母の夢を見た。俺の歌を聴きながら心が洗われるわ、と言ってくれた母の夢を。そして母の声を聞いた。いつまで寝てんだい起きなきゃぶっ殺すよ、とどう喝する母の声を。
擦りながら開いた目に飛び込んできたのは、見慣れた机の上に置かれた見慣れない10枚の万札。
「この金、どうしたんだよ。」
いつの間にか白髪の混じる母に問う。
「これであんた、スーツと靴とを買っといで。そのまま明日どこでも良いから仕事を探してきな。」
母はこげ茶色の机の上に小さなため息をこぼした。
「だから、なんで10万なんて金がうちにあるんだよっ。」
母はゆっくりと顔を上げ、俺の目を真っ直ぐ見た。
「聞いて、今週末で私の職場が潰れてなくなるの。このままじゃ食べていけない、ここも出ていかなきゃいけなくなる。」
急な話に視界が揺らぐ。突然そんなこと言われても、意味わかんねえよ。
「私だって何とかしなきゃって思って、今朝にね大家さんのとこに相談しに行ったの。そしたら大家さん、分かったって、それどころか新しい仕事が見つかるまでの足しにってこの10万も貸してくれたの。」
このご時世にそんな聞き分けの良い大家がいるもんか。俺の疑いの表情を読み取るように母は続けた。
「家賃を待ってくれる代わりに、玄関にあったあんたのあのギターを貸しときなって。今月中に私もあんたも働いて、少しでも大家さんに返していくのを条件で家賃と10万とを貸しといてくれるって、」
母の説明を聞き終える前に俺は万札たちを握りしめ、家を飛び出した。
紅白の舞台を夢見て、曲を作っては何度かネットにあげてみた。今でも音楽が食べさせてくれた日はない。母から貰うわずかな小遣いも、月をまたぐ前にはゲーセンで溶かしてしまっていた。これまでバイト経験が無いわけではない。でもいつも続かなかった。バイトだけじゃなくて、好きなゲームも音楽のジャンルも。昼食代を削りながらはした金を錬金し、日中はゲーセンで電子音を聴いて、終わったら家で人の作った音楽を聴きながら1日を終える生活リズムが1番頭の中を真っ白にできて心地良かった。
さすがの俺でもこの金でメダルを遊ぶ気にはなれず、かと言って母の言葉を素直に聞いてスーツを買いに行くのも嫌で、俺はあてもなく意味もなく歩いた。何気なくたどり着いた無人駅。線路を抜けた先に広がるのは秋風吹き抜ける海岸。駅前にある青いコンビニは半年前に飛んだから行けない。今日は俺を知ってるスタッフさんじゃないかもしれない。それでもなんとなく気まずかった。
線路をくぐり抜けるための薄暗い地下道を進むと、ひとりで泣きじゃくっている女がいた。俺の心拍数が急に高まったのは薄闇の中のその女を知っていたからだ。
「、、じで。」
見て見ぬ振りをしようとした女から呼び止められ、俺の心拍数は最高潮に達する。
「、、なんて?」
「金貸ずが、あたじを殺じで。」
涙でぐちゃぐちゃの真っ赤な目で女は俺を睨んできた。
「き、急になんだよ。」
「貸ずの、殺じでぐれるの。」
この女が原因で俺はさっきのコンビニを飛んだのだ。
最初は一緒にいると落ち着ける存在だった。自然な流れで付き合って、楽しい時間も過ごした。でもいつしかリズムが合わなくなって、だんだんしんどくなってきて。別れて欲しい、と俺が告げたときに目の前で彼女自身が首元を切って弾けた薔薇色は今でも脳裏から離れない。そんな脳の奥底にしまった記憶と同じ女の声が今また目の前から聞こえる。
「か、金がいる?」
「うるさい、私もう生きてられない。」
「なんで、」
「あなたに関係ないっ。」
女は突然バッグから黄色いカッターを取り出した。あのときのデジャブ、脳天から血の気が引くのを感じる。
「あたしここで死ぬ、一緒にあなたも殺す。」
「待てよ、」
「うるさい、あなたのせい。」
「い、いくらよ。いくらあれば良いん?」
女は涙に濡れた目も手のひらもぎゅっと固く結んで、絞り出すように答えた。
「、、じゅうまん。」
「じゅ、10万?そ、そんなんで死ぬって?」
緊張と動揺でいっぱいな俺の脳内に少しずつ赤くトゲトゲした感情が混じる。
「うるさい、あなたには分かんないから。」
「待てって、」
「どうせ貸さないでしょ。分かってる、もういい死ぬから。」
