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第26話 「純潔の意義に就きて」/処女童貞崇拝っ!

 まあとりあへずこれを。



>純潔といふものは第一義に於て永遠に大空に輝く星の如く人類の上に存在する世にも美しいものである、(……/永遠の処女として聖母マリアと天照大神を例にとる)この純潔無垢なる永遠の童貞に対しての憧憬と崇拝は何に起因するであらうか、これこそ人類の持つ官能の性的欲求から逃れ得ぬ羞恥感でなければならぬ、鳥や獣の与へられしままの無邪気な無心な自然の立法の振舞と異なつて、人類のそれはもつと複雑に邪悪に変態的にゆがめ来らせられてゐるのではなからうか――男性の持つ暴慢な征服感、弱き者へ無抵抗者へ思ふがままの暴王たり得る快感、一人の人間を所有し得る満足――等、等、これらは男性の露な心理を描いた彼等自らの手になりし小説、感想からうかがひ知つた一端である、然して女性にとつては、それの本源は素直にも優しい自己放棄と奉仕と愛撫への順応であるとは云へ、悲しむべき事に、そこに約束された官能の陶酔への意識に裏づけられた変態的な被支配の歓喜――言ひ代へれば自己侮辱――等々(……/これらの知識は外国の婦人の著書から得たものと釈明)がないとは言へないと言ふ――さればこそ、人間は此の一時的瞬間的にも自らの人格を下劣にしたりの、卑しく引摺りおろしたり、純粋な愛情をさへ傷けよごす憂ひのあるかへり見て恥多き暗き苛責感は、いかにもしてかかる恥をもたらす本能からの暴力から完全に抜け出て、その力に勝ちぬいた「永遠の純潔」を夢見、それに達し度く乞ひ願ふ気持が、かかる低き官能の世界から離れて遠く男性の手の一指もふれ得ざりし高く清らかに存在する一個の「純潔」の女性の観念を人格化し、それに優しく美しき女神の名を冠らせて、そを母胎として生まれ出でし力を神として人の子の救主として崇める心理は泪ぐましき人類の祖先達が不断の真善美への渇望であつたと信じる、



 長いです。すみません。の避妊ネタ転じて処女ネタ。

 けどな~ 切るの難しいんだよ、吉屋信子の初期の「小説じゃない」文章って……

「。」が無くって「、」でひたすら続けられる文章ってのは、……まあ、古典文学みたいな感覚でずらずらずらと読めばいいのですが…… 頼む、改行を…… 改行を……


 出典は個人誌『黒薔薇くろそうび』第一号。

 これは一応「パンフレット」としてある。……のだが、大きさが同人誌A5そのもんなんで、マジ今の「個人誌」と変わらんやんけ! とツッコミたくなる。

 んで、個人誌なんだから制約なしに書いてやれ、ってことで、まあ確かに好き勝手書いてます。文章の実験本じゃねえかとも。

 で、上のはその好き勝手の一つ、「純潔の意義に就きて白村氏の論を駁す」という文章。

 ……えーと、これって本能そのもんがあかんーって言ってるんですよね。たぶん。

 このひとの根っこな部分でしょうな。

 そんでつづき。何か感極まってます。



>人類が真善美への完全なる人格完成への道程の一時代に今や生くる私達は、不断の努力を持つて、ここに一つの進化の過程を築き残さねばならぬ。それこそ生れ出し者の生の喜びである、かくて人類がいつの日か達せんとするその人格の完成のあらはれる日こそ、まさしく天は地におろされて、そこには曾つて過ぎし日及びがたきもの、達しがきものとして憧憬のあまり礼拝し膝まづきし「永遠の純潔」をも冠する日が来るのであらう――私はそれを人類の未来へ描く理想の一つとして信じるものである、(そんな日が来たら、人類の子孫は無くて滅亡するぢやないかと現実論者は冷かに嘲けるであらう)おお、然し、かかる美しい聖らかな日のもとに生き得る歓喜! それこそは人類が何億万年を費して血と涙と幾多の屍を踏み越えつつ、執拗なる邪悪本能の支配をついに打ち破つて、聖壇へ到達した勝利の日である、その勝利の栄冠と偉大な道徳的建国の成りし時である、もはや生殖や子孫の繁殖は、それにかかわりなき事である、其処に達しがたかりし偉大なる道徳的勝利を得て、そのまま人類は滅亡するともなほ其処に残された人類の足跡の美しさは永遠に滅びぬ不朽の力である意志である――私はかく信じる――



 つまりまあ、処女もしくは童貞は至上! ということでしょうか。何せ人類は滅亡するとも構わないと言ってますし。

 なおこの文章、読者から『黒薔薇』最終である8号で無茶苦茶叩かれてます。

 まず千葉県の押尾憲治さん。



> 「吉屋党」としては可成古いもんだ、と自分で思つてゐます。(……)

