夕飯の最中、パパがいきなり首元を掻きむしり始めた。
──しまった!
私は窓から満月が顔を覗かせているのを確認すると、立ち上がり、慌ててカーテンを閉めた。が、遅かった。すでに栗色の毛に覆われつつあったパパの身体は、みるみるうちに小さく萎んでいた。やがて椅子の上に崩れたワイシャツの襟元から、間抜けた顔がひょいと飛び出す。
つぶらな瞳に長く伸びた前歯、まるで緊張感のないとぼけた表情──。
パパは満月を見ると、カピバラに変身する。
「あらまあ。せっかくだから、パパの分も食べて食べて」
ママは全く動じない様子で、まだ一口も手が付けられていないパパのハンバーグを私の皿に移した。普段なら「行儀が悪い」と言って眉を吊り上げるパパも、今やエサを求めてきゅんきゅんと鳴くばかりだ。
「あなたにも、今持ってきてあげますからね」
そう言って、ママは台所から持ってきた野菜スティックをカピバラにあげ始めた。カピバラは口元へ運ばれていく野菜を、無表情にボリボリと咀嚼していく。今はまだ可愛いけれど、厄介なのはこれからだ。
夕飯のあと、まだ口が寂しいカピバラは部屋中のものを齧り始める。テーブルの脚やテレビのコード、部屋の壁など。とにかく目についたら最後、相手が硬いかどうかなんて関係なく、その長く伸びた前歯を勇猛果敢に突き立てていく。
「ちょっと、それだけは!」
気づけば、カピバラは私の中学用の鞄を齧っていた。
私は急いで駆けていき、それを取り上げる。しかし、強靭な前歯が鞄の紐に引っかかって離れない。運動会の綱引きみたいな体勢になりながら、前歯ごとへし折る勢いで引っ張ってやっと離してもらえた。
「ふう……」
疲れて床にへたり込む私をよそに、カピバラはお風呂場へと向かっていた。
普段はシャワーだけで済ませるパパも、カピバラになると本能的に長風呂になるらしく、一晩にわたって入りつづける。その間、ママが背中を流してあげたり、湯船にみかんを浮かべてあげたりする。
とにかく、私は先にお風呂を済ませておいてよかった。
翌朝、お風呂から上がったパパは元の姿に戻っていた。
人間のパパは、いわゆる厳格すぎる父親というやつだ。目に余る出来事に対しては容赦なく叱りつける。まさに今も、食卓に置かれたテレビの裏面を叩きながら文句を吐いていた。
「なんだ、テレビがまったく点かないじゃないか」
昨晩、自分でコードを噛み切っていたくせに──。
カピバラに変身しているときのことは、どうも記憶にないらしい。
「……ん? ネズミか何かが齧ったのか?」
ようやく、パパはコードが途中でちぎれていることに気がついた。
そこへ、ママができたての朝ご飯を運んできて言う。
「ごめんなさいね。お仕事から帰ってくるまでには、直しておきますから」
「頼んだぞ。ついでに家中のネズミ対策も」
だから、ネズミは自分なんだってば──。
そんな私の心の声も届かぬまま、パパは偉そうな態度を取りつづける。
「まったく朝から気分が悪い……」
結局、パパはせっかくの朝ご飯に手をつけないまま会社へと出かけてしまった。
私は食卓で二人きりになったママに向かって言う。
「そろそろ病院に連れていったほうがいいんじゃない? パパのこと」
しかし、それを聞いたママは、まるで冗談をいなすみたいに笑った。
「別に、月一でカピバラになるくらい可愛いものじゃない」
「だけどさぁ」
パパを甘やかすママもママだ。これ以上、いわれのないことで叱られることにウンザリしてこないのだろうか。そもそも、どうしてママはあんなパパと結婚したのかという疑問さえ浮かんできてしまう。
私は床の上に置いた鞄を指さしながら、めげずに訴えつづけた。
「見て、齧られすぎてもうボロボロだよ。こんなのクラスで私だけ」
「そうねぇ……」
その優しすぎる心を痛めさせれば、もうこっちのものだ。
ママは胸にそっと手を当てながら、私に寄り添うようにこう口にする。
「今度、病院に連れていこっか。パパのこと」
次の満月の夜、それは決行された。
部屋のカーテンを開けると、リビングでくつろぐパパに月明かりが差し込んだ。たちまちカピバラに変身したパパは、いつものように部屋中を齧りまわってからお風呂場へ。すると、その先で待機していたママが、背中を流すと見せかけて後ろからケージを被せてその身柄を確保した。
