翌朝、いつも通り満員電車に乗り込んだ。今日は上手くドアに寄りかかることができる位置に立つことができたから、電車の揺れに身を任せてボーッと窓の外を眺めた。駅から離れて田園風景が広がったと思ったら、その中に少しずつ建物が出てきて、次の駅が近づいてくる。そんな田舎町。
田舎町には珍しい八階建てのビルが見えてきたら高校の最寄駅。人のゆっくりした流れに流されるのは時間の無駄。電車がいなくなるまでは流れに乗ったまま黄色い線のすぐ内側を歩く。電車がいなくなったら黄色い線からはみ出して早足で歩く。階段の手前で流れに合流したら、またゆっくりな流れに乗って前の人のリュックの動きに注意しながら階段を上がる。
エスカレーターがある都会の駅とは違って、そんなものはローカル線には存在しない。五両編成の電車にぎゅうぎゅう詰めにされていた集団が殺到するここで転倒すれば、大事故に繋がる。焦る気持ちと慎重な行動。その両立が必要なのが朝のラッシュだ。
階段を上り切ると、定期券を駅員さんに見せて改札を出る。また人だらけの階段を下って駅構内から出ると、近隣の二つの高校に向かう人たちと別れて一気に人が減る。息が詰まるような感覚から逃れてホッと息を吐いた。
いつも通り高架下のコーヒー屋さんの前を足早に通り過ぎたところで、後ろから駆け足で移動する足音が聞えてきた。遅刻でもしそうなのかな、なんて思って少しずれて通れるように場所を開ける。すると目の前に大きな木が現れた。木があるなぁ、と思っていたらどんどん木が近づいてきて、ついに目と鼻の先。
「危ない!」
急に腕を引かれて視界が反転した。直前に聞き覚えのあるボクより少し高い声が聞えた。正面から抱きしめられて、目の前には少し硬そうな髪の毛。朝の光に照らされて漆黒の髪が青光りする。甘すぎずしっとりとしたはちみつの香りがする。抱きしめられていた腕が緩められて、少し低い位置にある漆黒の瞳に顔を覗き込まれた。
「大丈夫?」
「あ、生徒会長。おはようございます」
「うん、おはよう。じゃなくて。ボーッとしてたみたいだけど?」
生徒会長はそう言いながら周囲を確認すると、ボクの手を引いて歩道の端に誘導してくれた。手を繋がれたままかなりの至近距離から顔を覗き込まれる。またゾクゾクと身体が熱く震える。
「顔赤いけど、熱があるのかな?」
生徒会長は心配そうに、だけど悪戯っぽく笑う。そのままひんやりと冷たい手が後頭部に添えられたと思ったら、生徒会長の漆黒の瞳とすらりと筋の通った鼻が目の前に。心臓が跳ねて反射的にギュッと目を閉じた。
その瞬間、おでこにコツンと何かが当たった。ボクはそっと目を開けた。
大きな瞳が上目遣いにボクを覗き込む。やっぱり、美しい。
「って! ち、近いです! 大丈夫ですから!」
おでこをくっつけられている状況にやっと気が付いて、慌てて距離を取る。生徒会長は口の端を上げて意地悪な笑みを浮かべてクスクスと笑う。
「なるほどね、僕に熱くなってくれていたんだ。ボーッとしていたのも、僕のことを考えてくれていたなら嬉しいんだけどなぁ?」
「ち、違いますっ!」
「そう? 残念」
艶っぽく笑った生徒会長にドキッとした。身体が疼くより、心が熱くなるような感覚。あの人とは、違う。ボクは動揺を誤魔化そうと視線を逸らす。すると頭に大きくて柔らかな手が乗った。
「ごめんごめん。ほら、一緒に学校まで行こう」
「は、はい」
穏やかに微笑む生徒会長に促されて黙って隣を歩き始める。ボクがいつも通り駅前のスクランブル交差点の方に歩いて行こうとすると、不意に隣から生徒会長がいなくなった。振り返ると、商店街の中を通る道の前で生徒会長が手招きしていた。
「ちょっと坂が急なところはあるけど、こっちの方が近道だよ」
「そうなんですか?」
運動部で朝一番に昇降口ではなく部室に向かう人たちにとってはこっちの方が近道だと、前に月ちゃんに教えてもらったことはある。ボクは部活に入っているわけでもないから昇降口に一直線。こちらの道を使うことはないと思っていた。
生徒会長の隣を歩きながら、何の話をしようかと考えを巡らせた。横顔を盗み見て、そういえばと思いつく。
「生徒会長と駅で会うのって初めてですよね?」
「そうだね。僕は上り線で通学してるから、同じ電車に乗ることはあり得ないから」
