。アイ、チューブ!」
この収録がネット配信されるのだ、と莉緒は信じていた。
舞台はパーティー会場のあと、とある会員制バーに移された。 ふたりにはⅤIP席があてがわれた。
「今度、両親に会ってもらえる?」
浪岡満生が神妙に提案してきた。
「ええ?本気で言ってるの?」
「本気だよ。僕みたいなタイプは、遊びで女性と付き合うなんてできないよ。正式な交際をしたいんだ」
「ま、考えとくわ。おかわり!」
赤い顔でグラスを掲げた、という。
(この人と結婚したら、少なくとも将来の不安はなくなるな)
そう考えると満更でもない気がして、酔いつぶれたそうだ。
莉緒が目を覚ました時、店内に客はひとりもいなかった。
店長だと言う男が、300万円の請求書を差し出してきた。
「お客様。お支払いをお願い致します」
「え?何これ。訳わかんないんだけど」
「お客様は、70万円のドンペリ4本を店中のお客様に振舞われました。プラスお食事代とお席料…小学生でもわかる計算です。正当な価格ですよ」
強張った顔で辺りを見回したが、満生はいなかった。
「お連れ様はお帰りになりました。泥酔されたあなたに、呆れられたご様子で」
莉緒が顔面蒼白となるのも構わず、店長は続けた。
「無銭飲食は詐欺罪です。将来ある身で前科持ちは、いろいろシビアかと」
「で、でも無理よ!こんな大金」
「お支払いが難しいようなら、売掛け…ツケにしてさしあげますよ。それと、高額報酬のバイトもご紹介します」
こうして莉緒は特殊浴場で働くはめになった、という。
第一取調室で、莉緒が千春に話す。
「アイチューブに、そんなチャンネルなかった。全員がグルだったのよ。もう誰も信じらんないわよ!」
「…その、バーの名前は?」
この夜も翔子は、久しぶりの捜査活動に疲れて帰宅した。
「しょ、翔子ちゃん。お帰り」
同居人の声が聞こえ、奥のキッチンから顔を出す。その顔は茶色く煤も付いている。
「亜美ちゃん。何してるの?」
キッチンに行くと、テーブルとシンクに食材が飛び散らかっている。
「な、何かあった?」
「‥カレーをつくった。な、慣れないから、なんか、汚した」
バスルームから轟音がした。
行ってみると、洗濯機から大量の泡が噴き出している。
「あ、また失敗したあ。ちょ、ちょッとでもお手伝い、したかった。ご、ごめんなしゃい。翔子ちゃん」
申し訳なさそうに俯く。
「…ううん。ありがと」
口ではそう言ったが、ストレスは増大した。
カレーを一口食べる。
(初めてだ。味がしないカレー)
しかし、亜美は黙々と食べている。取り繕うしかない。
「あ、おいしい。亜美は、お料理上手なんだね」
「お、女の子だもん」
はにかむ亜美の表情を見ると、頑張ったことだけはわかる。
(この子は今まで、どういう生活をしてきたんだろう?」
思いを巡らせスプーンが進まないのを、亜美がたしなめる。
「早く食べないと、ママに叱られるよ」
その語調に違和感を感じつつ、翔子は大急ぎで食べ続けた。
数日後の刑事課長室。翔子はこの部屋の主の前で畏まっていた。
机上には、満生と神谷の写真がある。
応接ソファにはニ係長が座っている。
「護城巡査‥」
何か叱責されるのか?ストレスが角を出す。だが次の瞬間、桜庭課長は笑顔になる。
「お手柄だ」
「…あ、ありがとうございます!」
ホッとし、嬉しそうに敬礼した。
「えっと。ですが、一体どの辺がお手柄なのでしょうか?」
課長が苦笑する。
「ま、そうなるか。護城巡査も、先日の強盗傷害事件は知ってるわよね?」
「はい。グリム事件と呼ばれてますね」
「私達刑事課は、指示役の正体を探っていた。でもその『グリム』という仮名以外、本名も容姿も全く掴めていなかったの。それが先日ようやく、そのグループに浪岡満生という人物が関係してることが判明し、あなたに調べてもらった、というわけ」
「あ。では、本官の拙い捜査が少しはお役に立てた、ということでしょうか?」
「捜査ってほどじゃねえがな。二係長の堂前だ」
立ち姿は、ナントカ歌劇団の男役のように凛としている。
(わ。私に怒鳴った人だ)
スマホを出し、翔子に歩み寄って来る。
