カイラは免許を持たずとも車の運転の最低限のルールとマナーくらいは知っている。
今のように、車が非常時以外で歩行者の横断を妨げてはいけない、ということもしっかり把握している。今は非常事態ではないので、カイラの横断を遮っているこの車をしている者は交通ルールに抵触していると言える。
「それ以前に、車はきちんと停止線で停止するべきだろうが。停止する目印の白線がはっきり敷かれてるだろうが。そこがお前の停止すべき所だろうが…!」
未だに横断歩道上で停車して左折するタイミングを伺っている車のところにカイラはツカツカと近づき、車の窓をコンコンと鳴らす。
「おい」
「あ?何、誰お前」
「誰お前、じゃねーよ。そこで止まってるせいで、こっちの通行の邪魔になってんだろが。下がれよ、どけ」
「ああ?何だお前。だったら後ろから回り込めばいだろうが。スペースいくらでもあるだろ」
車を運転しているのは三十代の男性で、カイラの呼びかけに応じる気がなく適当にあしらおうとしている。車をバックさせてカイラに道を譲る気もない。
「ざけたこと言ってんじゃねーぞ自己中野郎…!止まるならここじゃなくて、すぐ後ろの停止線だろって言ってんだろうが!交通ルール守れよ、ゴミがっっ」
そう怒鳴ってカイラは車体にガンと蹴りを入れる。加減を入れてないこともあって、車体の一部が凹む結果となる。
「な……お前、何しやがる!?」
車を傷つけられたことに男は怒りを露にしてカイラを睨む。シートベルトを外してドアを開けて、カイラの前に立って威圧しかけてくる。少し太り体型でガタイは良い方ではないものの、短気を起こして突っかかってくる見知らぬ人間と対立する度胸はあるようである。
「ここに傷が出来てやがる……お前、よくもやってくれたな?警察に突き出してやる!」
「何が警察だ?交通ルールを違反してるてめぇが言えることか!停止線の前で止まれよ!何横断歩道の真ん中で止まってやがんだ!俺の通行を邪魔してんじゃねぇ!」
「何わけ分からねーこと言ってやがる!そんな馬鹿げたことで人の車に蹴り入れてんじゃねーぞ!」
「そんな、ことだぁ……?つくづく、自己中のクソ野郎だなてめぇ…!」
これまでもカイラはこういった停止線ではなく横断歩道上で停止したり、青信号を渡る際にこちらを横切って曲がり進んだりする車の運転を不快に思い忌まわしくも思い、その運転手に殺意すら抱きもしていた。
それらに対してカイラは普段、自分の通行を妨げている車に声をかけて退かせに行った。たいていの者たちはそれに反応してバックして退くこともあれば、無視することもあった。後者に対しては、カイラは憤りを見せて車体を蹴ったり怒鳴ったりして怒りをまき散らしてみせていた。
たいていの者たちはそんなカイラに怯んでドン引きしたり大人しく車を下がらせて波風を立てないようにしていた。
しかし、今回の相手は普段と違い、カイラに対して臆することなく喧嘩腰で話しかけてきた。
「さっきから本当に何なんだお前、障害者か?絶対そうだろ。こんなことでいちいち噛みつきやがって、ヤバい奴だな?昼間からそうやってプラプラしてるってことはお前どうせ無職だろ?親の金で暮らしてそうな感じしてるもんな」
運転していた男は怒りから一転、カイラの身なりを見てそんな憶測を口に出して貶しはじめる。カイラの怒りのボルテージはさらに上昇していく。
「勝手言ってんじゃねーよカス…!親のもとで暮らしてなんかねーよ。こっちはちゃんと自立してんだよ」
「はっ、じゃあ何か、最近仕事クビになったクチか。通行邪魔されたくらいでこんなに突っかかってくるくらいヤベー奴だから、クビになって当然だよなぁ。ていうか、お前みたいな危ない人間を採用する会社なんかが存在してたことが驚きだわ!」
「おい、そろそろ黙れよクソ野郎……!」
「はっ、そっちから吹っ掛けておいてよく言えるな?図星突かれたか?人生上手くいかないからって周りに当たり散らすとか、お前の方が迷惑やってんだろうが。社会の負け犬が、とっとと家に帰って引きこもって――――」
ガスッッ 「――ろどぼ……っ」
同じく頭に血を上らせていた運転の男がさらに貶し言葉をぶつけていると、その顔面にカイラの拳がめり込んだ。カイラの怒りの沸点は相手以上に低く、簡単に暴力に走ってしまった。
「黙れっつっただろ…!クソ発言しまくりやがって………っ
俺の通行邪魔するだけでなく、俺を貶す暴言まで吐きやがったな?最低のクソ野郎の分際で。生きる価値無いゴミ人間の分際で…っ」