 一号、二号と拝見していくうちに、私は男性である事が面映ゆくなつて来ました。「異性が読んではいけんのかしら?」と思ふやうになつて来ました。それは、常に吉屋さんの男性を痛罵し、異性を嘲笑し、男子を呪詛する悲しい叫び(敢えて「悲しい」と云ひます)が、「黒薔薇」紙上に厳然と暴君の如く(敢えて「暴君」と云ひます)威張つて異るからであります。

 貴女のアブノーマルなお心持(失礼)から「同性愛」を高唱し、普通の恋愛――殊に結婚を呪詛するのは、そのひとの持つて生れた個性だから仕方がありませんけれど、男性とあれば遠慮会釈もなく痛罵なさるのはあんまりだと思ひます。社会が「男」と「女」で成立してゐる以上、もう少し寛大なお心持であつて欲しいと思ひます。女性におエラい方があるように、男性にだつて高潔な人格者がいないとは云へますまい。と、同時に、男性に貴女の罵しるような人間が存在するように、女性にも所謂悪魔がいないとも限りません。(……)貴女があんまり男性を罵しると、私の心の中の意地悪な悪魔が「フン、妬いてやがらア(失礼)」と冷笑したがります。そして、大きな声で「人間の心が一字の制裁なんかでなほつてたまるもんか」つて叫びたがります。殊に、一号の「純潔の意義に就きて白村氏の恋愛観を駁す」を読んでそう感じました。

 思つて見て下さい。此の世に善があるように悪があり、純潔があるように不純潔があるのを。そして、その悪は、いくら祈つたつて、泣いたつて、怒つたつて、決してなほるもんぢやないつて云ふことを。恐らく人間と云ふ始末に悪い動物の滅亡せざる限り……(……)貴女の「永遠の純潔」が此世を全く支配する時が来るとすれば、それは貴女もおつしやつたように「人類滅亡」の時でなければなりません。

 そこで私は声を大にして叫びます。

 ――永遠の純潔に生きんとせば、速やかに自殺せよ――と……。

(……)どうぞ「黒薔薇」により美しい華を咲かせん為にその偏狭なお心持(敢えて「偏狭」と云ひます)をお捨てなすつて下さいまし。(……)



そんで埼玉県の安田利一郎さん。



(……)白村氏の、あんな投機的な恋愛観なんか私もみてはゐない。が信子氏の所説にも、アブノーマルな、エクセントリシテイな点がありはしないか。「処女たる母」は原始人の美しい夢である。単なる思慕や、愛敬に過ぎない。あり得ない事だからだ。純潔たることには、第一義も第二義もない。確固たる主観があるのみだ。正しい意味に於ける両性の結合は、決して遊戯ではない。童貞を破ることを、感能的慾求の享楽であるとするあなたの前にも、性別は厳存する。(……)自然へ反逆せんとするあなたの思想の、奥底に横はる不覇の魂が、被支配者てふ、自然の屈辱的観念の上に立つ形而上的思念を意味するものであるならば、そはあまりにも傷々しいイリユージオンである。(……)



千代さんも言います。(吉武輝子著の伝記『女人吉屋信子』内)



>「信子さんは、女の人を身心共に処女のままにおいておきたいと願っているものだから、小説のなかでも、男の人とかかわらせまいとしている。でもそれでは、いつまでたっても大人の心をつかむ小説は書けないわ。公私混同は小説家として御法度よ」



 まあそれで、その後一応「男女恋愛」みたいなメロドラマを書く様になるんですが…… あ~

 男女恋愛「みたい」な。

 まあそれはいずれ。

 なお、この文章とその中味に関しては、吉屋信子は撤回しなかったようです。

 何せ、売れてからの昭和11年に発行された『令女読本全集1処女読本』(健文社)では「白村氏の論を駁す」というタイトルに縮めて、まんま出しておりますから。

 んでもって、昭和32年にも。

 「動物」という文章が『白いハンカチ』というエッセイ集に入ってるんですが。

戦中、鎌倉に移った時に鶏を飼った部分で。



>初め雛を五羽買つてみたら、皆雄ばかりだつたことがある。今はそれにこりて、四羽、みんな雌ばかり飼つている。いかも、彼女たちは処女のままに卵をうむ、人間よりりこうである、ただこまつたことに時折、産児制限にかぶれてかあるいはゼネストか、卵を四羽とも、長い間うまないことがある。



 さりげないんですか、何かこういうちょっとしたところに、見え隠れするんですよ。はい。

 できればこのひとは人間も処女のまま子供を生んで欲しいんじゃないかと。

 いやその後お産の話で何とやら、だから、……いっそアレか。SF小説で描かれる人工子宮みたいなものが欲しいんじゃないか? と思ったり。​​​​

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