「グリムというのは、中世ヨーロッパで擬人化された死神『グリム・リーパー』のことだ。マント姿で鎌を持つ骸骨…」
言葉通りのグリムの画像を見せる。
「指示役はこのデザインを、連絡用のアバターに使っていた。そして君が提出した写真の、神谷の刺青も…同じデザイン」
スマホの画像と神谷の刺青を並べると、明らかにそれがモデルだとわかる。
「つまり、神谷がグリムである疑いが急浮上してきた、ということよ」
課長が補足する。
「強盗傷害の実行犯が、とある飲食店の名を口にした。調べてみたら、その店のオーナーの登記名も『神谷勇樹』という人物だった。ビンゴだ」
「その店はトクリュウ達のアジトであり、闇バイトをリクルートする拠点なの。急遽家宅捜索したけど、もぬけの殻だった」
「トクリュウというのは、匿名流動型犯罪グループでしたよね?」
「ああ。ネットを駆使して匿名で素人をコントロールし、特定組織には属さない流動型だから暴対法の対象外。最も卑劣で厄介な反社グループだ。暴力団が悪魔なら、やつらは正に死神だ」
「…死神」
「堂前。刑事課全体の捜査会議を開く。
各係の班長以上を集めて」
「了解」
ニ係長が敬礼して退出する。翔子も後に続こうとしたが、止められた。
「護城巡査。あなたも出席しなさい」
翔子が立ち止まる。
「え?ですが本官は、生活安全課の総務担当でありまして…」
「生安には私から連絡しとく。今日から刑事課出向ということでね。私の古巣なんだから、どうとでもなるわ」
「で、ですが」
「護城巡査。捜査現場に戻るチャンスだと思いなさい!」
「…はい」
横浜南署の大会議室に「高橋家強盗傷害事件捜査会議」の札が貼られた。すでに刑事課係長班長クラスが揃っており、室内は情報交換でざわついている。
堂前捜査二係長は、ある仕掛けをするためにスマホの通信アプリを開いた。
[アオ君、ミドリ君。逃亡資金を渡します。アジトに集合]
この文面を、一斉送信する。
(よし。コマセは蒔いた)
つづいて、動かす部下を探す。後方の席で同期の幸田と名倉が話し込んでいるのを認めた。
「名倉。なんでこのヤマ、おまえらが仕切ってんだ。タタキは捜一案件だよな?」
「今回の主犯は元々特殊詐欺グループだから、『二係主導が合理的』ってことさ」
「どうせ、堂前がねじ込んだんだろ?」
「リケジョで語学堪能の係長が、自ら証拠品を解析して掴んだネタだからな」
「ち。船頭が、てめえで釣り糸垂らしてどうすんだよ。チーム・リーダーの役割がわかってねえな。これだから女は…」
言い終える前に、幸田の後頭部が弾かれた。
「いって!何すん…」
背後には、パチった中指を立てている瑠璃がいた。
「その女性蔑視発言は、私のことか?それとも横南初の女性刑事課長のことか?」
幸田が慌てたように小声で返す。
「お前に決まってんだろ。俺だって、桜庭さんの実力は認めてるわ」
前席の千春に聞かれてないか、幸田が見やる。
「教場の同期だから、タメ口には目をつむってやるがな。カツオ漁は、船頭も率先して釣るんだよ。SⅮGsと伝統漁法について、もっと勉強しろ。巡査部長」
「…以後精進します。警部補殿!」
階級社会だ。幸田が憎々しげに姿勢を正す。
「例の店に行け。ここはいい」
瑠璃は、今は直属の部下である名倉に命じる。
「一本釣りですね。了解」
そう言って瑠璃に席を譲り、名倉は退室した。
「では、高橋家強盗傷害事件の捜査会議を始める。まず捜査の進捗状況から…」
桜庭刑事課長の進行で会議が始まった。
瑠璃が飲み物を配る翔子の姿を見とがめて呟く。
「何やってんだ、あいつ。男社会に媚び売ってんじゃねえよ」
「護城翔子か。やっぱ華があるよな」
幸田が呟き返す。
「へえ。あいつ有名なのか?」
「ああ。エリート係長様は、去年までFBI研修に行ってたから知らないか。横南のアイドルにして問題児…」
続ける前に指名された。
「暴対係・幸田班長」
「は、はい」
「地元の暴力団組織と今回のトクリュウグループとの関係を、端的に説明して」
「はい。ご案内の通り、うちの管轄には数十年前から、指定暴力団『相模会』という反社組織が存在します」
幸田は数日前に相模会の応接室で若頭の塚原と対峙した。
