それからしばらくは、なんでもない日常が続いていた。
寒い季節が終わり、花が咲き始めるあたたかい空気が漂っていた。
ロレッタはますます料理の腕を上げた。ベスに習った料理だけでなく、自分でアレンジしたり、創作料理に挑戦したりしていた。そしてそれらは全部、美味しかった。
おれのほうはときどき村長に頼まれて依頼をこなしたり、鍛冶屋のテイラーに頼まれて木材や石材を切り出したりと仕事をしていた。村の何でも屋みたいな扱いで、頼りにしてもらえているのがわかる。
それなりに実入りがいいので、毎日あくせく働かなくていい。基本は、ロレッタとふたりでゴロゴロ生活だ。
のんびりお話をしたり、ふたりで読書して過ごしたり、ソファでただ寄り添っているだけだったり。
食材の買い出しには、いつもふたりで行く。相変わらず、夫婦扱いされるが、おれはもう否定することはない。ロレッタは照れながら「まだ違う」とか言うが、満更でもない様子だ。
そうしていくうちに、ロレッタも村の人間たちにも少しずつ慣れてきて、始めの頃と比べれば怯えは少なくなってきた。人見知りが治ったわけではないし、家に閉じこもるほうが好きなのは相変わらずだが。
ただ、やっと村にまで届いてきた、魔族との緊張状態についての噂を聞くと、ロレッタは難しい顔をして黙ってしまう。
穏やかに過ぎていく日々が、いつまでも続けばいい。おれもロレッタもそう思っているけれど、いつまでも続かないことも、どこかで理解していた。
だから、そいつが来たときに驚きはなかった。来るべきときが来たのだという、諦めに近い気持ちしか湧いてこなかった。
「陛下をお迎えにあがりました」
その魔族の女官は、恭しく頭を上げてそう言った。
「勇者レオン様、長年の宿敵でありながら陛下を手厚く保護していただき、誠にありがとうございます」
「エレーナ……」
ロレッタはその女官を見て、息をつまらせていた。
「ご無沙汰しております、陛下。お変わりないご様子——いえ、少し体重が増えました?」
「——!? そ、そんなわけない」
慌てるロレッタに、エレーナはややきつめの視線を向ける。
「自己管理がなっておりませんよ。そのようなことでどうするのです」
おれは割って入って、視線を遮る。
「エレーナさんと言ったね。どうしてここがわかった?」
「城を出ていかれた陛下の行くアテなど他にありませんから」
「なるほど。魔王軍は、とっくに居場所を知っていたというわけか」
「いいえ。陛下が宿敵である勇者に特別な感情を抱いていたことを知っているのは、わたくしだけでしょう。皆、陛下の御心に、興味がありませんでしたので」
「だったら、なんで今更迎えになんて来たんだ。ロレッタに興味がないなら、放っておいてくれればいいじゃないか」
「わたくしたちの王には間違いありませんので。果たしていただきたい役目があるのです」
「なにが王だ。戦うこと以外ろくに教えてこないで、都合のいい戦力として使ってきただけだろう。どうせ連れて帰っても、また利用するだけなんだろう。人間との和平を取りやめにさせるとか……本人の意志も無視して……!」
「耳の痛い話ではあります。ですが、逆にお伺いしますが、なぜあなたが文句を言うのです? 人間のため? 勝てない魔王を封じ込めておけば、戦いに有利になるから? 魔族が王を取り返す。それを止める権利があなたにあるとでも?」
「——彼女を愛している」
エレーナは目を見開いた。
「今、なんと?」
「おかしいか? おれはロレッタを愛している。だから離れたくない。幸せになれないのがわかっているのに、彼女を帰すわけにはいかない」
驚き固まったエレーナは、やっとのことでロレッタに目を向ける。
するとロレッタも、頬を染めたまま、こくりと頷く。
「そう……ですか。陛下とあなたが……そうですか……」
考えるようなわずかな沈黙のあと、エレーナは改めておれの目を見た。
「陛下とあなたでは本来、立場も、役目も、生きている世界さえ違うのですよ」
「そんなものは、どうでもいい」
「愛していたとしても、止める権利などありません」
「知ったことか」
「ですが……知る権利はあると思いました」
「なにを知る権利だ?」
「陛下と、魔族の事情について。わたくしが、今になって陛下をお迎えにあがった理由について。これも、どうでもいいことでしょうか?」
「……いや、知りたい。教えてくれ」
エレーナは頷き、話してくれた。
ロレッタは、正真正銘、由緒正しき王族の血筋だという。先代の魔王やその王妃が立て続けに亡くなってしまい、幼いロレッタが即位することになった。
幼い王が即位した国では、大きく分けて2種類の者が現れる。先代の遺志を尊重し、幼き王を正しく教え導こうとする者。あるいは、王が幼いことを利用して自らの欲望を果たそうとする者。
ふたつの派閥は、ロレッタの知らないところで争い、知らないところで決着をつけていた。ロレッタは、彼女を欲望のままに操ろうとする者たちの傀儡として育てられることになった。
歴代の魔王から受け継がれた高い戦闘の素養を活かすため、戦いのことばかりを教え、その他のことはろくに教育してこなかった。表ではいつだって、王だから偉い、とおだてていい気分にさせ、戦闘に駆り出していた。魔族最強の戦闘力で、反対勢力さえ黙らせていた。
どこかで聞いたような話だ。
幽霊屋敷のクラウス。ロレッタが彼に見せた共感や、
ロレッタは戦闘以外での他者との接触も制限され、人見知りが加速していったという。
そして人間領への侵略。戦争。
魔族最強戦力を利用して、支配域を広げようとした。だが、そこでおれが現れた。20年間、魔王を魔王城に釘付けにした。
魔王を城の防衛から外せば、たちまち陥落することは目に見えていた。かといって、主流の派閥が城から逃げることは、劣勢だと内外に認め、士気を下げることになる。そのため魔王を盾に城に居続けたという。
ところがおれが引退してから、魔王ロレッタは次世代の勇者に和平を持ちかけた。
彼女からしてみれば、自分は魔王で、みんなは言うことを聞いてくれるはずだった。だって、そう教えられてきた。
傀儡ではあるものの、魔王の権威自体は本物で、主流派はそれを無視することはできず、一応は呑み込んだという。
その上で、ロレッタの勝手な行動を激しく叱責した。
だが王として偉いのだと育てられてきたロレッタには、それがなぜだかわからない。なぜ言うことを聞いてくれないのか。なぜ知らない間に全部決められているのか。
そして、下から突きつけられる指示という名の命令。
ロレッタはどうすればいいのかわからなくなってしまった。ただ、このまま言いなりになっていたら、自分で決めた和平もなかったことにされてしまう。会いたい人に会えなくなる。だから——。
「だから逃げたの。家出、した」
エレーナの話とロレッタの補足で、ここまでの事情は理解できた。
問題は、その次だ。
「そんなロレッタを連れ戻そうという理由はなんだ、エレーナ」
「主流派を一掃するためです」