さて。
「花」までと、そのあとの「書ききれない改変」の後話どす。
まず「女の教室」。
昭和22年版について、昭和34年に東方社から再々刊された際の「再刊のあとがき」でこう書いてるんですね。
>(……)その後日本はますます悲しい戦争に突入して、やっと敗戦で終ったあと、いままで息をひそめていた文芸ものの刊行が洪水のように起った時、旧作のかずかずの復刊に際してこれも求められて再刊したが、戦争をしみじみいとう気持から、学校の巻、人生の巻だけに止めたが(……)
ポイントは
・「求められて」出したこと
・「戦争の巻」をあえて入れなかったこと
ですな。
ともかく戦後の吉屋信子というひとは、結構露骨に前の戦争を否定しまくってるんですな。
まあ、昭和初期とかも「戦争一般」の否定はしてるんだけど、流れの中では結構周囲に同調してて、高揚してる感もある。
普通の人がお花畑インテリの顔を必死でつけようつけようとしている感じがあるんだな。
というのも、昭和21年に新作長・中編を4作書くんだけど。
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よくまあネタがあって4本並行していたよな、と思うんだけど。
しかも全部まるで違う舞台。
ただ同じなのは、「戦時中~終戦」という時間の流れにこれらの場所と人々がどう動いたか、ということ。
その中に、戦中には絶対出ない文章が出てくるんだけど。
>「(……)井中の蛙どもが、自ら特権階級となつて、武断政治に自己陶酔した結果だ、一気に開戦を押しまくり、始めから講和もその時期も計算に入れず、たゞ鼻息の荒い戦争御輿のかつぎ祭、緒戦にどつと景気をつけて国民の大向う受けをねらつて、あとの息切れを考えず、その結果の今日に至つても、なお純戦術論を無視した少数の強気者が主導的な立場で衆を引ずつてゆくのが、神がかりの神風だのみの日本の定石なのだ――たゞ気の毒なのは罪のない国民だ……」
「夕月帖」(『吉屋信子長篇代表選集 4巻』昭和二十八年十二月 百四十二~三頁/初出『スタイル』二十一年三~十二月)←執筆は20年末には始まっていたと考えられる
>「(……)ほんとに私たち頑張つていれば、必らず勝つんですもの。」
「そういふお母さんのやうな、お人好しがゐるから、軍部の過激派の井戸の蛙が天かを思ふやうに動かしたくなつたんですよ、そして彼等が頑張るほど最悪に……」
『花鳥』(鎌倉文庫 昭和二十三年五月 五十八頁
/初出『婦人文庫』二十一年六月~二十二年五月)
>「おい、六時のニユースだろ、ラジオかけてくれ、新内閣はどうなつたかなあ……さんざん荒し果たあとだ、誰が出たつて、もう今更建てなほしなるめい……」
――過る十八日――サイパンの悲報後、さすがに東條内閣が総辞職――そのあとを受けて誰が立ち得るか――柳次郎のみならず誰もはらはらしてゐた日だつた。
「歌枕」(『新大衆小説全集第三巻 吉屋信子篇』昭和二十五年一月 二百七十八頁
/初出『ロマンス』二十一年十一月~二十二年九月)
これらに共通するのは、
「軍閥と一般国民は別なんだから!」
という感情なのだな。
これは「鳩笛を吹く女」で、
「日本の軍事行動が何が故に彼の地に必要か、世界の強国が満州と日本への認識不足」
→「日本の軍事行動に就いて国民が批判を持たねばならぬ」
「花」の加筆「そして軍閥と国民の考へがちがふといふことをね」
の部分ともつながるわけだ。
もう一つは通州事件に関して。
「女の教室」で散々書き換えがあったところですな。
同じような主張が「翡翠」にも出てると。
>「あの通州事件こそ日華事変の出発に際して、居留邦人の血を以て日本に幾多の示唆と、軍部への反省を贈つたものだつたのだ――それも空しくつひに――」
