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第12話 屋根裏の二処女③二人が寮を出ていくまで。

> 章子は熱病患者のやうになつて、ペンを握つて動かした―――章子は狂人のごとく字を押し出し言葉をつらねた、後からはち切れさうに言葉が飛んで散つた―――章子のペンはどんなに急いでも、その後から後から燃え上がる焔のやうな思慕の念の忠実な筆記には叶わなかつた―――章子は非常に疲れた―――不思議な奇怪な熱病は全く章子の身体を冒して暴虐に荒れ狂うた―――あゝ快き熱狂の陶酔―――思慕の乱舞―――愛欲の幻想―――章子は自分の肉体の細胞の一つ一つに或る毒素の生じたことを疑つたほどであつた。

 この奇怪な熱狂や幻想のもとに描かれた一つの長い大きな手紙は章子に幾度か読み返された、盃の底の澱むまで吟味してなめるやうに、反復されつゝ読み返された、そして章子は羞恥の火に焼き尽くされるかと思ふほど、眼が眩んでわなわなと身体が震へ胸は鐘のやうに鳴つて破れ出しさうになつた、章子は、狼狽して出来るだけ早く文字を片ッ端から塗りつぶした、そして幾度も幾度も塗り消されて手紙のほとんどは真黒な紙に化した。

 しかし、たゞ最後にこの一行だけを章子は止めた。

 この一行だけを秋津さんに送るとは。章子に取つて生命を賭しての仕事であつた、この一語の中にあらゆる熱狂も幻想も涙も火も血も肉片も吐息も瞳も唇も―――嗚呼―――あらゆる総ての捧げ物が盛られてあつたのだ。


 …………貴女を愛します…………


 この、ひとことが残つたばかりで、あの章子の生れて始めての全霊をさゞげての創作と言ひ得るかと思はれるほどの長き手紙の紙片は裂き破られた。

 そして、章子は泣いた。



 さてこの後、色々あるんですが。

 まず人形を贈ってきたのがかつての秋津さんの恋人(女性)だったことが明らかに。

 だけどそれが現在男爵夫人、というあたりにまた「孤児」意識の強い章子は凹んでしまうわけですが。


 その後いきなり工藤さんが悪性感冒で亡くなってしまいます。

​ 章子はこの棺をかつぐ人夫達をこれまた「貪欲な卑しい顔をした」などと表現。​



> 工藤さんを悲しむ切ない気持ちと共に、今日の愚劣な色のお経を読む商売人や紙細工のいやらしい花や、さまざまな不快さが一層の悲惨な哀れさを痛いほど思はせた。

 工藤さんを、あの工藤さんを、かゝる情景のもとに永遠に送らうとはあゝ、誰が許し得ようぞ!



 では一体どういう情景ならよかったんでしょうね。

​ その後皆で


>××軒とか書いた、うす汚れてじめじめとしめつた暖簾(?)をくゞって


「安い」西洋料理店に入るんですが。またその情景が……​



> 中には二三人女がゐた。

 ひどく汚れたエプロンを麗々しく肩へかけて、よぢれた紐をだらんと背中で結んでゐた。

 それは飛んだことであつた。

 (……)

 突かゝるやうに、一人の女が円卓子の傍に来て問うた。

 白粉のまだらな醜い顔をして、そのどろんとした塩鰯のくさりかけたやうな無智そのものゝ眼つきをして、なほも女は、その客の同性なるの故をもつて、一種の敵愾心と自己防衛と傲慢さを以て対しようとするのであつたなら! 呪はれた地の獣は、(女)そのものであらねばならない!

 章子達は、ぬるまつこい薄いどぶのやうな珈琲と銘打った飲物をかたちんばな珈琲茶碗に入れられたのを運ばれて、呆然としてゐた。



 一つ言えるのは少なくともこの時期の章子/作者自身にとって、確実に「上等」「下等」と女を区別しているということなんですね。というよりもむしろミソジニーなんじゃないかと思うんですよ。

