飽食の言葉に、丈太は何も言えずにいた。というのも、何気ない独り言の呟きに誰かが反応するとは思ってもみなかったのだ。投げ掛けられた言葉の意味をよくよく考えてみると、甘味の素晴らしさを説いているように感じるが、いつか言ったように丈太は甘味よりも塩味……しょっぱいものを好む性質である。いきなりそう言われても、返答に困るというものだ。
「え、えーっと……」
「ふふ、少年よ。甘味は嫌いかな?甘味はいいぞ、甘味を摂取すれば全てのストレスを押し流してくれる。おまけで疲労回復に快眠快便はもちろん、家内安全受験合格安産確定といいこと尽くめだ。まぁ、多少身体が糖化して、疲れやすくなったり糖尿病のリスクは上がるが、そこはそれ、万事全てに抜かりなしだ。この国の医療は高いレベルでまとまっているからな」
「う、うーん……?」
何やら聞き捨てならない言葉が聞こえた気もするが、理解し難い話である事に違いはないようだ。丈太は深く考える事を止め、改めて飽食に向き合った。
「あの、いきなりでよく解んないんですけど……貴方は?」
「…ああ、失礼した。私の名は甘味飽食という、スイーツ業界ではまぁ、そこそこ名の知れた存在だよ。自分で言うのも難なんだがね、フフフ」
「甘味……飽食、さん」
名は体を表すと言うが、彼がここまで甘味に惚れこんでいるのは、その名前故なのだろうか?と言っても、甘味を飽食するというのは些かやりすぎな名前に感じるのだが。飽食は丈太が己の名を復唱すると、日傘越しにニヤリと笑ってみせた。チラチラと見えるそこには悪意など欠片も感じられない、どちらかと言えば人の好さそうなイケメンである。しかし、丈太は飽食に向き合ってからずっと、首筋にチリチリとした違和感を覚えている。どこかで体感した事があるようなその感覚に、丈太は嫌なものを感じて仕方がない様子だ。
「私は常々思うんだよ、この世に甘味しかなければ、世界はもっと平和になれるのだと。私の理想は全ての調味料が甘いクリームになる世界だ。塩味も酸味も苦味も要らない、辛みなど以ての外だ……身も心もとろける、何もかもが甘い世界は、完璧な理想郷だと思わないか?」
「えっ!?いや、それはちょっと……ないかな」
そのあまりに極端な意見に、丈太は到底賛成など出来るはずもなかった。全調味料がクリームになってしまったら、コロッケにソースではなく生クリーム、卵かけご飯に醤油ではなく生クリームをかけることになる。エビチリに生クリームなどを入れたら、ただのエビクリームになってしまうだろう。丈太が甘味よりしょっぱい物好きでなかったとしても、とてもではないが認められるはずがない。
それは世界中のありとあらゆる料理を破壊する、とんでもない暴挙としか言いようのない理想だ。丈太でなくとも、認めるものはいないだろう。だが、そんな反応に飽食は悲し気な雰囲気で口元を歪めていた。
「残念だ。君が解ってくれれば我々はもっと良い関係を築けると思ったのだがね。……そうだろう?