壁には「義侠心」の掛け軸が掛けられていて、この組が古臭い伝統に縛られた組織であることを物語っていた。
「先日の強盗傷害事件。ウチのカイシャ(隠語・警察署のこと)じゃ『裏で相模会が糸を引いてる』なんて 噂もあるんですよ。いつからトクリュウと仲良しになったんです?塚原さん」
塚原が苦笑する。
「仲良し?あんな連中とつるんで何の得があるんだよ。仕事は雑。やり口はヤクザも引くほど残虐。おまけに実行犯がパクられても、組長まで監督責任が問われる?割に合わねえよ」
「その話、信じていいんですね?」
幸田は自分の経験をフル稼働させて、真偽をはかった。
幸田の説明が続く。
「塚原の話は嘘ではないでしょう。確かに暴力団の中にはトクリュウと提携する組織もありますが、暴対法の締め付けが厳しいため、一線を画す場合も多いんです」
「幸田、ご苦労。つまり犯罪組織も、悪い意味でダイバーシティ、多様性を広げているということね」
(犯罪のダイバーシティ、か)
翔子はお茶を配り終えて、末席で聞いていた。ダイバーシティ…この近年の流行語がこの事件と根っこにあるような気がした。
前席のスクリーンには、神谷と満生の顔写真が映し出されている。
「いずれにしろ今後の最優先は、この浪岡満生と神谷勇樹の行方を追うことだ。各部署情報共有しながら、捜査に当たってほしい。最後に護城巡査…」
「は、はい!」
「今回の功労者だ。なにか付け加えることはある?」
捜査員の視線が翔子に集まる。
慌ててお茶セットをしまいながら立ち上がった。
「ええと…浪岡満生と神谷勇樹の関係についてですが…何と言いますか…満生君は神谷に対して、少なからず好意を抱いていたと思われ、そのう…これは意外にデリケートな事件ではないかと…」
不意を突かれて、思っていることを咀嚼せずに話した。
「BLってやつか?」
「好きだねえ、オンナは」
失笑がもれる。
「それですよ!女だからこう、男だからこう…そういう固定観念に縛られていては、この事件の本質は見えてこないと思うんです。もっと…何というか根の深い…あ!」
興奮してお盆をひっくり返した。
(なにムキになってんだか)
瑠璃は冷笑する。
「もういい。堂前。護城はあなたの下につけます。責任を持って指導しなさい」
「ええ?」
ふたり同時に不満を表した。
「アイドルで問題児…類は類を、か」
瑠璃の隣で、幸田がこっそりほくそ笑んだ。
会議室の外では「週刊リアル」の腕章を着けた西浦が立ち聞きをしていた。
(強盗傷害だけじゃ弱いけど、BLにトクリュウを絡めりゃ一本書けるな。そう言えば最近、実行犯に弁護士が付いたみたいだな)
西浦は書き留めたメモをしまって、次に取材先に向かった。
翔子が覆面パトを運転した、助手席では瑠璃が憮然とスマホをいじっている。
「護城。お前は、どんな女になりたい?理想像っつうかさあ」
「理想像、ですか?」
「綺麗な女、賢い女、やさしい女…私は『かっけえ女』になりたいんだよな」
「はあ」
「護城はやっぱ、かわいい女か?」
「…いえ。どうしてそう…」
「だってみんなから『アイドルちゃん』とかって呼ばれてんだろ」
そう言ってスマホを見せる。画面上に「神奈川県警のアイドルポリス・護城翔子」という動画が流れる。ミニスカポリスの衣装で、県警PRの動画に出演している姿だ。
「ひい!」
悲鳴を上げて、スマホを奪おうとする。
車が蛇行する。
「運転に集中しろ!阿呆。パトが事故ったらシャレにならんわ」
「すみません!」
我に返って運転を立て直す。
「恥ずかしがるようなことか?県警の広報部が、毎年女性警官をPRに担ぎ出すやつだろ?立派な職務じゃないか。それに私も、新人の頃やらされたぞ」
「え?堂前さんもですか?」
「ああ。私の場合はナイスバディだから、アイドルってより男どものオナド…」
再度急ハンドルを切る。
「おい!」
「同性でも、下ネタはセクハラです!」
「やっぱ、アイドルじゃん」
むっとする翔子をよそに、さらに検索をかける。
「横浜南署の女性警官、被害者救出のため発砲。賛否の声」という記事がヒット。
(で、これが『問題児』の方か?)