「翡翠」(同書 三百四十八頁/初出『読物クラブ』二十一年十一月~二十二年十月)
「翡翠」は在中邦人の物語なのですね。これがまた、大半がこの時期の日中関係について話し合う場面なのだわ。
で、上の文章には通州事件による「反省」が出てくるんだけど、ここで「反省」するのはあくまで「軍部」なわけよ。
んで、これは「女の教室」に改変後における「反省」とも通じるわけだ。
「女の教室」では改変前では、「支那」側の残虐さが強くアピールされ、一般人の代表としての清さんまでが怒りまくってるんだよな。インテリ女性の代表のような有為子さんでも「戦争も仕方がない」「何もかも清算して新しい支那を」と自分達一般国民をも含めて好戦的な「戦争あり」の「反省」をうながしている。
けど改変後の場合、「ほんたうの融合平和」を「根底から築」くためのものであることから、今までの「軍部の」好戦的な行動を、(見逃したことに対し)一般国民が「反省」する、と取れる文章になってしまうわけだ。
つまり、「反省」の矛先が逆になるわけだ。
んでまあ、だから「戦争に関する」「修正作業」自体、彼女は昭和21年に既にしていた、ということになるんだな……
だけどこのあと、吉田首相との対談で、警察予備隊創設~のあたりで、「国を守る気概がない人を集めてもろくな軍隊にはならない」の意味でするっと醜の御盾に~とか出てしまって、朝日新聞の天声人語で「一主婦の投書」で「子供がない吉屋さんは~」と責められ、毎日新聞で反駁し、また朝日の投書欄→更に毎日の欄→和歌山の不買運動~
とかなっていくんですがねえ。「やるならちゃんと心が入ってなくちゃ」は下手な「私たち庶民は悪くないんだけどね!」よりましだと思うんだけど、この話、ちょっと論点がどんどんずれてったなあ……
修士論文の注に出してあったのが
(3)『毎日新聞』昭和二十八年二月十四日「問題になった吉屋女史の発言」より
> 再軍備の問題がやかましくいわれているとき、婦人公論二月号の『吉田首相を囲んで』という座談会で、作家の吉屋信子さんが『自分の子供を喜んで国のタテに捧げることに誇を感じなければ……』ということをいいました。この言葉がいま『平和を願う女性の気持に反しているし、子供を生んだことのない吉屋さんには母親の気持はわからないでしょう』と問題になっています。和歌山県の婦人会では吉屋さんのこの発言について緊急会議を開き、母親三千人に署名を集め『婦人層に多くの読者を持つ流行作家の言葉がどれだけ大きく社会に影響を及ぼすか、平和を願っている母親たちの立場を考えてほしい』と厳重な抗議文を送ったといわれます。もしこの抗議に吉屋さんから回答がない時は同女史の執筆した雑誌の不買運動にまでひろがる動きがあるといわれています。そこで、どうしてこのような問題が起ったのか、吉屋さんの本当の気持はどういうところにあるのか、当の吉屋信子さんに書いていただきました。
事件の流れとしては、
『婦人公論』座談会
→『朝日新聞』天声人語における「一主婦の声」
→吉屋の『朝日』投書欄「声」における反論
→『毎日』誌上コラムでの反論
→「私はこう考へる」(『婦人公論』昭和二十八年四月)
「日本はいずこにゆく」(『改造』昭和二十八年五月)へと数ヶ月に渡って続いていく。
とあるんで、まあその順に観ていくと、ここの炎上騒動の様子がわかるんだわさ。
そのあと週刊朝日で対談とか出るあたりまでしばらく仲たがいしてた模様。
ただな、吉屋信子というひとはちょっと変わった価値観のひとだったので、……まあ、主婦層から炎上するよなー、ということを言っちゃうんだよ……
そのあたり、ぶっちゃけて言うと「結婚するまで処女童貞!」「ヒロインは実の子と一緒に幸せにさせない」という傾向についてはまた。