一発殴っただけじゃ気が済まない様子のカイラは、よろけて転んだ男の胸倉を掴むとさらに拳を振るう。運転の男の鼻から血が流れ落ちる。
今日のカイラの機嫌は特に悪かった。昼間から酒を飲んでいたことと近隣の親子に対する苛立ちが相まって、彼はいつも以上に気が短くなっていた。それ故に、今日のカイラはいつにも増して危険な考えを巡らせてもいた。
「殺して、やる……。お前は俺の敵、俺を嫌な気分にさせる最低なヤツ、人間のクズだ…!」
「………っ!?お前、上等だよ…!車に傷をつけたことと、暴行・傷害で、警察に通報してやる!!」
運転の男も激怒してポケットから携帯電話を取り出して通報しようとするが、カイラに腕を蹴られて携帯電話を手放してしまう。
「この、ざけんな…!」
運転の男もカイラに掴みかかり、地面に押し倒そうとする。二人の喧嘩に周りの人たちは足を止めて野次馬を決め込んだり、そのまま通り過ぎたりする。誰もが時々起こるしょうもない喧嘩が起こったのだと、そして警察が来てすぐ鎮火するのだろうと、この時そう思っていた。
「死ね、死ねやクソ野郎!!」
「お前が死ね、社会の負け犬がっ」
服を掴まれ引っ張られたことでカイラはバランスを崩して地面に倒れてしまうが、そのまま運転の男の体を殴り続ける。しかし体勢的に力があまり入らず、相手に大したダメージが入らず、反撃をくらってしまう。このまま泥仕合いにもつれこんでしまうかと思われたが、カイラの動きに変化が見られた。
(ああ、クソが……マジでクソだ!!世の中いつも俺の思い通りになりやしない。気に入らない人間はずっと存在し続けてるし、外に出るといつもいつもこういうムカつく奴と遭遇しやがる…!
もうウンザリだ。こんなクソムカつく日々は………)
「――もうウンザリだっつってんだよ!!今すぐ、俺の前から消えやがれえっっっ」
がしッ「~~っつぅ!?」
ブチ切れたカイラは相手のつむじ部分の髪を思いきり掴む。その痛みで相手が怯んだ隙に、カイラはそのまま相手の後頭部を固い地面に激突させた。
ガン!!「――――!」
固い物同士が思いきりぶつかった音が辺りに響き渡った。同時に、喧嘩している二人のところから血が少し舞った。誰の血か、今しがた地面に叩きつけられた車を運転していた男の血である。
「ぅあ………っ」
後頭部に強い衝撃をもらったことで男は一瞬意識を朦朧とさせてしまう。それにより力が抜けてカイラの拘束を解いてしまう。体の自由が利くようになったカイラは馬乗りの態勢をとり、車を運転していた男の首に手をかけて、そのままギリギリと力をいれて絞め始めた。
「グッ!?か、かかか……ぉお゛」
「死ねよ、死んじまえ!クズが、ゴミが……!」
普段のカイラであればここまでのことはしなかった。怒りはしたもののここまでの暴力にまで走ることはしなかった。今回このようになったのは、本日のカイラがすこぶる機嫌悪かったことと、カイラが突っかかった相手が反発してきたことが原因であると言える。
それ故にカイラはこの日この場で、今まで溜め込んでいた怒りや憎しみを、この男に対し暴力という形でぶつけることを選んだのだった。
「カ……っ、カ……ア゛」
「交通ルール・マナーを碌に守らないカスに、車の運転する権利なんかねーんだよ!!」
ガン!!
片手で首を絞めたまま、カイラはもう片方の手を拳状に握って、相手の顔面に容赦の無いパンチを炸裂させた。殴られた反動で、相手の後頭部が硬い地面に強く打ち付けられた。
後頭部…頭蓋が割れるような音が辺りに響いた。
「お、おい……アレ」「ヤバくないか?」「絶対にヤバいって!」
離れたところで野次を決め込んでいた人たちは、カイラの凶行を見てただならぬ雰囲気を察する。中には警察に通報する者もいた。しかし、それは遅過ぎる判断となった。
ごとり……
首を絞めている方のカイラの手を掴んでいた男の手が力なく下がり、そのまま全身からも力が抜けていく。
「あ……………?」
相手からの抵抗が無くなったことに気付いたカイラは首を絞めるのを止めて馬乗りも解いて立ち上がり、相手の様子を見る。
車を運転していた男の首は据わっておらず頭を横に向け、舌もだらしなく口から出たままである。目の瞳孔は開いたままで一点を見つめたままでいる。さらにはズボンの股部分から小水が漏れ出してもいた。
「あ……………っ」
カイラは恐る恐る近づいて、男の心臓部分に耳を傾ける。そこから心臓の鼓動は、全く聞こえなかった。
「―――――ぁ」
この日、桐山カイラは、人生で最初の殺人を犯してしまった。