横井に疲れが見え始めた為、またの来訪を約束し、西島たちは施設を辞することにした。
丁寧に礼を言ってエントランスを出たが、ふと振り返ると、横井はロビーでいつまでも手を振っている。その姿に西島は郷里の両親を重ね、胸が痛くなった。
仕事を理由に帰らなくなって一体何年経っただろう。
母親からはちょくちょくメールが来るが、いつ帰ってくるのかという内容にいつしかうんざりするようになり、おざなりな返信しかしていない。
今度の事件が落ち着いたら、久し振りに会いに行こうと、柄にもなく西島は考えた。
京王線に乗り暫く揺られていると、隣で吊革につかまっている間宮がこれからの予定を聞いてきた。
「銀座に寄ってから、警察病院に行こうと思って」
「久住さん?」
西島は正直に頷いた。西島の中に、間宮に対しての疑いは最早なかった。
本当は随分前からそう思っていたのだろうが、自信がなかったに過ぎない。
今は、そう遠くない未来で、間宮と酒を飲んでいる姿すら想像出来た。
「じゃあ、僕はお邪魔かな?」
「はっ? なんだよ急に」
「見てれば分かりますよ」
間宮はそう言うと目を細める。
西島は、間宮がこんな表情をするのを始めて見た。
「からかうなよ」
西島は熱くなる耳を押さえながら、こそばゆさを感じた。こんな話を誰かとするのはいつ振りだろうか。
その後間宮は、施設でのおぼつかない足取りの西島を随分と心配していたが、西島が本当に大丈夫だと言うと、漸く納得した。
「何かあったら連絡して下さいよ?」
そう言って笹島駅で下車する。
間宮がホームで軽く手を上げた。その表情も心なしか明るくなっているように見えたのは、きっと、積年の不安が解消されたからなのだろう。
西島も窓越しに、声を出さずに「じゃあな」と言って手を上げた。ふと、学生時代を思い出した。
* * *
新宿で所要を済ませた西島は、中野の警察病院の受付で面会の手続きをしていた。
病院では、感染症対策で基本的に面会は禁止とされているのだが、そこは警察官であることが功を奏し、案外とあっさり面会の許可が下りた。
ロビーを抜けると、病院内は急に静かになる。
仄かに消毒の臭いがするエレベーターに乗り込むと更にしんとして、自分の心臓がやけにどきどきしていることに気付かされた。
葉月に会うのに、少し緊張している。思えば、見舞いとは言え自分から会いに行くのは初めてだ。
目的の人物は大部屋の隅で布団を畳んでいた。
「久住?」
「あ!」
西島の声に振り返った葉月は、髪をクリップで纏め、ジーンズにTシャツとラフな格好だった。随分顔色もいい。
嬉しそうに頬を染める表情は明るく、そして可愛くて、西島は少し照れてしまった。
「ひょっとしてもう退院なのか?」
「はい。手続きも終えたので、ホント、今出ようとしてたところなんです」
一応はギリギリセーフという訳だ。西島は心底ほっとして「間に合って良かった」と言うと、葉月の荷物を持った。
「あ。そんな、申し訳ないですって、西島さん」
そう葉月が言った時だった。
「ニシジマ?」
そんな声と共に、他のベッドの仕切りカーテンが一斉に開き、同室の老婆たちの顔が覗いた。
「アンタがあのニシジマさんかね」
「ちょっと、男前じゃないの」
「いやぁ、ウチのジイさんの若い頃にそっくりだわ」
口々に言いながら、しわくちゃの顔をにやりとさせ、無遠慮に西島の顔をじろじろと見る。
葉月は大慌てでカーテンを引いた。
「え。なんで俺の事知って──」
「いや、あの、公開処刑で……」
「公開処刑?」
葉月の顔が途端に真っ赤になった。そして、早く早くと西島を廊下へ連れ出す。
「それじゃあ皆さんお世話になりました! お大事になさってください!」
