騒々しかった屋敷は、急に静寂に包まれた。
日焼けした絨毯、埃の被った書物、倒れてそのままのティーカップ。
確かに人が住んでいた名残がある。けれど寂しいほどの静けさが、今は誰もいないことを際立たせている。
「……ありがとう、ふたりとも」
クラウスは今にも泣きそうな笑顔だった。
「お陰で、ぼくは役目を果たすことができたよ」
「おれたちは、ただ手伝っただけだよ」
ロレッタも小さくこくこくと頷く。
「クラウスが、一番頑張ったよ。家に帰って、やるべきことをやれた……。わたしには、できないこと……」
「……うん。やっと、やっとこれで終わる……。ありがとう」
クラウスの体が透けていく。幽体が光の粒になって、少しずつ天に昇っていく。
「ねえ、最後に名前……教えて」
「おれは、レオン・ガルバルド」
「……ロレッタ。ロレッタ・オルディントン・イーズデイル」
「レオン、ロレッタ……。ありがとう、ぼくを見てくれて。ぼくを、ぼくとして扱ってくれて……。まるで……父様や母様が、一緒にいてくれたみたい……」
それを最後に、クラウスは昇天して消えた。
おれとロレッタはしばらく天を仰いでいたが、やがてロレッタはまたおれの手を繋いだ。
「レオン、わたし……わたしは、魔王ロレッタ・オルディントン・イーズデイル……。家出しても、それは変わらないんだね……」
「……そうだね。名前も、立場も、簡単に捨てられるものじゃない」
「わたし……悪いことしちゃってるのかな……?」
「ごめん。おれには、わからないよ。これはロレッタ、君の問題なんだ」
「……うん、そうだね」
ロレッタが見せたクラウスへの共感。そして彼を襲う
自分の境遇に重ねて見えてしまうところがあったのだと思う。
魔王の責務を放棄して家出したこと。その点について考える必要はあるだろう。でも、必要以上に悩むことはない。
「でもね、正しいことがわかっていても実行できないことなんていくらでもある。できるようになるまで、一旦離れるのが一番いいこともあるよ」
ロレッタはうつむきかけていた顔を上げた。
「じゃあ……わたし、まだ一緒にいても、いい?」
「いいよ。約束の時までは、ね」
魔王として為すべきことを為す時が来るまでは、一緒に暮らす。そういう約束だ。
「本当は、ずっとがいいな。ずっと……このままずっと、レオンとのんびり暮らしたい……」
現実的に考えて、そんなことはできないと思う。
もともとの立場も、在るべき場所も、果たすべき役目も違う。
でも……。
「そうだね……。そうできたらいいとおれも思ってるよ」
それがおれの本心だった。
ロレッタは儚げに微笑んだ。
「ねえレオン、もし約束を果たす時が来て……わたしが助けて欲しいって言ったら……手伝ってくれる?」
「おれにできることなら」
「……ありがとう——うんっ?」
ぐらり、と揺れた。地震? いや、屋敷が揺れている。
「え、なに? なんで光ってるの……?」
壁や床が透けていく。クラウスが消えていく時と同じように、光の粒となって昇天していく。
そして視界が光でいっぱいになったかと思うと、おれたちは屋敷の外、玄関前に立っていた。
いや、もう屋敷とは言えない。ひどく朽ちた、廃墟としか言いようのない建物だ。
「う、うぇええ! なになになになに!? なんで外!? なんで廃墟!? お、お屋敷はどうなっちゃったのぉ!?」
「落ち着いて。
かつて高位の僧侶が仲間にいたおれは、この現象に納得がいく。が、ロレッタはそうは行かない。
「落ち着けないよぉお! なにこれ、怖いぃ〜!」
まあ、納得できていてもガチの怪奇現象だしね。
おれは震えるロレッタを引きずるように連れ帰り、温かいお茶を淹れて落ち着かせたのだが……。
夜、もう寝ようという時間、ロレッタは枕を持っておれの部屋にやってきた。
「い、一緒に寝てもいい……?」
ひとりで寝るのは怖いらしい。
「……しょうがないな。今日は特別だよ」
まあ断ったところで、どうせ気づいたらベッドに潜り込んでるだろうしね……。
ロレッタは安心して、眠りについた。
なお、これで味をしめたのか、ロレッタはその後1週間、同じ手口で一緒に寝ようとせがんでくるのだった。