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第14話 伝記について②

 さてこの伝記にはあと幾つかありまして。


 まず旧姓門馬、パートナーの吉屋千代が没後の朝日新聞社版『全集』第十二巻にまとめた「年譜」。

 これは吉武・田辺両氏の伝記の更にベースともなっている「公式見解」。

 「年譜」というだけあって、本当に年ごとの出来事と「主な」作品を挙げているだけなんだけど、最も近いひとが書き記したという点で重要。だから研究する際にはまずこれが先に立つ。

 だからこれは形としては「伝記」ではないとは思うけど、吉屋の年ごとの動向を知るには最も基本。


 あと吉屋の姪である吉屋えい子氏の『風を見ていたひと』。すぐ上のお兄さんの娘さんだったそうです。

 ちなみにもう一人姪であるひとのエッセイ集もあるけど、そっちには吉屋についての話は無かったざんす。

 で、『風を見ていたひと』はあくまで姪である彼女の視点から吉屋と千代を見た感想記。この「風を見ていた」のが吉屋信子という訳だ。そういう印象深いシーンがある訳ですな。

 で、基本的に前回紹介した二作と千代の「年譜」は、何だかんだ言って千代ベースな視点で貫かれている訳だけど、これは吉屋家側の人々の見た彼女達、というところが面白い。

 えい子氏によると、吉屋家と千代は吉屋信子という大きな存在を挟んで静かな闘いがあったらしいですな。

 あと吉屋自身の書いた兄弟達の姿と、えい子氏にとっての父や伯父叔父の姿との落差が興味深い。

 吉屋にとっての兄弟は、上三人と下一人、全部男なんですが、吉屋にとって信頼できるのは帝大に行き、北海道に住まわせてくれたりし、自分の才能に対し味方してくれた二番目の兄だけなんですな。

 少なくとも著述によると。吉屋視点だと長男は自分のところに金を借りに来る人であり、三番目は母が「あくまで**のお供」という形で買い物につれて行かれたとか、自分にみそ汁をぶつけたことがある人。つまり印象良くなく書いてる。

 そして弟はと言えば、母に一番愛されて、まあそれだけに、なのか割と若いうちにアル中で母親より先に亡くなってる。実際に彼等が吉屋をどう思い、母の扱いをどう考えてきたのかは判らない。あくまで語られるのは吉屋視点の兄弟達。

 ところがえい子氏の記述だと、長男家族も三男である父親もそういう印象は無い。画家を目指していた長男家族はいま一つ判らないが、えい子氏の父は非常に実直なひとに感じられる。

 だけど残念ながら、吉屋の文章だけ見ていると、「妹を邪険に扱った兄ちゃん」でしかなくなってしまう。

 吉屋は果たして意図的だったかどうか判らないけど、少なくとも読者婦女子達はそう信じたのではなかろーか。


 で、その「吉屋自身の記述」。

 これが案外他者の発言と微妙なずれが生じていることがある。


 たとえば「女の友情」に関して小林秀雄が酷評、というより罵倒したことがあったんだけど、それに対し新聞社のパーティの席で吉屋が小林に対し反論をぶつけた、というエピがある。

 さてここで吉屋側からの情報だと、そこで小林は何も言わなかったことになっている。

 だが今日出海は小林の亡くなった時の追悼号において、さらりと言い返したという類のことを書いている。


 また宇野千代も女流文学会関係における発言で、真杉静枝が亡くなった時の吉屋の記憶と「絶対にお骨を置くなんてごめんだ」という類のことを言われたという、自分の記憶が異なっていることを書いている。

 単に記憶違い、ということあるので何とも言えないが、宇野千代がわざわざ書いた辺りは何となく興味深い。


 んで。

 後年になって「短篇」「創作」と銘打って本人のことを使った創作なのか、それとも実際にあったことを述べているエッセイなのか判らない作品がある。戦後暫くしてインドネシアに出向いた吉屋が回顧する知り合い、という形の「贖罪」や、以下に挙げる「歳月」である。

 ちょっくら長目の引用文つけた文章を以前レジュメにつけたんで貼る。


***


 吉屋の掲載誌・紙は多岐に渡るが、この時期の婦人雑誌の中心は『主婦之友』であり、新聞では『報知新聞』が掲載数が多い。

 この『報知新聞』の掲載に関しては、後年吉屋自身が短編「歳月」で以下の様に記している。


(以下引用)

 あの懸賞新聞小説の選者の一人だった自然主義の大家T先生には、当選後に初めて会いに行き、以来、その大家の門下の集まりの組織する会合のメンバーになっていた。外国のながい旅から帰って久しぶりでその会合に出た時に、そこにまだ見知らぬ一人の中年の背広姿の小柄な人がT先生の傍にすわっていた。

