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十月下旬。少しだけ気温が下がってきた朝。ボクはブレザーの下に薄手の紺のカーディガンを羽織って歩く。顔も名前も知らない生徒たちに紛れて歴史ある校門を潜ると、今月の初めに新しい顔ぶれに代わったばかりの生徒会メンバーの一部が並んで挨拶をしている。毎朝こういうことができる胆力があるから生徒会メンバーに選ばれるんだろうな。
「おはようございます」
肌寒い中、無視をされても挨拶を続けている姿は素直に尊敬できる。だからいつも、先に頭を下げて挨拶をする。最初のころは生徒会のみなさんも少し驚いた顔をしていたけれど、最近では慣れてきたようで普通に挨拶を返してくれる。特に生徒会長は笑顔でボクの目を見て挨拶を返してくれる。それが嬉しくて、一週間に一度の生徒会長が挨拶当番で立っている日は良いことが起こりそうな予感から一日が始まって気分が良い。
「はい、おはようございます」
今日も生徒会長がニコリと朗らかな笑顔を向けてくれた。今日も良いことがありそうな気がする。緩んだ口元を隠せないまま軽く頭を下げると、良い気分に胸を躍らせたまま教室へ向かう。挨拶を返してもらえただけで喜ぶなんて、友人がいなかった時期があることを公言しているようでちょっと恥ずかしいけれど。
昇降口を抜けて、たくさんの生徒たちが作る流れに逆走するようにのんびりと歩く。この学校は元々教室の数が少し足りていなくて、一年一組から三組までの三クラスだけは増設された別棟に教室がある。ボクは三組。本棟の方に知り合いがいないからそちらの情報には疎くなるし迷子にもなるけれど、むわっとした匂いがする朝の人混みから逃れられるからちょっと嬉しい。
三組の教室がある二階を目指して、体力的にまだ慣れない長い階段を上がる。帰宅部だし、帰ってからは勉強ばかりで座りっぱなしだし。ボクにはこの三十段が辛い。ヘトヘトになりながら階段を上がり切ってすぐ目の前にある教室に入ると、一番後ろにあるボクの席に荷物を置く。背負っていた紺色のシンプルなリュックから財布と定期入れだけを取り出して、教室の外にある自分用のロッカーの前にしゃがみ込む。
ロッカーに取り付けられたダイアル錠を開けて、貴重品を置く。貴重品を律儀にロッカーに仕舞う生徒は少ないらしいけれど、ボクは盗まれたくないから毎朝必ず仕舞う。
ふぅっと息を吐いて立ち上がろうとすると、後ろからグイッと体重を掛けられて身体が傾く。慌ててロッカーに手をついて身体を支えると、耳元でエネルギッシュな笑い声が響いた。今日も元気で何よりだな。
「
「セイ! おはよう!」
ボクがここでしゃがんでいると高い確率で乗っかってくるこの子は、
生まれつきだという茶髪を高い位置でツインテールにして、真っ赤なリボンで纏めているのがトレードマーク。スカートの長さは校則違反にならないギリギリを攻めて最大限の可愛さを求めるのが星ちゃんのポリシー。
星ちゃんは十分に抱き着いて満足すると立ち上がる。手を引いて立ち上がらせてくれるから、素直に甘えさせてもらうのもいつものこと。星ちゃんの方がパワフルで、いつもお世話になっている。ようやく星ちゃんと向き合うことができると、艶のある茶髪がサラリと揺れた。
「星ちゃん、今日も綺麗な髪だね」
「ありがと! 今日はストレートアイロンかけてみたんだ!」
「うん、いつもよりエレガントに見えるよ」
「さっすがセイ! 分かってるぅ!」
ツインテールがぴょこぴょこと動いているのを目で追っていると、トントンッと軽快な音が聞えた。階段を颯爽と駆け上がってきたのは
「月ちゃん、おはよう」
「セイ、きらこ、おはよう」
ボクが手を挙げて声を掛けると、月ちゃんは落ち着きのあるアルトボイスを響かせながらゆったりと歩いてくる。月ちゃんも高校生になってから出会った友達。『月』と書いて『るな』と読むキラキラネーム仲間だ。
月ちゃんは大人びた顔をした誰もが羨む美人さん。入学当初は光を反射して輝く黒髪を肩まで伸ばしていた。夏休みにバッサリと肩まで切ってもなお失われない艶やかな髪は羨ましい。元々伸ばしていた理由は美容院に行くのが面倒臭かったから、切った理由は乾かす時間が掛かって面倒臭くなったからだと言っていた。けれど本当のところは言い寄られたり妬まれたりを繰り返すことに疲れたからだと思う。もしも本当に月ちゃんが面倒臭がりなら、こんなに綺麗な髪を維持できるわけがない。
「二人とも、廊下でイチャついてて寒くないの?」
「全然平気!」
「ボクはちょっと寒くなってきたかも」
「ちょ、ダメじゃん! るなちも押して!」
生足を出している星ちゃんは平気だと言うのに、カーディガンまで着こんでいるボクが先に寒くなってしまった。とはいえ強がる理由もないから正直に答えると、星ちゃんがボクの手を引いて教室の後ろのドアに連れて行ってくれる。月ちゃんも背中を押してくれて、三人縦並びになって教室に入ることになった。
教室に入ると、今日もボクたちに向けられる奇異の目を感じる。居心地は悪いけれど、ボクには星ちゃんと月ちゃんがいるから平気。二人が気にしないならボクも気にしない。見られているのは月ちゃんが美人だからか、星ちゃんが可愛いからか。それともそんな二人と一緒にいるボクがあまりにも普通だからだろうか。
二人はボクを席に座らせると、机に手をついてしゃがみ込んだ。いつも思うけれど、自然な上目遣いが可愛らしい。二人が持っているボクにはない可愛らしさが羨ましくて、ちょっぴり悔しい。
「そうだ、セイ、昨日の数学の課題、最後の問題が分からなかったから聞いても良い?」
「もちろん良いよ」
「あ、私も!」
「うん、良いよ」
パッと立ち上がった月ちゃんがリュックから数学の課題ノートと筆箱を取り出す。星ちゃんも同じくノートとぬいぐるみ型の筆箱を取り出す。ピンクのブタちゃんが今日も可愛い。
くじ引きで決められた席順は、ボクの前に月ちゃん、その隣が星ちゃん。初めてこんなに近い席になれて、決まったときには三人で飛び跳ねて喜んだ。さっきまでしゃがんでいた二人は椅子をくるっと回して座ると、あっという間に勉強モードになる。ボクも教えるために課題ノートを取り出そうと、引き出しに手を入れた。
ボクは学校で勉強する方が家でやるより集中できる。だから授業中のスキマ時間と放課後に一日の課題を終わらせてしまって課題は引き出しの中に置いて帰る。教室は無人の間は鍵を賭ける決まりになっている。鍵は教室での授業中はドア横の壁に吊るしてあるけれど、移動教室の時間は学級委員が、それ以外のときは職員室の金庫に預けられているから盗難の可能性も低い。荷物も減らせるから、高校生になってからは置き勉がしやすくなった。
「あれ?」
課題ノートの上でカサッと音がして、何かが手に触れた。不意にキュッと胃が締め付けられるような感覚がしてお腹を押さえる。高校生になってからはなかったけれど、中学まではこの手のパターンでは大抵悪意が込められた神が押し込まれていた。
深呼吸をしながら身に覚えがないそれを恐る恐る引き出しから引っ張り出してみる。するとそれは想像に反して小綺麗な、四葉のクローバーが描かれた大人びた封筒だった。