葉月は早口でそう言って頭を下げると、西島の腕を引っ張った。
「おい、久住?」
「何でもないんです! ホントに何でもないんですってばー!」
* * *
エレベーターに乗り込むと、西島は葉月を2階にあるコーヒーショップへ誘った。
店内はコーヒーの良い匂いが充満している。
席に着くや否や、西島はガサゴソと手にしていた紙袋を探った。どうしても葉月に確かめたいことがあったのだ。
「これ」
目の前に差し出すと、葉月の目が寄り目になった。
「さっき、銀座で買ってきた」
「え~? 西島さんが銀座……?」
葉月が訝しむのも道理だ。それほどに西島には不似合いな場所である。
しかも、西島が差し出したのは白い──、丁度箸箱のようなもの。
不思議そうに、開けていいのかと葉月が聞く。西島は頷くと、葉月の表情に注意した。
それじゃあと言ってガサガサと包み紙を開ける葉月の表情は、クリスマスプレゼントを開ける子供のように輝き始める。
しかし、箱を開けた途端。
「は──」
ぴたりと葉月の手が止まった。
「久住、大丈夫か!」
「この匂い……。あの時の……」
葉月の脳裏に、拘束された時の記憶がフラッシュバックしたようだ。顔色を失い、そして次第に指先が震え始める。
西島は、葉月の目に浮かんだ涙を指で拭うと、「間違いないか」と聞いた。
葉月はがくがくと頷いている。
「すまん」
西島は葉月の手を握った。小さな手に内心驚いた。
また、あの時の匂いと同じかどうかと言う質問を避けたのは先入観を持たせないためだったが、その結果、葉月に恐怖の記憶を思い出させてしまった。
「大丈夫か?」
葉月ははっとしたように顔を上げると、西島をじっと見つめた。
「西島さん……、守ってくれるんでしょ?」
いいながら、そっと西島の指に自分の指を絡ませる。
「お……ッ」
西島は思わずそっぽを向いてしまった。
心臓が破れそうなほど激しく鼓動を刻み、顔は火が付いたように熱い。今おしぼりを当てたら、ジュッと音を立てて蒸気が上がりそうだ。
「久住」
「はい?」
「オジサン──、も、限界……」
絞り出すように言って手を引っ込める。そして西島は熱くなった顔を覆った。
葉月がくすくすと笑う声に、西島はすっかり困った顔をしつつも、改めて彼女の無事が喜ばしかった。
そして彼女の存在は間違いなく、これから真実に向き合う自分の後押しになる。西島は思った。
* * *
「これって、お香ですよね?」
葉月は怖い物でも見るように箱の中を眺めている。
西島は、これが鎮静効果のあるフランキンセンスという香で、主に教会で使われ、新堂の教会でも使っている香なのだと話して聞かせた。
「新堂さん? でも、新堂さんは神父さんで……」
ハングマンと関係があるとは思えないと、葉月は言う。
勿論西島もそうだったが、揺らぐ原因があるのだと、横井儀一から得た情報を葉月に話した。
「信じられない……。でも、西島さんはもっとですよね? ずっとお付き合いされて来た訳だし」
「そうなんだが……」
西島が知っているのは、教会の神父としての新堂であり、そのバックグラウンドは勿論、家族構成、好きな物すら知らない。
情けないことに、それに気付いたのはついさっきだ。
「彼の出自と、人生を調べる必要がある」
しかし、新堂の戸籍を調べるには、『捜査関係事項照会書』が必要だ。警察官とて、勝手に他人の戸籍を見ることは出来ないのである。
森永が容易に許可すると思ないが、掛け合わなければなるまい。
「そろそろ行くか」
西島はカップに残ったコーヒーを喉に流し込むと、葉月の荷物を手に立ち上がった。
葉月がそっと西島のシャツを掴む。ふと見遣ると目が合った。
西島は引き寄せたい気持ちをぐっと抑え、葉月の頭をそっと撫でた。