>(……)でも仕方がない。この上は賢二との結婚生活をしつかりさせて、兄の杞憂を一日も早く払つてあげたい――澪子はかく心に願つた。賢二性格上の欠点は、やはり多少認めている彼女であつた。でもそれは、結婚後二人が、互の人格の完成につとめ合へばいいのだ――またさういふ意味なしに、たゞ一時の青春の愛欲から、盲目的の愛に溺れるやうな無智な、二人の生活ではならない――それだけの覚悟は、澪子は負った。
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昭和5年、欧米を回って帰ってきた第一作の連載です。
でまあ、このヒロイン澪子さんは、「処女のままでないヒロイン」、結婚出産をしている女性、ということなのですが。
このひとは年の離れた兄夫妻と当初一緒に住んでます。つーか、養われてます。
女学校の後、音楽の道は断念して、高等師範へ行って、23歳で地方の高等女学校の教師になります。下宿中。
で、そこで出会ったのが、高島賢二。この時点で「三十格好」です。図画の教師です。
見た目「背の高い痩せぎすな、三十格好の、神経質なやうな、眉と眼の迫った男」「身支度もいそいだと見えて、ネクタイは粗末に結ばれて、おまけに曲つてさへいた」「頭髪は無造作に長く伸ばされて、油気もなく後ろにばさりと掻き上げられて、少し頭を動かすと、額にばらばらと毛が落ちかぶさるのだつた」。
その賢二と、初任給で買い物をしようと出た時にばったり会いまして。女学校時代の親友に送るものを一緒に選んでもらう次第。
この時、なかなか画家として芽が出ない自分に苛々している彼をを見て、
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> ――さういつて苛々しげな彼を見ると、もう澪子も何も言へぬ気持だつた。――むしろそういふ彼を何か母らしい姉らしい柔かい心づかひで、いたはり包んでやりたいやうな感情を覚えるのだつた。
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五月頃がまずそういう感情。
で、夏休暇で兄のところへ帰った時に、千葉の海岸に絵を描きに行ってる賢二から葉書、ついで手紙が。
スケッチブックに海の風景、その上にこんなの。
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> 僕は断然今年の夏休暇を呪ふ。こんなことなら、寧ろあの学校の職員室の時間が僕にはより幸福の筈ではないか。僕はもう十日まる切り仕事をしない。パレツトの奴がかちかちにかたまつて、捨てられてゐる。二科出品は諦める。毎日鰹の刺身を食べ飽きた悲哀の胃袋を抱へて、浜にも出ず宿の二階で、悪魔につかれた男となつて寝ころんでゐるだけの事だ。「彼を何がさうさせたか?」――「私の知つたことぢやない」とあなたは言ふがいゝ。
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この後に「何か書き出しかけてやけにペンを投げ出したらしく、二三本ぎざぎざにペンが二つに分れるほど、たゞ線が縦横に引き交わされてある、乱暴な手紙だつた」わけです。
それで澪子さん、この「いさゝか狂人めいた、荒削りの生々しい」手紙にこう思ってしまうんですね。
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澪子は、その中に、男の――情人とやゞちがつた芸術家肌の男の熱情の、近代的の苛々しい表現に酔ひ咽ぶ観じを強く受けた。初めて自分の前に現れた一人の異性の荒ひ息づかひと、燃ゆる野性的な眼を胸に観じた。そして異性が自分に差し伸べた、たくましい両腕に、犇と心臓をつかまれた思ひだつた。そして澪子の身内の「女」を、今一度にこの賢二に引き出されてしまつたかのやうに――
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で、翌々日、さくさくと澪子さん、彼のもとへ出かけて行ってしまう訳ですよ。
「当然の結果として、彼等二人の恋愛が急速度にテンポを早めて行つた」訳です。
こんな大胆さにも拘わらず、新学期からは澪子さんは「聰明につゝましく」「二人が恋愛の道程の結果として結婚の形に入るまでは、自分達の境遇上、みだりに人の口の端にのぼることがどんなに不利益で恥さらしか」と思ってたので、隠しまくる訳です。