「さっきから聞いてりゃ、勝手に決めつけんなよ、」
もはや俺の脳内は全てを真っ赤に染め上げられていた。俺はポケットの10万円をとり出す。
「ちょうど10万ある、こいつがありゃ死なねえんだろうが、」
女が赤く腫れた目を大きく見開く。大粒の涙が足元のアスファルトで黒く弾けた。
「ダメ、こんなにもらえない。」
「うるせえ、あげるなんて言ってねえだろ、」
「あたし返せない。」
「知らねえや、俺は金がなくなったって死にゃしねえ、生活が変わっても死ぬわけじゃねえ、こっちはな。でもお前はこれがなきゃ死ぬんだろうが。」
「でも、」
「でもじゃねえ。いいか、死ぬんじゃねえそぞ。この金で何するか知んねえけど早く使ってこいや。」
「…… あんた、ひょっとしてまたゲームで遊んできたんじゃないだろうね。」
どうにか母の目を避けて部屋に引きこもろうとしたが、狭いアパートではやっぱり不可能だった。玄関にたたずむ空っぽのギタースタンドと俺とどっちがこの世で必要なのだろう。
「どうすんのよ月末の支払いは。そりゃ素直にスーツ買いに行ける性格とは思わないけど、こんなに遊び遊びってのは本当に酷いじゃない。」
母はしゃがみ込むと床を叩きながら叫んだ。今日見る2度目の女の涙。本当になんて日だ。脳内のグレーがどんどん色濃くなっていくのを感じる。
「…… 死んじゃえ。」
「え?」
「あんたなんてもう死んじゃえ、こんな馬鹿なんて生きてないほうが良いんだ、そうだ私がぶっ殺す。」
母の目は真っ赤に染め上がっていた。マジで今日死ぬかもしれない。でもこれは俺のギターを元手に借りてきた10万、、もう全部どうでも良いや。今はただ鉛色でいっぱいになった脳内を早く1回空っぽにしたかった。母のすすり泣く声が響く部屋にインターホンの音が割って入った。
泣き顔で出られないという母に代わってドアを開けると、見慣れないマダムが立っていた、見覚えのあるギターを手に。
「そ、それ、」
マダムは俺が言い終わる前にゆったりと話し出す。
「アナタ、うちのとこの新人にお金渡したでしょ。」
「し、新人?」
「うちがやってるバーで手が離せなかったから新人の子に仕入れに行かせてみたら、あの子ったら店にすっかりお金忘れて行ってねえ。」
絡み合った鉛色の脳みそがゆっくりとほどけていく。
「私も普段から厳しく言いすぎたのかねえ、泣きながらなぜか10万持って帰ってきたもんだから、どうしたんだいってワケを聞いたら、仕入れの金なくしたから今日の営業ができない、いろんな人に迷惑かかるから死のうとまでしてた、なんて言い出すから。」
あいつ、死ななかったんだ。ほどけた脳みそがどろりと溶ける音が聞こえてきそうだった。
「いったい誰から借りたんだいって聞いたら、今朝喋ってた107号室の息子さんだったじゃないか。音楽とゲームばっかりしてる子だって朝は聞いてたけど、アナタ見直したわよ。」
受け取ろうとしたギターはマダムにひょいと取り上げられた。
「ねえ、アナタ気に入ったわ。うちのバーで働きな、ちょうど演奏家が辞めて探してたとこだったのよ。」
マダムは嬉しそうに鼻の穴を広げ俺を見おろす。掲げられたギター越しの秋の空は青く澄み渡っていた。
「でも俺、ギター弾けませんよ。」
まろやかな昼下がりの空気がピンっと固まる。マダムの深紅の唇は丸くあいていた。
「え?でも音楽を、」
「音楽はやってるけど、曲はパソコンとかスマホで作ってましたし。」
マダムの顔から色がみるみる抜けていく。
「じゃあこのギターは、」
「置いてたらなんか格好良いかなって。」
「え、かっこ、いい?」
「だからごめんなさい。俺は働けません。ほら音楽の才能もないし。」
固まった身体を伸ばすとギシギシと音がした。伸ばした指先を白い太陽に重ねる。今日ってこんな晴れてたんだな、なんて呑気に考えていると急にマダムの高らかな笑い声に包まれた。
「来なきゃうちが殺してでも毎日連れ出すわよ。若造が才能なんてぬかすんじゃないの。うちはアナタの歌が聞いてみたい、それだけ。殺されたくなきゃギター弾けるように練習しときなさい。」
今日受けた3人目の殺害予告と笑い声が秋風の走り抜けた青空に溶けていった。