「なっ!?」
その瞬間、丈太の背筋にゾッとする感覚が走った。この男は丈太の事を、いや、
そして、丈太は気付いた。先程から感じていた違和感の正体を。それは強力なMBN反応を間近で感じた時のそれであり、また、飽食の極端すぎる理想は、これまでに出会った重人達のズレた思考にそっくりだったのだ。
「…まさか、重人!?」
「フフフ、お初にお目にかかる。では、改めて名乗ろうか。我が名は甘味飽食、秘密組織ハイカロリーの日本における最高責任者であり、それを束ねる者だ。一般の重人達と一緒にされては困るが、君の言う通り私もまた重人の一人だよ」
「くっ!?」
咄嗟に丈太は身構えて、数歩後ろへ跳んだ。不意打ちをするつもりなら、既にやられている間合いではあったが、相手が敵だと知ってなお、ぼさっとはしていられない。そんな丈太の反応を、飽食は薄笑いを浮かべて見守っていた。
「そう警戒しなくても、君を殺すつもりならとっくの昔にやっていたよ。だが、そうしなかった。……それはなぜか?私はまず君と話がしてみたかったのだ。これまでに幾度となく我々の邪魔をしてくれたものだが、君はまだ若い。もしかすると、我々の理想を正しく理解していないだけかもしれない、と思ってね」
「理想…だって?!」
「そうだ。先程の理想は私個人の願望ではあるが、そもそも我々が掲げる究極の理想は、全ての人間が幸福でいられる世界だ。……では、一体何が人間の幸せだと思う?何をもって老若男女を問わず、幸福だと言えるだろう。人種や性別、年齢さえも超越した人の幸せとは……それは飢えの無い世界だ。ありとあらゆる生命が、決して飢えることなく肥えた世界こそ、我らが求める究極の理想なのだ」
「な、何を言って……」
その時、飽食の顔を隠していた日傘が仕舞われ、彼の全貌が明らかになった。純白のスーツが光を反射し、その顔は透き通るように白く輝いて見える。まるで、宗教画を切り取ったかのような出で立ちに、丈太は恐怖すら覚えた。この男は本気で、それが理想の社会だと考えているのが、その表情でハッキリと解ったからだ。
「どんなに人間の歴史や文明が進んでも、人は食べることを止められぬ。中には食に興味を持たない人間もいるが、大多数の人間は美味しいものを食べれば幸福を感じ、その多幸感を糧に日々を生きている。そしてまた、次なる幸せを得る為に食事を摂るのだ。時代が変わって食の好みが変化することはあっても、人は美食を忘れられぬ生き物なのだ!」
飽食は両手を掲げ、声高にそれを説いた。まるで演説をする政治家のように。しかし、その瞳だけは暗い陰を宿し、濁っているように感じられた。
「それは、そうかもしれない…けど」
「解るだろう?人が飢餓に苦しむというのは、知恵を得て生きる生物として最もあってはならないことなのだよ。我らは万物の霊長としても、飢餓を克服せねばならないのだ」
一見するともっともらしい言説だが、その為に人を傷つけたり健康を害したりするのは間違っている。と丈太は思う。里田老人が飢えを嫌ったのは、戦時中の体験からだと聞いたが、飽食が言っているのはそれとはまた違うもののように感じられた。彼の言葉には、それを裏打ちする説得力がないのである。
「例え貴方の言ってる事が正しいとしても、その為に人をメチャクチャに太らせたり病気になるような事をするのは間違ってる。太っているから飢えていない訳じゃないんだ!貴方達の勝手な理想の為に、強制的に人を太らせる事を、よしとするなんて俺には出来ない!」
「……ふむ。君はまだ青いな。人は時として、実力を行使してでも事を成さねばならぬ事があるのだよ。そして、それを最も平和的に可能にするのが、君が持つ生体ナノマシンであり、我々のMBNなのだがね」
「俺は……俺達は貴方達とは違う!人に何かを強いる理想なんて、俺は絶対に認めない!」
「……交渉は決裂か。残念だ、君の存在は我々の理想とする所に最も近いと言うのにな。よかろう、では少し痛めつけてから、もう一度
そう宣言する飽食の代わりに、隣からギャルソン風の老人が数歩前に出た。この男もまた、重人なのだろう。強いMBNの気配を感じ取り、丈太は険しい表情で二人を睨みつけた。その時だ。
ドンッ!という大きな爆発音がして、少し離れた所に煙が上がったのが確認できた。そして、重人の反応を示す警戒音が、SAKAEウォッチから激しく鳴り響く。暴走して逃げていた超重人キャンディがすぐそこまで来ていて、何かと戦っているのだ。
「なんだ…!?」
「ふむ。これは少々予想外の展開になりそうだな。ギャルソン、注意を怠るな」
「かしこまりました、飽食様」
激戦はすぐ傍まで迫っている。