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久方の雲、花ぐはし桜
彩女莉瑠
恋愛現代恋愛
2024年11月01日
公開日
12,987文字
連載中
2024.11.01 執筆開始

書店勤務の沓名綾乃は25歳。 今まで恋愛経験はなかった。 本に埋もれて自分は1人で死んでいくのだと思っていたのに……。
本好きさんに送る、ゆっくり進む癒やし系恋愛小説です。

第一話 日常

「いらっしゃいませ、カバーはお付けしますか」


 ここは、大型書店の一角にあるレジ。そこで接客を任されているのはくつあやである。彼女は無表情のまま淡々と職務を全うしている。


「ありがとうございました」


 そして、事務的にマニュアル通りの送り文句を口にするのだった。




 綾乃は少し変わった子供だった。

 表情が乏しく、自分の興味のあることには驚くほどの吸収力を見せるのだが、興味のないことに関しては全く頭に入ってこない。


「国語力はとてもありますが、算数の計算力が乏しいところがありますね」


 小学生の頃の担任から言われた言葉だ。綾乃は国語がとても好きだった。しかし算数の計算はどうにも苦手で、九九を正しく言えたのは小学校6年生になった頃だった。


 また注意力も散漫で、大事な約束を忘れてしまうこともしばしばあった。


「綾乃ちゃん、いますかー?」


 その日は小学校の同級生が、土曜日に学校からの宿題をするために綾乃の家を訪ねた日だった。


「綾乃? 遊びに行っちゃっていないわよ? どうかした?」

「えー? 綾乃ちゃん、いないんですか? 自分から班長になってこの日に宿題をするって言ってたくせに……」


 同級生たちはぶつくさと文句を言いながら帰っていったそうだ。

 月曜日。綾乃が約束をした同級生たちに責められるのは必須だった。綾乃は平謝りをしていたが、それでも同級生たちは綾乃を許してはくれなかった。


 このようなことがあってからと言うもの、綾乃にとってメモ帳は必須アイテムとなっていた。しかしメモを取ったことさえ、忘れてしまうことも多々あるのだった。


 そんな綾乃が高校生の頃である。ひょんな事から医者にかかった綾乃はその時にADHDと診断されてしまった。ADHDとは『注意欠陥/多動性障害』の意味である。物忘れが酷かったり、時間の管理が苦手であったり、衝動買いをしてしまう。その様な症状が出るのがADHDだ。

 綾乃はその診断を受けてから、毎朝かかさず薬を飲み、月に一回は医師の診察を受けている。

 そんな綾乃には幼い頃から夢があった。本に囲まれた生活をすることである。


 大学を卒業して三年。綾乃はこの大型書店で勤務しながら、自分の障害と闘いつつ、一人静かに本に囲まれて死んで行くのだと思っていた。

 ADHDの診断を受けている綾乃だったが、マニュアル通りの接客は一通り行えるのでこの書店での接客に不便を感じたことはない。

 本を探しにやってくる客に対しても、小説からビジネス書籍まで、綾乃は興味のある本を片っ端から読んでいたので答えられないものの方が少なかった。ただ、雑誌のたぐいを聞かれるのだけは苦手であった。


「沓名君、巡回、いいかな?」

「はい」


 レジが一段落つくと、綾乃は店長から店内の巡回をし陳列の乱れを直す作業を頼まれた。平積みにされている本を整頓する。下から本を取る客が多いので、自然と上の方の本が乱れてしまっていた。


 店内を一通り巡回し終わった綾乃が、次にやることはPOP作成の仕事だ。

 POPは本のおススメを書いたり、買い物客の興味を惹いたりするような内容にしなければならない。色とりどりのペンを使って、文字を目立たせて書いていく。読みやすい文字を意識しながら、派手過ぎず、地味過ぎないように装飾を施していった。


 このように一日中立ち仕事であるこの書店店員の仕事は、体力勝負と言っても過言ではない。それでも綾乃はこの仕事が好きだった。

 綾乃の休日は平日が殆どで、連休は取れないことが多かった。しかし綾乃は一人静かに家で読書が出来る休日を楽しみにしていた。


 そんな日常を過ごす綾乃には大きな悩みがあった。

 高校生の頃にADHDと診断されてからと言うもの、自分は人とは何か違うのだと言う思いが綾乃を支配していた。

 仕事中もメモをしたことを忘れては、仕事に支障を来し、叱られることが多々あったのだ。


(私、本当にダメな子だな……)


 綾乃は叱られる度に落ち込んでいた。そしてそのことが劣等感へと繋がり、自分への自信は全くなかったのだった。


(どうして、出来ないんだろう……?)


 自分は仕事が出来ない。そうやって必要以上に自分を追い込む日もあるのだった。


「なーに暗い顔をしているの?」

「石川先輩……」


 そんな時、必ずと言っていいほど明るい声で綾乃に話しかけてくれる人物がいた。いしかわだ。咲希は綾乃の三つ年上の同じ大学を出た先輩だった。同じ大学卒業だったこともあり、綾乃は咲希のことを『石川先輩』と呼んでいた。


「もう。そんな暗い顔で接客するの?」


 咲希は明るく注意する。もうすぐピークを迎える時間だ。暗い顔での接客は確かに戴けないだろう。分かってはいてもすぐには切り替えられない自分もいた。


「大丈夫! 綾乃はちゃんと仕事しているんだから!」


 咲希は綾乃の背中をぽんぽんと叩いて、その場を去っていった。


(私、本当に仕事できているんだろうか……)


 綾乃は半信半疑になりながらも、咲希の言葉を有り難いと感じていたのだった。


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