 秋津さんは「それではない」美しさをもっていたから良い。だけど通常彼女が見て認識している「女」は、彼女の憎むべきものなんですよねえ……


 まあそこで一人の兵士がやってきて、ライスカレーを二杯、気持ちよく食べているのを見て、何となくすっきりするんですが。

 ……やっぱりお嬢さんなんでしょうなこのひと達は。

 つか、世界の狭さを自慢しているかのように見えて嫌気がさす訳です。

 そしてまた所謂「女」ではなくとも、章子の美意識の外にある「お静さん」にまたずいぶん手ひどい。



> 暫し時が立ってから、お静さんが登つて来た、お静さんはびんつけのかたまつたやうな、水芋の粘つたやうな人間に思はれてならないひとだ。

 このひとは扉など打ちはしない、スリッパさへ揃つて見えれば、遠慮も何もなく、どんどん人の部屋へ入つてゆく野良の牛のやうなものである。

 彼女は隣の王城へのそのそと押し入った。 

 美しいミイラはなんとしたか――

 籐椅子がきゝととかすかに鳴つた――秋津さんはあの籐椅子の上に寝てゐたのだ――章子の神経の一部が勝手にきちきちととがつていつた。



 お静さんが何をしたというんですか(笑)。これ「存在が許せない」って言ってるだけですがな。


 ところで。

 さていま一つかなりぎくしゃくとしている章子と秋津さんでありますが、文章中には秋津さんの描写は殆ど無いです。

 手紙が伴夫人から頻繁に来るとか、一緒の部屋で寝泊まりしないようになってしまったということはあるんですが、秋津さんがどうこう言った、ということは無いです。

 ただもう章子がもんもんとしているだけです。

 そしてそのもんもんの中で、贈られた人形に当たって打ち据えて腕を一本もいでしまったとか、そういうことがございまして。

 その後の二人の決着の始まり。一応何でお静さんが嫌いなのか、章子自身判らないということは判っている模様。



>「秋津さん――さくらの花かまつさかりよ――云々。」

 水芋のつぶれたやうな声をお静さんが出してゐる。

 わけもなく章子は腹立たしくなつた。

 水芋が嫌ひのやうにお静さんも嫌ひで仕方がなかつた――なんで人が人を嫌ふ権利があるかと牧師なら怒るであらう、しかし嫌ひといふ感情はどうしても消すことが出来ない、なんの理由もなよく唯々嫌ひでたまらないのだもの。

 お静さんは嫌ひだ――章子はどうしてもかう思ふ。

 籐椅子がまたきいと鈍く鳴つた。

 ……章子の神経が苛立つた……あれは、きつと水芋のお静さんが、どつしり里芋のやうな身体を籐椅子のふちに据ゑたのだ……と感じた。

 どうしよう――我慢の出来ないことである――

 章子は真青になつて何か獲物につかみかゝらうとする猛獣のやうに喘いでゐた。


 それから、また暫くして章子の部屋の扉が開いた。

 お静さんが、のつそり入つて来たのだ。

 失敬なこのち者をいつたい、どう罵つたらよいのか章子は途方に暮れた。

 づうづうしい水芋の人間は、どんどん入つて来て、片隅にうづくまつてゐる章子などを眼中に少しも認めないといふ風である。

 彼女は芋のごとき身体をかゞめて戸棚をあけた。

 彼女は、何かしばらくのそのそと戸棚の中をさせてゐたが、やがて白い雪のやうな柔らかい毛布をひつぱり出した、そして一つの純白な羽根枕を――その二品とも秋津さんのものである、ふたりの部屋は別々になつたが、もと章子のその部屋はふたりの寝室であつただけに、いろいろな秋津さんの所有品が残留して、おきつぱなしにされてゐたのだつた。


 秋津さんはその所有品のさしあたつて必要のものを、今この芋のやうな人間を取りによこしたのであつた――と章子は感じた。

 お静さんは、さつさと二品を宝物のやうに抱へて章子の方を見向きもせで扉の外へ出ていつた。

 章子の人並すぐれて大きい眼が、あんなにまでお静さんを睨めつぶしてやらうとして向つてゐたのを人にしてまた芋のごときお静さんは知らずに平気で、あたりまへの顔をして、のそのそと出て行つた。

 この時、章子の全身に幾らかあつた貧しい赤い血が、みな頭へ逆に流れた。



 いや本当にお静さんが何をしたというんですか(笑)。


 えーたぶん、この時秋津さんは眠っていたんじゃないでしょうか。少なくとも次の段落ではそういう情景が出てきています。

 だけど「章子の中では」、「秋津さんが取って来させた」とすり替わってしまってるんですね。

 しかも持って「来させる」のは、かつて「二人が至福の夜を過ごした」時に使っていた毛布だの羽根枕だの。

 それをお静さんに、なんですが。

 お静さんの扱いが本当に酷すぎますね(笑)。

 水芋だの里芋だのち者だの「人にして芋のごとき」などと、見下すもいいところです。

 いや気に障るんだと思いますよ。デリカシーとは確かに無縁そうだし、たぶん章子の美意識から遠く離れた外見をしているんだと思いますよ。​

 だけどここでは「そこまで思われるかあ?」だし、想像力で嫉妬がぐりぐりしております。

 たぶんお静さんはうたたねしている秋津さんに単に「風邪引くわよね、ちょうどいいものは、あああっちの部屋にあるのか、じゃあ取りに行ってこようか」で、ずけずけ入って行くのは、単なる習慣だったんでしょうから。