「H新聞の学芸部長のS君だよ」

 先生に紹介されて挨拶した後、S氏はひどく苦渋の表情だった。文学少女上がりなどは眼中にないようすだった。学芸部長ともなれば文壇の多く大家たちを知るだけに、またかけ出しの若い作家など眼にも止らぬらしかった。

 その当時は現在の航空機時代とちがって海を渡ってはるばる辿るか、さもなくばシベリア鉄道の長い日数なので、まだ文壇でも外遊者は数少なかったせいか、A新聞を初め幾つかの新聞の学芸欄から海外の見聞記や感想の執筆を求められたが、H新聞の学芸欄からは何も求められなかった。H新聞は横浜に船の着いた時の甲板での写真を社会面に気はずかしくなるほど大きく出していわゆる帰朝談なるものを大きく報じたりしたのに、同じ新聞の学芸欄にはまったく無視されていた。そのH新聞の学芸欄はその頃ひどく女流作家を優遇して、女の作家の十人あまりの随筆を毎日連載していた。その十人のメンバーは明治頃から名を成した老女流作家を初め、中堅、新進総出の顔ぶれだった。けれどもついに最近海外の旅から帰ったばかりの彼女はその選に洩れていた。

 まもなくそのH新聞の長篇連載は女流作家のUさんが執筆すると発表された。


 芝園橋のユニテリアン教会の牧師から中年過ぎて作家に転じたO氏は気軽く自著を持って遊びに来られてよく話し込んで帰るいかにもものわかりのいい小父さんめいたひとだった。

 ある日もひょいと現れるなり言う。

「H新聞の学芸部からあなたがシャット・アウトをされているのは奇妙だと思ったら、その理由がわかった!」

 と大ニュースを持って来たように、頬の赤らんだ童顔の眼をクリクリされた。

 その新聞からつまりシャット・アウトやらをされても、外にも新聞はあり、婦人雑誌や少女小説にもまだ書き続けているので、それほど気にしていなかったが、O氏からそれがたいへんな事のように言われると気になってしまう。

「あすこの部長のS・Mは、あなたがA新聞の長篇小説に当選した時に選外佳作になったひとですよ。だからあなたは眼のかたきにされる……」

 素直にそれを肯定できなかったのは、もしそうとしたら、むしろ選者をこそ怨むべきではないか?T先生はあの時の選者の一人である。S氏はそのT先生の前には叮重な態度をとってその門下の会合にも出ている。奇妙な気もした。

「T先生は男だ。だが女のくせに当選したのは癪にさわる」

 O氏は童顔をほころばせて笑い声を立てた。だがいっしょに笑う気にはなれない。

 それから間もなく、ある文学雑誌でS・M氏の(苦境時代)と題した随筆が眼について読んだ。それによると――S氏はながく地方の町のサラリーマン生活の中で文学の志はやみがたくA新聞の小説募集の応募作品に生涯の祈願をこめて日夜苦心して書き上げて、ひたすら当選に望をかけていたが、選外佳作に止まった時の落膽悲痛の打撃は烈しかった。ついに意を決して妻子を家に残して単身上京して応募原稿を持ちまわって出版に奔走したが果さぬうち、郷里の妻は三人の児を連れ一人は背に負って良人を追って上京、東京に着くと良人からの手紙の裏書の下宿先をあちこちの交番で聞いて探しまわり、日の暮れ方に妻と子らがやっと下宿先に到着した疲れ果てた実に暗澹とさせられたのを忘れ得ぬ……こういう思い出の感想だった。

 それを読むうちに胸が痛くなった。

 その翌年の二月、一年中での冷寒期のある日、黒枠の葉書が配達された。それはH新聞学芸部長S・M氏が流行感冒で急逝、告別式は自宅でという通知だった。遺族の外に友人総代としてT先生門下会の幹事の名が連ねてあった。それでこの通知は門下会の人々に皆出されたのだと想像出来た。

 その告別式の行われるS・M氏の自宅は意外にも遠からぬ場所だった。歩いて行ける距離なのに驚かされた。そんなに近いところだし……門下会の幹事に対してもと出かけた。それはじぶんの棲むその頃文化村と妙な名称で呼ばれていた赤い瓦の洋館まがいの住宅群の道から出て、しばらく麦畑のつづく道を辿ると、風の吹きさらす原のなかに新築の貸家建の同じ型の小住宅が五六軒かたまってあるその一軒がS・M氏の家だった。おそらく最近移って来られてまもなくだったろう。

 家うちの一間の質素な祭壇に柩が置かれてあった。人々の間にはさまって焼香をすまして外へ出ると、黒い土に青の色が冷たくならぶ麦の芽のあたり吹きさらす風が頬に沁みた。

 それから――しばらくして故S・M氏の遺児の教育費補助金寄付募集のガリ版の趣意書が来た。その発起人にはH新聞の日頃の寄稿者の作家の名がならんでいた。これはきっとS・M氏と親しかった人やH新聞の学芸欄に縁故のあった作家に向けられたものであろうが、それがまちがって舞い込んだのはやはりT先生を囲む会のメンバーの名簿からのようだった。

