鼻腔をくすぐった香りは、確かに紙袋に入った吉良のスーツから香った匂い。
あの人…
黒いワンピースが白いセットアップのパンツスーツになってるけど…
間違いない。
金沢さんと呼ばれていた女性だ。
視線が動いたのを感じて、慌てて目をそらすと「モモ…?」と、逆に霧子に顔をのぞき込まれてハッとする。
「あ…のさ、これ飲んだら、出ない?」
「え…?」
あ…錦之助と聖也はまだ来たばかりだ。料理もまだ来てないし、私、何言っちゃってるんだろ。
「ごめん…変なこと言った」
金沢さんという女性は私たちの席と近い場所に座ったので、もしかしたら気づかれるかもしれないと、私はつい…下を向く。
錦之助と聖也が話をしている隙を見て、霧子が「もしかして、最悪のパターン?」と小さく声をかけてきた。
もう隠す余裕もない。
なんとなく不穏な気持が騒いで、私は霧子とそっと目を合わせてうなずいた。
「…どの人?」
「白いパンツスーツの人…ストライプのスーツを着た男性と一緒にいる」
金沢さんはこの前とは違った種類の笑顔を浮かべ、背筋を伸ばして男性と話していた。
多分仕事の話だろうと、その様子からわかるし、何をされるわけでもないのに、どうしてこんなに胸騒ぎがするんだろう…
「…2人をせかして食べさせて、別の店に行こう」
霧子はそう言って、テーブルに並んだお皿を錦之助と聖也の方にズイっと押しやった。
「…今から10分で食べな」
険しい目を向ける霧子の目を見て…何かあったと瞬時に察する錦之助はさすがだと思う。
あたりをぐるりと見て、注文した料理にがっついた。
「え…なになに?俺、口が小さいから錦之助先輩みたいにたくさん入らないよぅ…」
聖也は情けない声を上げながら、それでも次々と料理を口に押し込み、リスみたいになっていた…!
私のせいで急かしているというのに、そんな聖也に笑いが込み上げる。
少しでもゆっくり食べられるようにと、私は今のうちにトイレに行こうと席を立った。
もちろん、少し離れた席に、金沢さんがちゃんと座っているか確認して。
なるべく彼女に姿を見せないようにトイレに向かいながら…もしかしたら、こんなに慌てているのは私だけかもしれない、と思う。
向こうは私に気づいていないかもしれないし、そもそも本当にあの時の金沢さんに間違いないのか…
トイレの個室を出て、パウダールームで手を洗おうと移動すると、突然背の高い女性が目の前に現れた。
「あ…すいません」
とっさに謝りながら、壁側に身を寄せる。
「…本当に申し訳ないと思ってます?」
まさか…その声を聞いてハッとした。
「金沢…さん」
彼女は壁際に寄った私の肩に気安く手を置いた。
「偶然ね?さっきトイレに行くあなたを見て、吉良の隣に座ってた子だってすぐわかっちゃった」
意外にも明るい声。
「お友達と来てるの…?」
「あ、はい」
「吉良は?お留守番?」
「…え…?」
あの時、私は鬼龍さんの恋人だと言われたはずだ。
なのに…どうして吉良の名前を出すんだろう。
バレているのか…それとも。
何も言えない私に、薄く笑顔を見せて、まぁいいわ…と言う金沢さん。
「ねぇ、良かったら…連絡先交換しない?」
「…連絡先?」
「2人で話しましょうよ。…なんだかあなた、誤解してるみたいだし」
誤解…?
吉良が言ってたのは、過去に金沢さんにつきまとわれて困ったと言ってたこと。
そういえば、金沢さんとはどういう経緯で知り合って、具体的にどんな事があったのか…知らない。
知らなくていいこともあるって自分を納得させたのに、やっぱり気にしてる自分に内心苦笑する。
「あなた何も知らないでしょ?吉良の高校時代のこと、それから…大学に入って、あなたと出会う前のことも」
「どうして金沢さんは…私と吉良さんを結びつけるんですか…」
私は鬼龍さんの恋人ですって、ここでもう一度言ったほうがいい…
そして彼女の脇をすり抜けて、霧子たちが待ってるテーブルに戻った方がいい…
そう思うのに、なぜか私は、金沢さんの次の言葉を待ってしまった。
「簡単よ。だって吉良の手が…あなたの腰を抱いてたし、あなたもその手に重ねてたじゃない…」
その、小さな可憐な手を…金沢さんは下ろした私の手を凝視する。
手を見られているとわかっていて、両手で口元を押さえることを止められなかった。
金沢さんに、全部見られてたんだ…
もう、言い逃れはできないと思った。
「吉良のこと、もっと知りたいでしょ?」
誘うように言われ、はい、とも…いいえ、とも言えない。
ただ…今まで感じた違和感を思い出した。
…私のサイズにピッタリの服や指輪を贈ってくれたこと。
元カノはいないと言ったこと。
過去の過ち。
尖っていた高校時代。
仲良くしていた女の子。
…香里奈さんが言ってた、私なら、吉良の過去をすべて受け入れる…と言ってた言葉。
吉良の過去を、知りたい。
吉良のすべてを、知りたい。
私は金沢さんとしっかり目を合わせた。
そしてポケットから携帯を取り出して、彼女と連絡先を交換した。
「明日の夜、この店の先に『Chanti』っていうカフェがあるから、そこで待ってるわ」
意外なほど明るい笑顔を向けられ、少し拍子抜けしながら…私はしっかりうなずいて、先にトイレを後にした。
テーブルに戻ると、錦之助も聖也も食べ終わっていて、霧子に心配そうな目を向けられる。
「ごめんね…お待たせ」
私が戻ってきたのを合図に、3人とも席を立ち、その瞬間店のドアが開いた。
目をやると、入ってきたのは金沢さん…
私たちの目の前を風のように通りすぎ、自分のいたテーブルで待つ男性に「ごめんなさい…」と声をかけている。
今の行動はわざとだ…
私だけが、わかること。
「…よかった。モモがトイレに立ってしばらくしたら、あの女の人いなくなってて…まさかトイレで鉢合わせたのかと思った…」
私にだけ聞こえるように、霧子がホッとしたように囁く。
それはたった今、金沢さんが外から入ってきたからだろう。
トイレの近くに外に出るドアがあったということだ。そのからくりは、詳しくわからなかったけど…逆に明日の金沢さんとの約束について、霧子に打ち明けられなくなってしまった…。