そこで言葉を切った生徒会長は、眉を下げて口を結んでいた。どうかしたのだろうかとジッと見つめていると、生徒会長は観念したかのように肩を落として頭を掻いた。
「あー、あのね? 僕は今日みたいに生徒会の挨拶当番がない日は、聖夜くんが乗っている電車より一本遅く駅に着く電車に乗っているんだ。聖夜くんは歩くのも早いから後ろから見かけることもなかった。でも挨拶当番の日に聖夜くんが来る時間から考えてこの電車かなって予想して、今日は待ち伏せしてみたんだ。ごめんね」
「どうして謝るんですか?」
「だって、自分で言うのもなんだけどさ、気持ち悪くない?」
普段はキリッとした切れ長な目尻をこれでもかというほどに垂れさせてボクの顔色を窺う。それがなんだか可笑しくて、可愛い一面を垣間見ることができた気がした。
生徒会長の隣を歩きながら、背の低いビルに切り取られた空を青空を見上げる。気持ち良い快晴だ。
「ボクは気持ち悪いとは思いませんよ」
ボクの言葉が予想外だったのか、生徒会長は目を見開いて足を止めた。後ろを歩いていた人が生徒会長の背中にぶつかりそうになって急ブレーキをかけた。ボクは固まっている生徒会長の手を引いて無理矢理歩かせた。
「今もですけど、生徒会長の手、冷たくなってます。衣替えも終わってブレザーを着ているとはいえ、手先は出しっぱなしで冷えますから。そんな中でも待っていてくれたと思うと、少し嬉しくなります。こそばゆいと言うか、なんというか」
話しながら照れ臭くなってきて、最後は口籠もってしまった。身体の熱さじゃない、心の熱さ。こんなの、初めて。恥ずかしくて生徒会長の顔は見られないけれど、ふふっと笑い声が聞こえてホッとした。
「そう言ってもらえると気が楽になるな」
そう呟くように言った生徒会長が手にキュッと力を入れてきた。ボクはそれでようやく、生徒会長と手を繋いで歩いていたことに気が付いた。慌てて手を離そうとしたけれど、生徒会長の力が強くて離れない。ブンブン振っても、生徒会長は楽しそうに笑うだけ。
「生徒会長! 人目もあるし、恥ずかしいです!」
ボクの抗議に強気な笑みを浮かべた生徒会長は、手を離す気配がないまま角を曲がって横断歩道を渡った。そのまま人の流れから外れると、急な坂を前に手を握り直した。
「ここなら人通りも少ないから恥ずかしくないでしょ?」
「そういう問題じゃないですよ!」
生徒会長は楽しそうに笑いながら、ボクの手を引いて坂を上り始めた。僕はなんとか手を離してもらえるように藻掻いていたけれど、思っていたより坂の勾配が急。そして長い。途中からは有難く引っ張ってもらった。
「ほら、あとちょっとだよ」
そう言われてずっと地面を見ていた視線を上げると、確かに坂の頂上はもうすぐそこ。息切れする呼吸を整える。
坂の頂上は生徒の半数以上が使う太い道に合流する。人通りが一気に増えているのが見えた。
「生徒会長、引っ張ってもらってありがとうございました。それで、その、ここからは人目があるので、離して欲しいな、なんて」
ボクの言葉に足を止めた生徒会長は、つまらなそうに口を尖らせた。けれど急にニヤリとニヒルに笑う。グイッと手を引かれて引き寄せられた。
「これから僕のことを粋って呼んでくれるなら、離してあげても良いけど?」
耳元で掠れたセクシーな声で囁かれて身体中がゾクゾクと熱を持つ。パッと距離を取ったボクに、生徒会長は尚も意地悪な笑みを向ける。その笑顔にもまたゾクゾクして堪らない。
「す、粋、せんぱぃ……」
「ふふ、まあ、及第点かな?」
いつもの爽やかな笑顔に戻った粋、先輩、はパッとボクの手を離して前を歩く。あまりにもあっさりと話された手に残った粋先輩の体温がもったいなく思えて、手を握り締めた。ボクは何を名残惜しく思ってしまっているんだろう。
「どうしたの? 聖夜」
急に呼び捨てにされてドキッとしてしまう。ボクを名前で呼ぶのなんて、家族くらい。粋先輩の顔には一瞬意地悪な笑みが浮かぶ。なんだか悔しくて駆け足で粋先輩の隣に並ぶ。人の流れに乗って粋先輩の顔を盗み見ると、粋先輩は周囲をさりげなく確認しながら人の良い笑みを浮かべていた。
爽やかで優しいと思っていた生徒会長の腹の内は、意外と意地悪で年相応な少年らしい。それを周りの生徒たちは知らないのだと思うと少し気分が良かった。