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第30話 海の極みまで①/おとーさん! そして鮮やかなヒロイン

>​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 知事の美濃部庸が其日ことに早くレコードを破つて知事室の扉を閉めて、いちはやく県庁の玄関先へ出たのには、理由があつた。

 庸は長州藩の城下の出身である。美濃部の家は毛利藩の貧しい足軽に過ぎなかつた。けれども息子の庸は幼い頃から才智が人に優れて居た。そしてその美貌は又鳶が鷹を生んだやうに人に噂された、萩の学塾明倫館に年若くて通ふ頃は、第一位の美少年として堂塾の不良青年達に追ひ回されてゐた。

 その不良青年の名かに、鳴尾大次郎とふ荒くれ者が居た。深くも庸の美貌を愛した。彼は他の競争に大して、彼の唯一の武器の腕力を以て対抗した。

 鷲につかまれた小雀の庸は、かくて逃れる術もなかつた。

(……)

 その鳴尾少将が、今日東北へ軍務を帯びてのたびの帰りを、この地へも立寄るのである。

 さればこそ、嘗て、そのかみの日の紅顔の美少年の稚児さん、今は良二千石の美濃部庸は鳴尾少将を迎へようとして、急いでその日県庁を出たのである。

 籐の洋杖によ象牙の犬の首を握つて振りながら紺無地のセルのモーニング三つ揃つたのを、品好く背高い身体に着こなしてキツトの編上靴を軽く鳴らして今し県庁の門を出る美濃部庸の姿は、まことに立派な紳士のスタイルである。昔を忍ばしむる美しい顔、眉が濃くて秀でゝしかも女の如く優しみを帯びてゐる眼元は歌舞伎俳優の女形にも見られないやうな潤ひのある、憎らしいほど美しい、といふよりは、むしろ、仇つぽいといふ綺麗な眼差しである。すつきりと通つた鼻梁、ひき締まつてふつくりとした紅い唇、その上にやゝ薄い短い髭、それが玉に疵さと濃い有髯の理事官達が陰口を利くけれど、それは男性も有する嫉妬の余憤に過ぎないので、その薄い仄な夢見るやうなもの柔か口髭がまたなくその面の美しさに気品を添へてもゐるのである。とまれ知事美濃部庸は麗しい容姿として県内に名を響かせた、(……)



 ……ちなみにこれは主人公兄妹の父親の描写どす(笑)。

 あ く ま で お父さんです。

 そんでもってこの県知事さんは収賄の罪で捕まって物語の真ん中辺りで自殺します。

 ……正直美貌と何の関係もなさげです。


 まあこういう美貌のおとーさまが居たからこそ、ヒロイン満智子まちこさんの美貌が冴えるんですがね。


 という訳で「海の極みまで」なんですが。

 これはデビュー作「地の果まで」の次に朝日新聞で連載した小説です。

 ただしこの後、吉屋信子が朝日新聞に書くのは「徳川」まで無いんですが。


 おはなしはこの美濃部みのべさんちの兄妹と書生、鳴尾なるおさんちの娘、美濃部夫人の初恋の人の娘である鳴尾さんちの家庭教師の青春群像が基本。


 で、一番印象的! とまず思われるだろうヒロインA満智子さん。

 ただ男を見る目が無く、柿島っーまあ外面のいい男が好き。でもって関係持って妊娠! しちまう。

 んで、父親失脚の後捨てられて子供を堕胎。

 この「堕胎」が朝日にその後載らなかったんじゃないかー、という論文もありやしたな。当時は堕胎は犯罪でしたから。優生保護みたいのもなかったし。

 ところでこのひと、失脚して官舎を出て小さなおうちに引っ越す際、グランドビアノを斧でぶちこわすんですな。いやそこは売って足しにしろよ、と思うのはワシが凡人だからか(笑)。でもまあスカっとはしますわな。

 その満智子さんを好きだったのが書生のもり。医者志望。で、堕胎の片棒かつがされて、満智子さんに失望。毒婦とか何とかつぶやいてますよ。


 ちなみに満智子さんは母方の叔父の紹介の金持ちユダヤ商人と(たぶん)期間限定現地妻契約をして、皆の前から消息を絶ちまして、北海道へ。

 そこで商人と離れて(これはただ単に居なかったのか、完全に切れたのかは不明)与えられた邸と牧場を自分で経営していくんですな。この辺り楽しい。

 ここでアイヌの少女が出てくるのが、戦後まず出されなかった理由かなー。


 ワタシがこのとき見ているのは新潮社の「円本」ですが(これが「地の果まで」も一緒に入っていて、結構古書で流通していて安いのでありがたい。ちなみにワタシは800円で買った)、戦前はこの後『吉屋信子全集』にも入っているんですね。だけど戦後はほんっとうに近年になって、しかも学術系の書店からしか出てない。やっぱりそりゃアイヌのことがあるかなー。ほら、書き方が当時の「いかにも」だし。(ただ吉屋信子は北海道に大正年間一時期暮らしてもいたから見てもいたんだとは思う。でもお嬢さんだからなあ…… 噂に聞いた範囲かもしれないし、噂だったらそういう噂が普通だったということだし)

 ともかくこのアイヌの野性味あふれる少女は、かなり印象的ざんす。……頭悪そうだけど…… 頭悪そうに書かれているから「戦後は」やばいんだろーなー。


 で、しばらく故郷に音沙汰しなかった満智子さんも、だんだん故郷の人々とお手紙交わしてったのだけど、柿島が鳴尾の娘、靖子やすこさんと結婚していることを知るんですな。

 で、兄とか色々な人々呼び出しまして。

 そこで満智子さんは柿島を殺して自分も死のうと…… というか、並べた杯に入れた毒(アイヌ由来!)を飲んだ後に、同じ毒を柿島に「呑め」と迫って、逃げられると今度はアイヌ少女が竹槍もって追って行き……となり。

 最終的にはアイヌ少女は間違って竹槍突き刺してしまった牛に突き飛ばされ、満智子さんは角で刺されて死ぬんですな。……かなしひ。

 ただこの時の満智子さんの台詞は好きだわ。



>「……兄さん、……泣いちやいや、誰も泣かないで……私はしたいことをして生きてきました……もう生きるのにも飽きました……」



 ちなみに出奔する時の置き手紙もふるってる。



>私は「自由」を戴きます。

 同時にすべての「責任」を一生持つて終ります。



 満智子さんの話は、一本筋が通っていて読みやすく、いいよなーと思う訳です。

 北海道でまあ、牧場経営も自分でやりだしたら色々調べたり、とかそういうとこはいいよなー。

 菊池寛の「真珠夫人」が「瑠璃子るりこ」っていう「外面的に煌々しい」名前であるのに対し、このひとが「智が満ちている子」っていうのが実に吉屋信子らしいっていうか。

 だけど「だからこそ」死なないといけないキャラって感じでしたなあ。

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