そんで11月、宿直の時に、賢二が学校を辞職した上で結婚、賢二は挿絵や口絵を描いて、澪子も働いて助ける――という話をする訳で。
12月には賢二は退職してしまう。次の新学期辺りに結婚、という約束もする、と。
けどさすがにそーなるとおにーちゃん、心配ですよ。異母妹ですが、ほとんど親の気分です。で、品定めに出るんだけど、今一つ心配そう。澪子さんは「それでも」とほのかに説得して兄も「まあいいか」的。
その上での冒頭の文章どす。出会って一年での結婚です。
ところが一度結婚してしまうと、賢二は変わります。少なくとも、澪子さんの視界では。
まず、最初のデートで友達への贈り物を選んだこと。それを覚えてません。その友達に結婚を知らせたい、と言うと。
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>「ぢやあ手紙にすればいゝよ。何なら俺が一寸描いた絵葉書にしてやらうか――」
彼はかう言った。結婚前の恋愛中(をかしい言葉ながら)は(僕)とお上品に言つてゐた彼が、結婚後いきなり習慣的らしい(俺)に変化させてしまつたのと、そして澪子への言葉使ひが、ひどく粗末に下落したのはをかしかつた。良人らしく気をゆるめたのかもしれないが、言葉使ひはともかく、(俺)だけはそのうち願下げにしなければ――澪子はそう思つた。男が妻にも女性にも向つて、(俺)といふのは、澪子の趣味のデリケートが少しいやだつたから――
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なかなかよく判らない引っかかり所です。
で、祝い品をまきあげてやらなくちゃ、という彼に。
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> かう言つて笑う賢二の言葉は、聞きやうでは、やゝ下司に思へるが――でも彼の生立ちが無智な階級の貧しい農家だし、良い家庭に親の正しい愛も受けず投げ出されて、一人で生きる途を拓いた彼が、時々粗野な冗談を口にするのも仕方がないと――澪子はそう思つてゐた。それもまたやがて直つて貰へることだらうし――それに男が、そんなことほ妻に言つて笑ふのも、別に悪いことでもなし……と。
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はい少し何かお互いにめくれてきましたね。澪子さん自身の上から目線も出てきました。
それからというもの、遠い女学校に勤務する澪子さんにも関わらず、賢二は何もしません。そんでまた澪子さん自身、家事も自分できちんきちんとしなくては気が済みません。「自分一人のゆつたりとした時間といふものは、少しも持つことがゆるされなかつた」訳です。で、「ちょっとは自分で動いてほしい」的な要求をするとひがむんですね。
で、お友達からお祝いが来るんですよ。銀の紅茶器セット。澪子さんは相応しい家庭にしたい、と思い、賢二は「高く売れる」と言うと。
はいもうここの処に違いが。
家計にしても、澪子さんの稼ぎだけなのに、時々賢二の画家仲間が押し掛けてくて、ある程度もてなさなくちゃならない。しかもその仲間達が酒宴の席で話題にするのは「女」のこと。
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> それも正当に女性観といふものを語るのでなく――学窓から教職の生活を純潔に経てきた澪子の耳には初めて驚きと火の出るやうな羞恥に打たれる、淫な女性の肉体上の話に興じ合ふのだつた。
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なので澪子さん言います。
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>「ね、あなた、お客様がいらつしやることは少しもいやだと申上げるんぢやないですの。だけど、あんな会話は、一切この家の中ではおよしになつてくださらない――私達の家の中は、もつと真面目に綺麗な空気にしませうよ――お願いですから――」
「馬鹿言へよ――駄目だよ。女が三人よれば姦しいんだし、男が三人よれば、猥談が生じるのは当り前だよ。男性つて上下おしなべて皆さう出来てゐるんだ――」
「まあ……ほんたう――」
澪子は、良人の証明して見せる「男性」の本能に呆れた。もしそれが真実ならば救はれぬは女性だと――
