昼間の暑さを沈めたコンクリートが、舞い上がるようにその熱を吐き出して…夜風となって頬にまとわりつく。
仕事帰りなのか、足早に駅に向かう人が多い中、私は止まってしまうんじゃないかというスピードで、コツコツとヒールを響かせた。
行かなければよかった…
すべて聞いてしまってから思う、重すぎる後悔。
…香里奈さんが言ってた意味深な言葉が繋がった。
あの時言ってたことを思い出す。
『…私だったら、吉良の過去を全部受け入れる。どんなことに手を染めていたとしても、私は絶対、受け入れるから!』
香里奈さんは、吉良が性的なサービスをするアルバイトをしていたことを知っていた…
その上で、受け入れる…と言った。
でも、金沢さんのことは知ってたのかなぁ。
知っていたとしたら、私にもっと強力なフラグを立ててきたと思う。
でもそれをしなかったということは…
ここまで考えてハッとした。
「香里奈さんは、関係ないよね…」
私がどう思うかだ。
吉良の過去を…私がどう思うか。
通勤で利用する駅が見えてきて…ふと不安になる。
帰ったら、どんな顔で吉良に会ったらいいんだろう。
金沢さんに聞いたことを、すぐに問いただすことが、果たして自分にできるのか。
目についたカフェに足を向けかけたけど…
また金沢さんに出くわしたら最悪だ…
そう思い直して、吉良と暮らす町に連れて行ってくれる電車に滑り込んだ。
「カフェオレ…お願いします」
結局、自宅の最寄り駅でカフェに入った。
少し気持ちを整理したい。
そう思ったのが本音。
ソファに腰掛けてはじめて、携帯をのぞいた。
金沢さんといる時、携帯は取り出せなかったから、吉良に夕飯を食べて帰るとメッセージして以来だ。
「帰りはタクシーに乗って帰れよ」
吉良からの返信はそれだけで終わってる。
そういえば、今何時だろうと手首を覗いた。
腕には、兄からの就職祝いでもらった時計が光ってる。
…この時計を贈られたのは、吉良との同棲を報告しに1人で実家に帰った時だった。
あの頃は、この話を知らなくて…一点の曇りもなく、幸せしかなかったと…思い返す。
腕時計は21時少し過ぎを告げていた。
早く帰らないと…と思いながら、まったく頭の中が整理できていないと感じる。
…ため息をついて、カフェオレの湯気を見つめ…金沢さんの顔を思い出した。
吉良がそんなバイトをしていたことは、ショックではないと言ったら嘘になる。
仕事として、女性に触れて、それでお金を稼いでいた…
ふと、吉良の手を思い出す。
私の頬に触れ、首筋を撫で…体のあらゆる場所を這う吉良の手が、たくさんの女性の肌に触れたなんて。
いやだ…と思う。
『触れられると、電流が走るみたいだった…ソコを触る時も繊細な指使いで…』
金沢さんの声を思い出して、思わず口元を押さえた。
私を高めるあの手が…吉良に教えられたいろんな悦びが…かつては金銭と引き換えに、たくさんの女性に施されていたなんて。
やっぱり、知るべきではなかったと、強く強く後悔した。
吉良はきっと、こんな自分の過去を知って、私がどれだけ傷つくかを考えていたと思う。
皆で飲んでいて、金沢さんが現れた時の吉良を思いだして、そう思った。
吉良はきっと今、当時のことをすごく後悔している…。
それでも、結婚して一生を添い遂げる私に、隠し通していいか悩んでいたんじゃないか…
確か…いつか、私にも話すって言ってたことを思い出した。
吉良も自分のこれまでの歩みを思い返して、過去を、自分の行いを…どう伝えようか、隠し通そうか、揺れ動いていた。
両親に挨拶に行った時に言ってた『俺のことなんてどうでもいい』って言ってた違和感もこれのせいだったんだ。
次々に思い出す。
一緒に暮らし始めて、苦悩するような表情を、言葉を。
きっと、お金を得るために、割り切ってやらなければならなかった…
複雑な吉良の家庭環境なら、もしかしたら、そんな事情があったのかもしれない。
だとしても…
愛しさをもって私に触れる吉良の手が、割り切って女性たちの肌の上を這っていたのかと思うと、複雑な気持ちには変わりない。
でも逆に…
かつてとても愛した女性がいて、その女性との行為だとしたらどうだろう…
吉良の手が触れた…
吉良の腕に抱きしめられた…
深い場所で繋がりあった…
そんな人が、かつて存在したとしたら、金銭のやり取りとは関係なく、心がざわつくのは同じだと感じる。
それは嫉妬で…独占欲。
自分以外の、誰にも触れないで…
そう思う私の内側の問題なんだ。
「帰ろう…吉良が心配する」
これ以上1人で悶々と考えても仕方がない。
知ってしまったことは、もう頭の中からどいてくれないし、後は私の受け止め方次第なんだと…生意気にも思った。
ただ、変わらないのは…
変わりようがないのは…
吉良が好きって思う、強い気持ち。
金沢さんに会って、自分の知らないところで過去を暴かれて、私が1人で思い悩んだなんて知ったら…きっと吉良は苦しむ。
そんなの、いやだ…
金沢さんとのこと、聞いた過去のことは…折を見て吉良に聞いてみよう。
それまでは、私の胸の中にしまっておく。
それが、吉良を傷つけない一番の方法だと…この時の私は結論づけて、カフェを後にした。