会員制バー「ⅮIⅤERCITY」が入っている雑居ビルの前。
瑠璃と翔子が到着して降りる頃には、既に名倉ら二係員達が、酒井と水野を連行していた。
「切羽詰まってたようだな。ふたりとも、ソッコーでコマセに飛びついたか」
「係長。やはりグリムは来ませんでした」
酒井をパトカーに押し込みながら、名倉が報告する。
「不審がって覗きに来るかもと思ったが、そううまくはいかんわな」
がらんどうの店内。瑠璃は壁の従業員の集合写真をチェックした。
酒井と水野の顔はあるが、神谷はない。
(自分の店でも、神谷はツラを晒してない。用心深い奴だ)
翔子の方は、店名の内看板を見ている。
「ダイバーシティ…あれ?でも、綴りが違うような…」
「ああ。多様性のシティはSITYだが、ここのはCITY…『潜りの街』とでも訳しとくか。地下に潜ってるトクリュウどもには、ぴったしだな」
「ここは、先程課長が『リクルートの拠点』と仰ってた店ですよね?」
「神谷のリクルートは独特だ。まず奴はネットで使えそうな男達を集める。男をルアーにして女を釣り上げるんだ」
「車の中でも聞きましたけど、私にはどうしてもロマ…浪岡満生が、中原莉緒を騙したとは思えないんですが」
「そういう供述があるんだよ」
取調べ中の莉緒が、満生の写真を指で示して頷いたのだ。
「お前の話じゃ、浪岡は神谷に惚れてたんだろ?恋は盲目だからな」
「そんな」
「闇バイトは風俗だけじゃない。特殊詐欺のかけ子受け子出し子、窃盗強盗の実行犯。犯罪に手を染めた子たちは決まって言う。『悪い事とわかっていても、言いなりになるしかなかった』」
「え?その子たちは恋愛や結婚っていう、普通の夢を見ただけですよ!」
相手が違うとわかっていても、翔子は瑠璃に悔しそうに訴えた。
「言ったろ。トクリュウは死神だ、って。死神は夢を与えて、魂を奪う」
翔子の両手がわなわなと震えている。
ふん。こういうところが、こいつの長所であり欠点だな…瑠璃は翔子をそう分析する。
「いいか。グリムは神谷と決まったわけじゃない。浪岡かもしれないんだ。被疑者に感情移入するのはやめろ」
翔子は黙り込んだ。その通りだ。警察学校でもさんざん教わった。
署に戻った名倉は、第二取調室でさっそく容疑者を取り調べた。水野の前に二枚の写真を置く。右に映っているのが神谷で左が満生だ。
「このふたりに見覚えは?」
「…ありません」
「右は店のオーナーだ。マネージャーのあんたが知らないってのか?」
「いえ。採用された時もリモートだったし。業務報告や指示も…」
常にサングラスとマスク姿の人物がPC越しにしか対話しなかった、という。
「ちょうどコロナの時期だったので、そういうものかと」
「左の若い男は?」
「…見かけたことはあるような。多分客の一人じゃなかったかな」
そう言いながら、水野は目をそらした。嘘をついている。名倉はインプットしてから、水野を留置場に帰した。
「…今日はここまでにします。もうひとりは?」
そう言って筆記する事務官を見る。
「それが、体調が悪いということで、弁護士から聴取の延期を…」
(確かに、目が病的ではあったな)
逮捕時の中毒者のような酒井を思い出し、そのこともインプットした。
例の便利屋の事務所に向かう途中で、そのビルから出ていく君江とすれ違った。
「あ。浪岡さん?君江さんですよね?」
ビクっと立ち止まった女性は、確かに浪岡君江だった。
「上京されてたんですね。携帯の方に、何度かご連絡差し上げたんですけど…」
「あ。ああ。あの時の婦警さん」
また「婦警」だ。この人もか。
「息子さんのことで、いろいろお聞きしたいことが出てきまして」
「ああ。すんまっしぇん。携帯、水に浸かってしもてですね」
「では。新しい連絡先を…」
「ああ。ホテルに置いてきたばい。後でこっちから連絡するけん。そいじゃ」