「でもそれに打ち克てばいゝでせう。主人のあなたが断然紳士らしく上品になされば、お客様だつてつゝしみますわ……」
「いけないよ、女だつて集まれば、すぐ着物や化粧の話におしやべり仕合ふやうなものさ――」
「いゝえ――近代の進んだ女性は、もうそんなおしやべりから離れてゐますわ。男の方だつて進んだ知識的な方はきつとさうでせう――」
「俺達は教会の牧師ぢやないからね。何に牧師だつて、当にはならんよ、たぶんハッゝゝゝゝ」
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ということで無論聞いちゃくれません。まあ当然でしょう。求めるものがそもそも違ってます。
つか澪子さん、結婚前で既に気付いているべきでしたよ。一応「恋愛結婚」だった訳ですから。まあ気を惹くために「僕」でお上品に喋っていた賢二が悪いっちゃーそうなんですが。
で、さすがに家計が……となった時、ようやく挿絵描きするんですが、画稿料はすぐに交遊費に変わる、と。
さすがに澪子さんにも「恐ろしい考へ」が浮かび始めます。
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> ――良人は自分に精神的に裏づけられた愛を持つてゐたのかしら? もしや……もしかしたら、肉体的にのみ彼の男性の本能で愛されてゐたに過ぎない自分ではなかつたらうか――
(……)
あゝ決してそんな愛だけであつてはならない。もしさうだと仮にしても、結婚生活の努力で、それを精神的に高めるまで私は生命を賭けよう!
生涯にたゞ一度! たゞ一人! 運命が与えしその人よ! と思へばこそ彼女は彼を選んだのだつた。たとへ――青春の熱情がもたらした、自然のあやまちでよしそれがあらうとも!
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いやもうその時点でアナタ。そこまで深い記述はなかったやうな。澪子さん自身もあまり深く考えてなかったような。つか押し切られてるじゃないですか。
前提が何というか。
選んだ自分が間違っていたということをてこでも認めたくないというか。
でもどうしようもないのは、この時彼女が妊娠していたからですね。六月に発覚。早いなあ。
ところが「また子供か」という言葉がぽろっとこぼれてしまうんですね。
で、夏休みにまた千葉の海岸に賢二が出かけた時、彼が結婚前に作ってた子のことを知ってしまうんですね。澪子さんは訪ねてきた女の父親に話を聞いてこう思う訳です。
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> 教養身分の差こそあれ自分と同じやうに嘗ては賢二を女心の一筋に思慕した同性のその受難――を今ありありとその娘の父親の口から聞かされようとは――あゝ!
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で、養育費の送金が途絶えてた、ということで澪子さん、その老人に渡す訳ですね。大感謝されます。
ちなみに賢二が夏に描いた絵は、二科展でしっかり落選します。はい。
そんで出産が近づいた頃に、その「かつて」のことを賢二にそろそろと話すと「結婚前のことは関係ない」と怒ります。
さて澪子さん出産しますが、この子を兄夫婦が当初っから可愛がるんですね。そこで澪子さんの口から、例の「母性愛」発言出ます。
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>「自分の生んだ子だけ、むやみと動物的本能で猫可愛がりに愛すのなんて当り前で、別にほめ立てる事はないんですわ。自分の子だけ愛す意味の母性愛なら、利己主義な狭い愛ねえ――私もさうした利己主義の愛情だけで子供に溺れたくないわ――」
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とても望んで出産したばかりの女の言葉じゃーないです(笑)。
ちなみに内心。
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> ――まあ、この赤い風船玉のやうな、ぶよぶよした小さい小さい顔、柔らかく烟つてゐるやうな髪の毛、そして小さく息して――まだ何もかも抱く母をさへ意識しない、混沌とした生に芽生えたばかりの小さい生命を宿して、昼も夜も乳を飲む以外は眠り続けてゐる――この小さい者が私の子供なんだわ――私を生涯母と呼んで、この私から母としての愛情を引き出し、母としての悩みを与えたり、母としての喜びをくれたりする筈の子供なんだわ――