こうまでしないと、パパは素直に病院に行かないと踏んでのことだった。
それにしても、いったい何科を受診するべきなのか。ママと話し合った挙げ句、とりあえず今は獣だからと、近所の動物病院へ診療時間が終わるギリギリに駆け込んだ。すぐに診察室に案内されるなり、きゅんきゅんとしか鳴かないカピバラの代わりに、私が獣医さんにその症状を説明した。
「信じてもらえないかもしれないけれど、このカピバラはお父さんで──」
「信じますよ」
獣医さんは私の言葉を遮るように断言した。
「古来から、満月には不思議な力がありますから。狼男がその最たる例です」
「でも、どうしてよりにもよってカピバラに……」
「お父さん、きっと厳しすぎる性格でしょう?」
思わず隣にいたママと顔を見合わせる。
「変身願望というのは、どうしても極端なパーソナリティをもつ人ほど抱えやすいものですからね。しかもそれは、自分と真逆の存在に変身してこそ満たされる。幼い子ほどオトナに、貧乏人ほど大富豪に、落ちこぼれ学生ほどスーパーヒーローに憧れるなどというのはよくある話でしょう? おそらくお父さんの中にも、いっそのこと厳格すぎる父親像とは真逆の存在になりたいと願う気持ちがあったんでしょう。その結果がカピバラというわけです」
「なるほど……」
「でもご安心を。現代では医療の発達により、一回きりの注射で治りますから。ご家族の同意さえあれば今すぐにでも治療できますが、いかがいたしましょう」
そのとき、二つ返事で頷きかけた私の横からママが口を挟んだ。
「結構です」
「ママ、どうして⁉」
「だって、それってパパの息抜きの時間がなくなるって意味でしょ。やっぱり月に一度くらいは、カピバラでいさせてあげるべきよ」
「でも……」
「鞄はもう二度と齧らせないって約束するから。ね?」
月明かりの下、カピバラの入ったケージを大切そうに抱えて歩くママに私は尋ねた。
「ねえ、ママはどうしてパパと結婚したの?」
「何よ急に」
「もしや、しつこくプロポーズされて断れなかったの?」
ママは小さく噴き出して笑った。
「むしろその逆よ。私から何度もしつこく追いかけまわして、やっとの思いで捕まえた人なの」
「そうだったの⁉」
「パパは昔から真面目で厳しい人でね。今思えば、そのころは変身こそしなかったけど、カピバラみたいな間抜けな一面もあった気がするわ。それが、どうも放っておけなかったのかもしれないわね」
ママは少し照れ臭そうに微笑みながらつづけた。
「さあさ、早く帰ってご飯にしましょ。今夜はすき焼きよ」
「すき焼き? やったぁ!」
「パパがカピバラでいるうちに、お肉たくさん食べちゃいましょ」
慣れない病院に行ったせいか、カピバラは家に帰ってきても落ち着きがなかった。とにかく部屋中のものを片っ端から齧っているせいで(私の鞄はママが押し入れに隠した)、私とママは目の前のすき焼きにいまいち集中しきれずにいる。
やっぱり、注射してもらえばよかったのに──。
そんなことを思っていた最中、ビリッと布が破れるような音が鳴り響いた。
見ると、カピバラが部屋のカーテンを齧って引き破っているではないか。ママが急いで席を立ち、破れた箇所を確認しにいく。
「あらまあ。これじゃ外から丸見えじゃない」
困り口調のママの声は、相変わらず優しすぎる。
と、そのときだった。カーテンの破れた箇所から差し込む月明かりを受け、後ろ姿のママが首元を掻きむしり始めた。内側から服が破れ、全身の逆立った毛が露わになる。やがて四つん這いになってこちらを鋭く睨んだママは、狼と化していた。
もしかして、と獣医さんの言葉が蘇ってきて私は合点する。
「ママは優しすぎるからこそ狼に……」
狼の半開きの口元は、溢れ出てくるよだれで光っていた。
私は真っ先に鍋の蓋を閉めた。狼は肉食だ。すき焼きのお肉をすべて奪われるわけにはいかない。が、直後にその心配はないことに気がついた。狼が一心に見つめる先にいたのは──カピバラだった。
ひとたび身を震わせたカピバラは、慌てて玄関へ走って家を出ていく。すかさず、そのあとを追う狼。その様子はまさに、帰り道にママから聞いたばかりの二人の馴れ初めみたいだ。
私は独り占めのすき焼きに箸を伸ばしながら、のんびりと夢想する。
パパ、今夜は逃げきれるかなぁ……。