さてまず吉屋信子について調べるとする。
そんで、作品よりまず人物として見る場合、伝記だの評論が必要になったりする訳だけど、このひとに関しては、基本的にでかい伝記が二つあるのだ。
吉武輝子の『女人 吉屋信子』と、田辺聖子の『ゆめはるか吉屋信子』ね。
個人的には前者をおすすめする。
理由は二つある。
1.吉屋のパートナーである千代の生前に直接吉武氏は取材できたこと。
当人の生の声が反映されている。それでに二人の関係についても同性愛と明言している。
手紙の数が多い。
(千代死去の際に処分した?/田辺著で「着物の裾模様」のことが判らないという記述があるんだが、吉武著だと吉屋から千代への手紙においてその意味は判る様になっている/田辺著における資料の手紙数の記述が吉武時より確かに減っている)
書ける範囲がそれだけ広かったのではないかと思う。
2.田辺著は現実と虚構が入り混じっている。
これは作品の中で「そういう書き方の方がいい」と語っている。
「物語仕立て」であるせいもあるのだが、例えば随筆である「保存病退治」(個人雑誌『黒薔薇』8号掲載)をそのまま当人のエピソードとして扱うのはまだしも、「花物語」のエピ(運動会とか)をやはり「吉屋の学校時代のもの」とする様な書き方はどうだろうか、と思う訳だ。
そこの所が田辺氏にとって「こうあって欲しい吉屋先生」を書いているのが丸判りになってしまうのがちと痛々しい。
元々田辺氏は吉屋の超ーーーーーーファンだ。
まあそれ自体はいい。戦時下でひとときの夢を見させてくれる特別な存在であったことは、『欲しがりません勝つまでは』等の女学生時の田辺自伝エピを見ればもう一目瞭然である。
のだが、伝記として書く場合どうなんだろうと思う。
例えば林芙美子についての桐野夏生の小説「ナニカアル」みたいに、取材はしたけどフィクションだ、と言い切っているならいいんだわ。こういうこともあった「かもしれない」だからね。
だけど「ゆめはるか」の場合、手紙や日記等の資料もふんだんに使って(ちなみに手紙も日記も現在は殆ど見られない)いるあたり、依頼されて身内にも認可された「伝記」と見えるではないですか。だからこそ、「花物語」エピをそのまま使うのは誤解のもとだ、と思う訳ですよ。
その辺りが田辺著だとごちゃごちゃになっている。
ので、資料としてこの本を見る時には基本的に手紙や日記の貼り付けの資料とワシはしている。
もっともこういう「伝記」に引用される日記や手紙の場合、吉武著だったら千代の意向、後者なら吉屋家の人々のそれが前に出ているのだから、本当にそれが全てであると思ってもいけないわけでして。
好事家のワシとしては、あれこれと見たい期間がある訳だが、それができない以上、まあそこはその時期表向きに書かれたものに染み出てくるものから推測するしかない。
ちなみに公開…… というか、許可つきで公開してもいい日記という奴も、神奈川近代文学館にはある。
ただワシも書き写…… せるとこは(崩し字が激しくてあかんかったのだ)写したそれはそれで、ある時期の吉屋の動向が端的に見えて面白いのだ。いつ何処に行っただの、この日に何枚のどの原稿を仕上げただの。
「これなら格別問題はない」と思って閲覧可にしてあるのだろうけど、たとえばこのひとが一日原稿用紙40枚書けるということが判る、ということだけでも情報としては貴重だと思う。「筆が速い」という特徴の裏付けになる訳だ。
当分できないだろうけど、またそのうち行って見てみたいものだと思う。
ということで、
「吉屋の伝記二本はどちらも興味深いけど成り立ちや出版社を考えると鵜呑みにしてはいけない」
という感じかな。
あ、ちなみに吉武著は文藝春秋社で、田辺著は朝日新聞社です。はい。なんか凄く納得がいく(笑)。