愛する人は…私の名前を、ちゃんと呼んでくれない…。
桜木桃音…縮めて”モネ”って呼ぶ、唯一の人。
「…モネ…」
ギシ…っとスプリングを軋ませて、私が寝ているベッドに重みが加わった。
呼ぶ声は…低く掠れてる。
吐息みたいな低い声…頬にキスをする唇、大好き…
「吉良…」
私の背後に横たわる愛しい恋人は、慣れた手つきでウエストを抱きしめる。
「もう一回呼んで…」
耳元でささやく声が色気を孕んでる…
「吉良…」
ふふ…と鼻で笑う。
「…先に寝るとか、あり得ない…」
…そんなに不機嫌そうでもないけど…そう言われると、とっさに謝ってしまう。
「…ご、めんなさい…でも」
もう夜中だよ?
いや…朝方かも。
暗がりで吉良さんの顔がよく見えない。
…ということは、夜明け前?
それなのに、私の部屋にそっと忍び込んで、眠る私を抱きしめるなんて…。
…どういうつもり?
後ろから抱きしめる手が微妙なラインをなぞる。
なんだか落ち着かなくて…正面を向こうとしたけれど…
「…気が散る…」
「…ご、ごめ…ん」
とっさに謝ってしまう私は、きっとどうしようもないほど、吉良さんが好き。
「…眠れる?」
吐息まじりの低い声が耳元でささやいてキスに変わる。
…眠れないよ。
急に忍び込んできて、こんな風に抱き寄せられたら…
言葉が出なくて、答えが切ない吐息になれば、吉良さんの指先がどんどん大胆になっていくのがわかる。
………
「…吉良さん…」
あっけなく繋がって…果てたあと、今日こそは…って毎回思う。
まだ後ろで密着する吉良さんの手に自分の手を重ねて、振り向こうとした。
「…ん。そろそろ行く。今日は遅くなったから」
体温が離れて、ベッドから降りたことがわかる。
慌てて振り向いたけど、吉良さんは振り返らず出て行ってしまった。
…残ったのは、かすかな吉良さんの香りと、どんどんなくなっていくベッドのぬくもり。
あぁ…今日もキスしてくれなかった…。
正面から、抱きしめてもらえなかった…。
寝ている私を、後ろから抱きに来ただけ。
待って…って
顔を見て、抱きしめて…って
キスして…って…言えなかったなぁ…。
………
「モモさ、あんたと吉良さんの関係は、恋人じゃなくてセフレね?」
ハッキリ物を申すのは、大学で仲良くなった友人、霧子。
「…ちゃんと付き合ってください…って言ったもん。それでオッケーしてもらったんだもん…」
大学内のカフェ。
テーブルに頬をペタリとくっつけるようにして突っ伏す私は、霧子に弱々しく抗議する。
話題は私の恋人、綾瀬吉良さん、27歳について。
「…夜中に忍び込んで来て、やることだけやって出ていく男ってどうなのよ?」
確かに。
向かい合ってのキスもハグもなしじゃ、私だって恋人じゃなくてセフレかもって不安になる。
それでも…
「…好きなんだもん。前にも増して大大大好きなんだもん…」
夜中だろうと早朝だろうと、私の部屋に来るということは、その前に私を思い出したということで。
…それだけでも幸せな気持ちになる。
人に見せない部分を見せ合うことができるっていうことは、私を多少なりとも信頼してくれて、そして女として認めてくれてるってことでしょ?