 けれどもそれは幸いなことだった。懸賞小説に落選した失意の父が上京したままなのを追って出るかなしき母の背に負われ両手に引かれた小さき人々のために、その時の当選者がせめてもの心づくしをさりげなく出来る機会を恵まれたのだ。その寄附に応じる申し込みを書きながら少し気の軽くなった気持だった。

 ――その春の頃だった。H新聞の新しい学芸部長M・K氏が来訪された。大学を出てそのまますうと入社していつしか部長級に進んだといった若々しさと共に男らしい気骨を感じさせるひとだった。

「うちの新聞に長篇連載を……今までもたびたびぼくたちはそう思っていたんですが、実現しないで……こんどはぜひ」

 H新聞には初めての連載小説のあと、一年たってまた書いた。

「この間も外の新聞の学芸の人たちと飲んだ時の話ではいまうちの小説がいちばん評判がいいんですよ」

 M・K氏はこうした身びいきを言って声援を惜しまなかった。この人は学究肌で仏文学者小松清氏との交りも深かった。この二氏とも戦後に惜しくも世を去られた。H新聞は今スポーツ新聞に名を止めている。

 このH新聞からやがてY新聞にそしてA新聞のライバルと言われるM新聞の連載小説をいくつか書いた。新聞小説の処女作はA新聞の懸賞当選に始まった作者が外の新聞の小説作家に進展したのは、H新聞のM・K学芸部長が最初の橋をかけられたからだと思う。明暗二つの思い出深いH新聞である。

「歳月」(『婦人之友』昭和三十九年十二月号 p230-232)


 尤も、これ自体は「創作」と銘打たれているし、昭和十四年の『理想の良人』のあとがきには学芸部長が来たのは「昭和七年晩秋」とある。だが「愛情の価値」は「年譜」によると昭和五年であるし、中編「日本人倶楽部」は六年五月に掲載されている。書かれたこと全てが本当なのかははっきりしないと言っていい。だが出来事が存在した、ということは言えるだろう。

 なおこの中のインシャルトークとなっている者に関しては、T先生は徳田秋声、集まりは二十日会、Uさんは宇野千代、H新聞は報知新聞、Yは讀賣、Aは朝日、Mは毎日新聞である。

 ちなみに当時のM・K学芸部長は片岡貢氏であり、前半に登場するS・M氏は朝日の吉屋の当選発表の紙面に確かに同じイニシャルの人物が載っていることは確認している。

 この「歳月」自体は単行本にも全集にも収録されていないが、吉屋がそれを「朝日の懸賞小説」という題材にかこつけて「書いた」ということにおいて、報知新聞におけるこの明暗二つの出来事は印象深かったと思われる。

 ところで『報知新聞』は当時、野間清治が編集長だった。

 野間はと言えば講談社の創始者であり、吉屋が書いている『講談倶楽部』も『キング』も『婦人倶楽部』も、今回は出していなかが『少女倶楽部』『少年倶楽部』も同会社の発行物である。吉屋作品はこの後戦中期になると『東日・大毎』『主婦之友』専属というイメージが強いが、この時期は専ら野間/講談社関連に執筆していた時期とも言えるだろう。


***


 ちなみに当時の報知新聞は女性読者を取り込むべく小説に力が入ってたざんす。

 読売も「中新聞」として、論説よりは「事実」中心、そして文芸欄も充実していた。

 朝日と東日・大毎(後の毎日新聞)という二大紙はまあ何というか。


 ちなみにこれは戦後の話だけど、長谷川町子は『新夕刊』から「サザエさん」を朝日に移るとき、「アサヒ新聞と言えばヒノキ舞台だから」と「似たもの一家」の連載をやめて一本に絞った、と「うちあけ話」の中で書いてる。そういう存在だった訳だわ。

 まあ吉屋は戦前は東日大毎派だった訳だけど。久米正雄が文芸部長のよしみで。


 こういう置き方をするから「誘導している」と言われるんだが、まあ確かにそーだろう。

 ちと出典を忘れたから何だが、『自伝的女流文壇史』に関して、手厳しい方の評者だと、「自分を小物に見せて正当化する」という類のことが書かれていた。……まあ正直ワシもそう思う訳だ。


 基本的にワタシは、このひとは初期の個人雑誌以降「吉屋信子」という役を演じていると感じている。


 で、その思いこみの上に立った発言である以上、やっぱりそういう方向に文章を持っていこう持って行こうと無意識にしているんだと思う。

 まあそこんとこは仕方がない。吉屋が見向きもされない、ジャンルのせいで無視されまくっているというのも嫌なんだが、かと言って一斉にマンセーして困ったさんだったとこも隠すという風潮も気味が悪い、と思っているんでなあ。

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