さてその次が「失楽の人々」。
大正十五年に『婦人倶楽部』で連載したものですな。
これ結構レアばなしで、執筆に関することが吉屋千代編「年譜」、吉武輝子、田辺聖子の伝記二本においても全く! 書かれていない。また、作品そのものとしても取りあげられたことが殆ど無い。
久米依子氏が「吉屋信子――<制度>の中のレズピアン・セクシャリティ」『国文学解釈と鑑賞別冊
その後書かれたかもしれないけど、まあワタシが修論とか書いてた時点では見つけてない。
ただ講談社との関わりはこの辺りにあってな。
同じ年にやはり講談社の『少女倶楽部』に「三つの花」を一月から一年連載しているわけだ。
「花物語」とは違う雑誌連載の長編形式の小説もできるかな、と講談社側は、『婦人倶楽部』でも試しに半年強の連載を任せてみたんじゃないかと。
「三つの花」は割と百合っ気強い話だった記憶なんだが、違ったらすまん。
どーも少女小説のほうは他の人がやってると思うとあんまり熱心になれないんだな。隙間産業体質なんで。
で、内容。
一言で言うと、
「祖母の教えにより、父と男を憎むようになった私生児のヒロインが、学校で得た最愛の友人に降りかかった事件を通し、再会できた父への認識を改める物語」。
というように、一応「まとまった形」を持ってる話なんだな。
ただ大人の話かというと、やや疑問で。
大人の年齢ではあるけど、少女の延長線という感じが強い。
*
北海道から女子高等師範の理科に入るために出てきた橋口操は私生児として生まれた娘だった。
技師・轟千也という男が父親だ、と憎々しく祖母から聞かされてきた彼女は、父と共に男というもの全てを憎悪していた。
ところで操は上京早々駅で出会った少女に一目惚れする。寮で偶然再会したその人は文科の二年生、及川千栄子だった。
夏、寮の友人同士で鵠沼の尼寺へ旅行することにする。操の決め手は千栄子が鵠沼の別荘に滞在するということだった。鵠沼で千栄子と合流し、海辺の休みを操は楽しく過ごす。
だが次第に皆の会話の端々に結婚の文字がよぎっていく。
楽しそうに話す中で、操は一人、自らの境遇を思うたび、男への憎しみを考えずにはいられない。
その中でも千栄子との友情は深まっていく。
だが海水浴をきっかけに、モダンボーイの山下征夫が千栄子に近づいて行く。この時の山下に対する感情が嫉妬であることに操は気付く。
秋になり、千栄子の肋膜が再発、学校をやめて結婚を考えている、と操は彼女から聞く。そのために伯父からもらったアメジストの指輪を渡した、と。
だが山下には別の縁談があった。彼にとっては遊びだったのだ。だがそれで妊娠してしまった千栄子。指輪の返却だけを求める彼女の望みを叶えるべく操は硫酸の瓶を手に、山下と対決する。
そこへ千栄子の伯父がやってきて、加勢してくれる。山下は逃げる。改めて自己紹介した彼は、轟千也――操の父だった。
友情と憎しみの間に迷う操。それを救ったのは人工流産のせいで死の直前にあった千栄子だった。従姉だった彼女の前で轟と親子であることを誓う。
そして自分や母、祖母だけでなく父も苦しんでいたことを知り、残された叔母や父と共に生きていくことを決意する。
*
で、これは結構すんなり読める。
理由を考えてみると、キャラ側としては
・登場人物の規模の縮小
・操をきちんと中心としている
・人物の描写のコントラストを効かせている
という点があるんだな。
話としては。
・操の感情を中心にきちんと一貫した流れで語られている。
・男性嫌悪は異常に強烈だけど、一般読者に理解されやすい様に、「私生児」という
意味づけがされている。
ように、一応立ち位置に不自然がないように語られてるんだわ。
ちなみに男性嫌悪の描写。……これは強烈。
*
>しかし《男性》に対して一生心の許せぬ気持と、それへの反逆と憎悪は、幼児の時から血に伝へられたかと思ふほど操の内心に深く根ざしてゐるのを知つてゐた。(……)この世界人類の生活、少なくとも日本の社会の組織と運転を一朝にして破壊し去らうとするならば、それは社会主義でもない、アナーキストの暴動でもない、たゞ女性の全部が団結して、結婚を退け、男性への服従を退け、母性愛の重荷を投棄ち、男性に身も心も許さずして生きてゆく形を取ること、それだけで日本はつぶれてしまふ、日本の男性は路頭に迷ひ、釦のとれた服、ほころびだらけの着物、欲望の満たされぬ醜態で餓鬼の如くさまよふのだ。そして初めて航海して女性の今までしてゐた仕事がいかに人生にとつて必要な尊い奉仕であつたかゞわかるかも知れない!
『吉屋信子全集 第十一巻』(新潮社 昭和十年四月 p417-418)
*
んで。
その「憎むべき男」によって、「愛すべき」千栄子は母と同じ、「一時的な遊びの結果としての妊娠」という運命を辿るんだわ。
この繰り返される運命が、相手の男を悪人として描写することに正当性を与えているんだな。
千栄子の「死による全ての解決」も、「地の果まで」の様な唐突感は少ない。
端々で語られる千栄子の元々の病弱、肋膜の再発、人工流産といった伏線が張られているから無理がない。全体的にすっきりとした読みやすい物語になっている。
たーだーしー!
難を言えば、筋の長さに対し、描写が短編で扱う様な大人しい、悪く言えばだらだらしてるんだよ!
寮の友人達との交流は、操の生活描写として彩りとなってはいるけど、その後の筋に全く関係して来ない以上、そこまで事細かに書く必要はなかったんじゃね? って気分になるわけだ。
でも正直、この作品はそれまでと大きく違い、吉屋がきちんとした筋を立てたことがよく判る作品として評価したいのよ。
これが、「薔薇の冠」と『黒薔薇』での経験、婦人雑誌における読者からの感想が、「空の彼方へ」の成功へとつながったのではないかと考えられるわけだ。
「朝日版全集」は初期作品として「地の果まで」「空の彼方へ」を一冊に入れてるんだけど、前者と後者の発表時期に比べて、違和感がありありなんだな。
「海の極みまで」は朝日的に抹消したい作品だったのかもしれないけど(堕胎を是としてることが朝日の気に障ったんじゃなかった説というのがありましてな→人工流産ならいいだろ的な)、ミッシングリンクとして「失楽の人々」は置かないとやっぱりストーリーテラー吉屋としての成長の度合いを測ることはできないんじゃねえかと思うのよ。
んで、「空の彼方へ」と続くわけだ。