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喜びが最後ですか、というのはツッコミすぎでしょうか。
いや一応望んで生んだ子にしては、手放しで可愛い可愛いという感情が生まれないものかと思うんですが、まあ前述のように「溺れたくない」と思っているひとですからねえ。
で、この子供は働きにいく間、兄夫婦のところへ預けます。会えるのは週末、土曜の午後から日曜の夕方までだけです。
で、生後百日過ぎた辺りで、種痘を受けさせたんですが。
その帰り道、金魚を買って帰る時、その水がちょっとこぼれて、子供の着物の裾を濡らしてしまったんですね。
ここで「裾」が問題になるんですが、というのも、種痘を股にしてやってくれ、と澪子さん頼むんですよ。大きくなって洋装した時、女の子に痕が残っているのは……と。欧米ではそうだし、と。
さてそれが原因かどうか判らないですが、原因不明の病気になってしまうんですね。慌てて兄にタクシーで呼ばれる澪子さん。兄夫婦はもう実に献身的で。まあそうですよ。実の母よりずっと長い時間、乳呑み児の毎日の世話をしてくれていた夫婦ですよ。理屈こねくり回す澪子さんと違って、こっちの夫婦は実に純粋。特に嫂さんは素晴らしく。
種痘後に「一種の連鎖状球菌が……」「稀に」って話になって、もしや自分の不始末で……と澪子さん医者に聞くんですが、そこでは医者も打ち消します。ですが、「そういう書き方」をしている以上、まあまず澪子さんのその不始末の結果ではないかなーと思います。はい。腕にやっていれば、濡れずに済んだ訳ですし。
で、闘病中、賢二はさっぱりやってきません。そして病状芳しくなく、とうとう子供は亡くなってしまいます。
で、その直後賢二がやってくる訳です。おにーさんさすがにぶるぶる震えながら怒ります。当然でしょう。
もういい加減そこで賢二を見限ってしまえばいいものの、澪子さんまだ子供の葬儀のあと、こんなこと言います。
毎日のように見舞いに来る嫂は「澪子よりも愚痴っぽく涙を新たにする」んですが。
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>「お嫂さん――私もうこの悲しみから卒業してしまひたいのよ。いくら嘆いたつて仕方がない悲しさに、いつまでも自分を甘やかしてゐるのはやつぱり悪いことですわ。そして果ては子供一人の死のために、生活を何もかも滅茶苦茶に崩してしまふのは、恐ろしい愚かなことですもの――みどりの死をたゞ悲しみでだけ受け取らずに、私あの子は私達夫婦の貴い人柱になつてくれたのだと思つて、もう一度力を出して、賢二と二人の生活を順調に固く結びつけて行くつもりですね――それがあの子の私に与えてくれた教訓でしたわ……」
(……)子を失つた悲しみの淵から、彼女は雄々しくもう一度立ち上つて、人生へ、生活へ、更に強く進まうとした。それより以外に亡き子の死を永遠に記念し、その死を貴く両親の胸に生かす道は無いと信じたから。そして彼女の教養と理性が杖となつて、彼女を助け起こしてもくれた。
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いや絶対嫂さんくらい泣いてくれた方が「らしい」ですよ。マジ。
で、澪子さん、子供のものの片付けものします。と、かつて自分達の結婚祝いに、とくれた銀の紅茶器が無いです。
賢二に問いただすと「売ってしまった」とのこと。
そこで思うんです、とうとう。
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>「あゝ、こんな生活! 私、私、不二子さんにはづかしい!」
(……)
「ミドちゃん、こんな可哀想な母さんを、どうして一人ぼつちにして逝つちまつたの?」
と、わつと咽び泣いた。
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ポイントはそこかい、です。はい。
子供の死に際に来なかったことではなく、「友人からの贈り物を勝手に売られた」からですか。
うん、本当にこの澪子さんには本質を見抜く目がないです。