逃げるように立ち去る後姿は、不審そのものだった。翔子は事務所のある階を見上げる。
(ここに、用事があったってことよね)
堂前瑠璃の忠告が蘇る。被疑者に感情移入はするな。
今度は一階にあるロビーで、出かける愛子と鉢合わせした。
「あ、愛子さん」
「…刑事さん?」
戸惑い気味に答える姿までも怪しく見える。私は悪い意味で捜査官に戻りつつある、と翔子は思う。
「確認したいことがあるんだけど、赤羽さんはいらっしゃる?」
「あ、今日は留守みたいですよ。出張とかで。でも、刑事さんが何度も事務所まで来るってことは、何かの事件?」
同じ趣味を共有する親近感なのか、タメ口だ。だが、若い子はそんなものだろう。
「ううん。ホントにただの事務的なこと。あと、私刑事じゃないわよ。制服だし」
そう言って、お堅い自分の制服を示す。
「でも、ニュースに出てなかった?『神奈川県警アイドルポリス、発砲して被害者を救出』とかって…撃ったんでしょ?バーン!って」
愛子の発砲の仕草に、何人か振り返る。
人目をはばかるように、翔子がロビーの隅に愛子を連れていく。
「あれはね…」
翔子は観念したように説明し始めた。
見るからに安アパートの玄関に「滝沢」の表札が掛かっている。
先程から呼び鈴を鳴らしているが、応答はない。だが…
(人の気配がするんだよな)
居留守の可能性は捨て切れない。なぜならこのアパートは義理の父親に売春を強要されている少女が住んでいたからだ。
翔子が所属する生活安全課で一度保護していた。ところが実の母親が警察に不服申し立てをして、取り返されてしまった。警察の民事不介入の原則には逆らえなかったのだ。
カギはかかっていない。そっと開けると、玄関に男ものの靴が見える。一旦ドアを戻し、無線をとる。
(生安巡査、護城です。応援の要請を願います。場所は…)
ニ十分が長かった。玄関の横で応援を待つ。
(教場で習ったのは、応援が来るまで待機。単独行動は厳禁…)
「いやあ。やめて!」
という叫び声が、部屋から聞こえてきた。男は薬物の常習者で、一刻を争う状況だった。
意を決して、部屋に踏み込んだ。
「滝沢さん!」
中には、片手絞めにされる亜美がいた。包丁を手にする血走った目の市川もいた。
「はっは。やっぱりサツを呼んでやがったな。亜美は、悪い子だなあ」
亜美の首をくいと締める。苦悶の声が漏れる。
「や、めて。パ、パ」
「お仕置きだ。サツの前で…殺す」
市川が包丁を亜美の首に当てる。
「武器とその子を、放しなさい!」
拳銃を抜いて構える。
「やあだよ」
市川の目は狂気に満ちている。
「…お願い…放して…」
泣きそうな気分でで銃爪を絞る。
発砲音。
「ギャア!」
弾が市川の耳元をかすめる。
亜美と包丁を放り出し、白目をむいて倒れる。
応援の警官隊がようやく到着した。
拳銃を構えたまま、へたり込む。
「う、撃っちゃ、った」
話しながら翔子はロビーのソファでうなだれた。
(ああ。私の警察官半生は、黒歴史だらけだ)
上野愛子は、じっと真剣に聞いてくれていたようだ。
「この国の警官は、拳銃を持たされてるのに…撃つと非難されるの」
一般人相手に愚痴をこぼしてしまった。
「でも、仕方ないですよ。その子をどうしても助けたかったんですよね?」
愛子は立ち上がって、自販機でコーヒーを買っている。
「私もそう言った。でも監察官からは『なぜ応援を待てなかった?これだから女は』って、頭ごなしに言われたわ」
「でも私は、女性警官だって勇気を出して守ってくれるんだ、ってわかったよ」
愛子がコーヒーを翔子に手渡す。あらためて見ると、この秘書は美少女だ。今日はパープルのスカーフを巻いている。
「…あ、ありがと」
「胸を張って下さい。翔子さんは、人を救ったんです」
「救った、か。でもね、人を救うって、そんな簡単なことじゃないのよ」
つづく