たとえそれがセフレだろうと、私は絶対吉良さんを拒めない。
いつでも365日、毎日24時間。
吉良さんを受け入れてしまう自信しかない。
「…じゃあさ、そんなに大好きなら、どうしてそんなに悲しそうな顔してるの?」
歯に衣着せぬ物言いが得意な霧子…。
そこは見ないふりしてスルーしてほしかった。
「…ねぇ!なんで?なんでよ?」
「それは…」
抱かれるのは嬉しいけど、夜中に忍び込んでくるなんて。
最近はそんなことが多くて、さらに寂しいと思ってる…。
「…わかるよ?それはひどいもん。私だったら怒るよ?せめて寂しい気持ちを打ち明ける。モモはなんでそうしないの?」
うー…と唸ってごまかすも、霧子はパチンと手を打って大げさに言った。
「わかった!セフレだと言われるのが怖いのか?!」
「…3年も続いたセフレなんていないもん。…多分」
ぶーっと頬をふくらませる私を笑いながら、霧子は授業があるから…と言ってカフェを出ていってしまった。
「…卒業するまでには、はっきりしたほうがいいんじゃない?」
別れ際、霧子がさらりと置いていった言葉。
テーブルから起き上がって、たしかにその通りだと思っている自分を感じた。
恋人(多分)の綾瀬吉良(あやせきら)さんとは、3年前の大学1年生の終わりに出会った。
あの日私は、大学で出来た友人、霧子と錦之助と3人、初めての学祭ではしゃいでいた。
受験戦争に勝ち、合格を手にした夢見た大学の…これが学祭!
…かなり、浮かれていたと思う。
特設会場で、人気のダンスパフォーマンスを見ながら、3人で一緒にぴょんぴょん跳ねて盛り上がっていた。
そしたら後ろに立っている人に派手にぶつかって…すいません!…と言いながら、後ろを振り返ったときの衝撃ったら…!
今でも忘れない。
スラリとした長身で、黒い髪が目にかかりそうな大人の男の人が、腕を組んでそこに立っていた姿。
「…いや、大丈夫…」
言いながら前髪を邪魔そうにかき上げて見えた眉の凛々しさと、平行二重の目力が、抜群に素敵で…。
鼻と口のバランスがいいですね…なんて、変なこと言いそうになって思わず口を押さえ、後ろを向いたまま固まってしまった。
あまりにじっと見つめたからか、あの時の吉良さん、今はほとんど見せてくれない笑顔で言った。
「…見ないの?」
前を指さしながら言われ、後ろを向いてるのが自分だけだと気づく。
「はい…!見ます…」
とっさに吉良さんの両隣を確認して、女性がいないことを確かめてから、前を向いたけど…
本当はもうダンスなんて目に入らなかった。
………
…吉良さんのフルネームと学部がわかったのは、実は錦之助のおかげ。
「…綾瀬吉良先輩だろ?理工の院生2年だよ」
なんてシャラっと教えてくれたから、犬みたいに頭をワシャワシャ撫でてあげたっけ。
吉良さんと同じ理工学部の錦之助は、私と違って校舎も一緒だったので、頼み込んで私の目となり耳となって動いてもらうことになった。
今日は見かけたのか見かけなかったのか。
見かけたなら服はどんなで、何をしていたのか…。
そして何より、1人でいたのか、誰かと一緒か。
「モモ…うるせー。早く告白しちまいな」
毎日こと細かく聞いてくる私に、疲れた顔を見せる錦之助に言われた。
そこで…
寝ても覚めても吉良さんの顔しか浮かばない自分を自分でも持て余し、後悔したくない…という理由も加わり、卒業が迫った吉良さんに玉砕覚悟で告白したんだ。
「…別に、いいけど」
あっけないほどサラッと降ってきたオッケーの花びら…(なんだそれ)
その場で思わず泣いてしまった…。
「なんか…俺が泣かせたみたいなんだけど?」
呆れたみたいに言われて、必死に涙をぬぐって連絡先を交換してもらった。
「…俺忙しいから、そっちからの連絡は控えてくれる?」
「は…」
今交換した連絡先の意味って…。
でも、見上げた吉良さんが笑顔だったから、思わず「ハイ!」って、元気よく返事をしてしまったんだ。
…決死の告白から3年。
後で聞いたら、学祭に行ったのはあれが初めてだったそうだ。
私は「運命?!」って色めきたったけど…
“初めて行った学祭で捕まった”
吉良さんは私との出会いをそんな風に言う…。
その顔が、いつも困ったような表情だから、私はいつも謝った。
”…見つけてしまってすみません“