吉屋信子の現代ものの最後の作品。
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(……)一昨年の夏、軽井沢滞在中にわたくしはふいっと(紀子)が心に乗り移った。そしてやがてこの女性にとり憑かれてしまった。
わたくしは去年の秋、A新聞で(わが小説)という題目のもとに、感想を求められた時に、そのなかの一節にこう書いたことがある。
――私というやつは、どうも作中の女主人公にじぶんからあこがれてとりのぼせぬと作品はうまく書けない。われを忘れてのぼせ上がるような生きた現世の女性にまのあたりに接し得たらそこから一つのイメージが浮かび長篇の発想を握りおのずと一編の構成も筋も傍系の人物もわいて来る。そのせいか、あまりに女主人公を美しくごりっぱに九天の高きに持ち上げ過ぎると忠告もされ、このごろ、自分でも気づいて目下大いに反省中である――
これはちょうどその当時、まだ題未定のまま(紀子のノート)をつくりつつあった心境そのままをしるしたのだった。
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「女の年輪」は、吉屋信子の最後の現代物長篇です。読売の夕刊に連載されたもの。今回の引用は中央公論社から出た単行本から。
……それまでわりと「しみったれた」感じの話が続いた中で、これでもかとばかりにヒロインを持ち上げて、現代物のフィナーレ! という小説です。
まあいろいろ思うことはあるんですが、「あー好きな世界を無理せず書いてるよなあ」という感じはしました。
というのも。
吉屋信子という作家は、ともかく「貴種流離譚ではない」貧乏とか、「普通の家庭」とか、「普通の夫婦生活」を描写すると、何ーっとも言えなく「?」という気分にさせてくれるのですわ。
つまり、現代のリアリティを追求した地味な作品を書こうとすると、何かずっこけるというか。
これは後で書きたいんだけど、ともかく「お食事シーンがまずそう」でして。ワタシは以前「妻の部屋」だったか「くさのつゆ」で、「中華そば」を食べている時の描写ほどまずそうなものは無いと思いましたよ……
少し前に書いた「風のうちそと」では、「食堂車で偶然を装い商談を持ちかけてくるかつての愛人」の図というのがあるんですが、そこで扱われる商品が「女性向け養毛剤」…… 「髪」を連想させるものとお食事は、相性悪いんじゃないですかねえ。
でもまあ商談の最中、かつての愛人の存在に「ものを食べている気がしない」ような男の姿を描きだすつもりだとしたら、効果だったんですかね。
その一方で、ヒロインはともかく「食欲が無い」ひとばかりです。
この話の紀子さん。
まず初登場、こういう描写されてます。
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(……)「あら高いのね」
さばっと言って微笑むと売子は笑い出した。
黒にこまかな地紋のカクテルスーツ、防止も靴もハンドバッグも一色のアンサンブルに真珠のネックレースとすらりとしした背をすべるストールの
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このヒロインが
そんで「元男爵夫人」です。
遺産と、ファッション・ブックのスタイル画を書いて暮らしております。
彼女がものをまともに食べる描写は、「マロン・グラッセをつまむ」ところだけです。「花びら餅」より「マロン・グラッセ」というのがミソです。
このひとに三人の男が惚れ込んで、その中の一人と再婚するんですが。
一人は年下の建築士。
次にそのいとこで義理の妹の見合い相手。
そして結婚したのは、背中にもんもんのある実業家です。
この実業家と結婚することとなるんですが、その時点では建築士と恋してる状態で。
ただこの建築士が、知恵遅れの(「子供」として人形与えられて平気なレベル)妻を持っていて、しかもその血筋を残さないために自ら
実業家も元々は「ただ見ているだけでいい、援助させてくれ」なんてことを言っている。何というか、キャラ設定が実にちぐはぐなんですね。
まあ紀子さんマンセーな話で、なおかつ吉屋信子にとって「許容できる」男なんですから矛盾は仕方ないんですが。
だからまあ、そういう状態なので、初夜もこんな風に書かれてしまう訳です。
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(……)……男の匂いが紀子の四肢に乳房に浸みるのを覚えると、閉じた瞼の裏に滋のまぼろしが浮んだ。あのアパートの一室で彼があえぐように迫った時離して! 離して……と逃れたのは、彼よりもじぶんの内部に起きるものを恐れてだった……
紀子の儚い恋の見果てぬ夢に残る滋の幻が、いま竜吉を通じて彼女の繊細な情感溢るる女体にほしいままに君臨する……。
この女体の幻術を知り得ぬ竜吉は背の唐獅子と共に牡丹に酔うて舞い狂う……彼はこの恋妻を男のいのちにかけて幸福に守りたいと切に思った。
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えー……ちなみに、「徳川」でも、お万の方に同じ様な「別の人を考えて抱かれる」という描写があります。
森鴎外の「雁」から一歩も出ていない、という感じですが。それでも吉屋信子の現代ものでは唯一の! 濡れ場描写なのです。はい。ちなみに時代物でもお万の方のそれしかないです。少なくともワタシの知る限りホントに!
で、吉屋信子はこの紀子さんの描写でクライマックスにもってくのに一生懸命すぎて、新聞連載では、何と建築士とその妻の話を放ったままにして終わらせてしまいました。
たふんそのことが以下のあとがきの文章ですな。
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(……)さて、ノート、ノートとしきりと言いながら、じつはそのノートのなかのわずかな一小部分ながらうかつにも書き落としていたのである。これは近く単行本のさい書き入れる――それほどこの作品を作者はさまざまの意味で愛着している。してみるといちばん熱心な読者は作者自身だったのかしら? おはずかしい次第である。
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その通り、出版に際し手を入れました。
建築士の滋くんは結婚後の紀子さんと再会した辺りで、奥さんに実家に帰られてます。
無論このひとは一人では無理ですから、ばあやさんつきで。
この奥さんが連載中は戻ってきたのはどうか判らないままだし、滋くんも紀子さんとの本格的なお別れの後、放り出されてるんですよ。
で、単行本ではその辺りに決着をつけて、また滋くんは以前の生活に戻り、だけどほんの少し妻が妻らしくなった「かも」しれない、という描写が付け加わってるんですね。
それ結構ストーリー的には重要なとこだと思うんですが、それを全く放り出して、紀子さん紀子さんだった作者は、まあやっぱり紀子萌えの一心だっだんだろーなーと思う訳です。
何かしら現実の女性を見て、~という書き方はキャラ先行型とも言えるかも。で、その現実の女性の二次創作をしている、のかもしれない(笑)。
そこに吉屋信子と現代の腐女子との何かしらの接点を見てしまうんですわ。