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第24話 くさのつゆ/これほど不味そうにヒロインがラーメンを食う描写は見たことがなかった 食欲の無くなる話②

 ワタシはごはんがおいしそうな話が好きなんですよ……

 だからね……


***


(……)そこへラーメンなるものが運ばれて来た。

 大きな丼――汁がだぶだぶ入つている。内側は白いが外には何か赤いざつな繪が描いてある平たい鉢の中の一見豊富そうなつゆの中に、太めの白木綿の糸のような麺が半ば沈んでいる、その上に斜かいに切つた白い葱が二三片とグリンピースが五六粒載っている。



 「くさのつゆ」は昭和27年から28年にかけて『婦人朝日』に連載された作品です。

 戦前に良家で育った若妻圭子さんが社宅暮らしの中で、色々葛藤する話。

 ……としか言いようが無いのですが。

 とりあえずこの話は、ワタシにとっては「これでもかとばかりにラーメンが不味そうに描写された話」なんですわ。

 ちなみにこの時、唯一の社宅友人、環さんと一緒なのですが、彼女は普通に食べてます。

 で、まずこの店の描写。



(……)――中華料理と、白い金巾ののれんに、豚の血を思わせるような赤い字で書いてあり、その白地ののれんの裾の方は汚れている。(……)

 二人のついた卓の眞中には筆立のような瀬戸の筒に割箸が差し込んである。その傍らの粗末な陶器の灰皿の中に、どす黒く、濡れた吸殻が溜つているところをみると、晝時、恐らく労働者――その人達の弁当代りの食事の混雑の引けたあとなのであろう、ソースのしみがある献立表がその灰皿を文鎮代りにして置いてあつたが、(……)

 その羅麺なるものの来る間、普通の煎茶茶碗にお茶が二つ運ばれて来た。お茶というよりはうす黄ろいぬるまつこい液体だつた。環はそれでも喉が渇いていたのであろうか、幾口かに飲み込んでいたが、圭子は手に取り上げて口許まで持つて行つたまゝで、また卓の上に下した。

 それは彼女の喉が渇いていなかつたのではない、やはりさつきから、熱いドライヤーに何度も入つて、水気は欲しかつたのだが、いま手に取り上げた茶碗を口許に持つて行こうとして眼を伏せた時、その茶碗の縁にうつすらと、薄赤い痕があつた。それは誰かの口紅の痕なのだ……。軽い戦慄が圭子を揺るようだつた。



 時代が時代です。まだ昭和20年代半ばです。大衆食堂です。

 この圭子さんはそういう「場」に馴染めません。お嬢様ですから。

 それでもまあ、



(……)(何ごとも勇気!)これからの生活に飛び込むための修業、己に打ち克たねばならぬ、



 とまあ悲壮なまでの決意でラーメンに挑む訳ですが。

 環さんは茶碗の湯で箸をすすいでから食べるんですが、「感覚的にかえつて不潔」と圭子さんはしません。



(……)いきなり眼を瞑るようにして丼の中に突込むと、その太目の木綿糸を掬い上げた。

 その味がいゝか悪いか圭子にはわからなかつた。ともかくその丼の中のものを征服し、残つた汁は一滴あまさず呑み干してみせる、彼女は猛然と奮い立った、羅麺の丼に挑戦するかのように。

 これを平げることこそ、生きる意志をもう一度振い立たせることなのだ、こんな風にさえ圭子は仰山に考えた。



 そんな風に圭子さんが食べてるうちに、環さんは話しながらもどんどん食べてって、「丼の中の支那蕎麦はあらかた無くなつていた」んですが、圭子さんのは「まだ半ば」残ってます。

 結局圭子さんはダウンします。



(……)到底この丼の中のものは圭子にとつて征服しかねる強敵だつた、それ以上は胸元がつかえて来たのである。



 さてこの圭子さん、社宅(共同炊事場や洗濯場のあるアパートって感じ)で、環さん以外の奥さん達にも出会うんですが、うわさ話を「卑俗」とする圭子さん(を借りた作者の評価)からすると、無意識に見下しております。

 田舎で無気力に過ごしてる弟も、「お坊ちゃん」ですので、こんなこと言います。



(……)「何かよく御飯のお菜をくれるんだけど、不潔なんでね、食べる気がしないんだよ……この間はね、イナゴを煎つて煮たのをくれたんだよ、カルシュームがあつて病気にいゝつて言つてさ」

 と言い、苦笑しながら、また奥へは聞こえぬようにつけ加えた。

「……僕、食べないで鶏にみんなやつちまつた」



 圭子さん、「自分だつたらきつとそれを喜んで食べてみせたろうと思つた」そうです。

 ここは食べて「みせた」と想像するとこがミソでしょう。

 その後ふかし芋(戦争中に比べれば格段に美味しそう)には手を出します。

 ただ、「どう」食べたかの描写はないです。


 ちなみに環さんもさばさばしているだけでなく、こんなこと考えてもいます。



(……)――考えてみると人の世はつきあい辛い。やれ人類愛だの、人間愛だのいうけれどもこうした狭い世界で、鼻つき合わせて暮しているくせに(隣人愛)らしいものさえなかなか難しい。

 ――といつて、階下のあの連中は、いわば、自分たちの良人と雇用関係のある、勢力のある雇主の愛人をとりまいて、ご機嫌をとりながら功利的の交際をしているだけのことだ、なんという卑俗な女同士の交際、おー いやだ!

 醜悪だ――と軽蔑せずにはいられない。

 あの圭子と自分はそんなことを一切抜きにして、お互の女同士の友情をほのあたゝかく持ち合えると思つたのに……



 まあこの二人の場合、環さんの片思い的な友情でしょう。「あなたはいつも御自分のまわりに垣を結つていらしたわね」と、圭子さんのダンナが転勤になる、という時に告げられます。

 正直、圭子さんは環さんに対して、大した執着もなく、「まだ悪くない」程度の感情しかないような。

 郊外に引っ越してから、そちらの社宅の奥さんとは仲良くやっている、「工場で働く工員の主婦たちと一緒になつて、託児所をかねた幼稚園を作ることら夢中になつて」たり、もうじき母になる、という手紙の言葉は今ひとつ、嘘くさく感じるのは何でですかね。


 何というか、この昭和20年代後半~30年代前半の吉屋信子の物語ってのは、実に「しみったれた」感じなものばかりでして。朝日の全集にも 「安宅家の人々」(昭和26年)の次が「女の年輪」(昭和36年)と、ぽーんと外されている期間です。


 で、正直、ワタシ的には面白くないです。ホントに。

 つか、作者楽しんで書いてねえなあ、という感じ満載なんですが。

 果たしてどうだったんですかね。知りたいものだ。​​​​​​​​

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