 そこに過剰に意味づけをしているのは章子でして。

 さあここでキレてしまいます。



> 扉をどんと突いた、青い扉が波の砕けるやうに震へて居た壁の柱の方へぶつつた。

 章子はもう扉の外へ――出て、そしてもひとつの青い扉を突き破らうとした。

 その間は五秒とかゝらずに隣り合った青い扉を皆開いてぶつけた。

(……)

 章子はずいとお静さんの横手に行つた。

 章子の咽喉は火のやうに渇いて熱くなつて意て、腰はわなわなとふるへて意た、章子の肩はぐいぐいと大きくひきつれた。

 そして章子の片腕が重く烈しく振られた――傍の人間の頬をぐわんと打ちおろしたのである。

 ……………………!!!

 悲鳴が上げられた、そして次に醜い号泣が立てられた。



 ホントにキレてますね。

 いい迷惑なのはお静さんです。要するに「あんたみたいな人間が秋津さんに近寄るんじゃない」ってことですよね。

 お静さん的には訳判らないでしょうな。二人の仲がどうだこうだ、ということを知っていたかどうかはともかく。

 お静さんの内面に関して判る箇所は文中には無いし、ともかく地の文は章子の視点なんで、お静さんは「外見と同様」というイメージに取り巻かれてるわけです。

 正直章子の行動の方がよっぽど酷い訳でして。


 人形を壊したくだりに関してもそうです。

 そもそも秋津さんに来た手紙を盗み読みした結果、伴夫人から「今でも愛してる証」として贈られたのがその人形だった訳です。

 だからこそそれに当たります。で、遂に壊してしまう、と。

 そのことを果たして章子が秋津さんに謝ったかどうかの描写は無いです。が、まあたぶん秋津さんは気付いた、だから遠ざかった、ってことだと思います。

 ……はっきり言って粘着質です。

 ちなみに章子の眼がでかい、なんでことも、ここで初めて出てきます。びっくりです。

 で、まだテンパってる章子は秋津さんに対しても当たります。



> 秋津さんが籐椅子から、もの憂い身体を起して章子の荒れ狂ふ腕をさへ切ろうとした――打たれた芋の如き女は階下に号泣しつゝ走つた――彼女は舎監へ告げに行つたのである。

 章子の腕は休みなく間断なく秋津さんの柔らかい胸に肩に振りおろされた、秋津さんの澄んだ眼は、ぢいつと章子の打つに身を任せつゝ絶えず章子を静かに見つめてゐた。


 章子は非常に咽喉に渇を覚えた――自身の頬がくわつとくわつと火のやうにほてつて、咽喉がかわいて苦しかつた――弱い弱い暴君は苦しげに喘いだ――章子は秋津さんを打ちつゝ哀願した――私を顧り見て下さい――私は貴女なしで生きられません――もう一度、もう一度、あはれ、いまひとたび、いま、ひとたび――私を私をかへり見て下さい――とあらゆる哀願の泪と共に、烈しく烈しく火の如く、かく烈しく喘ぎつゝ愛する者を打ちつゞけた。

 あゝ、誰か哀願するに跪まづかずして、拳を振らうぞ!

 しかし、章子は拳をあげて、しかし哀願した、あはれ、世にも痛ましく悲しき狂はしき哀願!



 でまあ、一応「暴力事件」起こしたということで、章子は退寮を命じられる訳でして。

 じゃあもうさっさと誰にも知られず出て行こう、と荷物をまとめていると何と秋津さんが来ます。あなたの行くとこめへ自分も行く、と。

 で、秋津さん言う訳です。


>「……貴女も人生に目当ほお置きにならない、――私も何の目当もない――その目的なしの寂しい弱い私たちは私たちで、いつしよに生きてゆきませう――」


 どうしてそうなんの!?

 で、秋津さんは伴夫人のことを説明します。伴夫人は確かにかつての一番の人だったが、現在の境遇に我慢できず、「死にたい」となってしまった人だ、と。



​> ……やつぱりこれが一番いゝことでした……けれどひとりではあんまり寂しすぎる……私叶ふことならたまきさんといつしよに死にたい……でもいけないのでせう……たつたひとりたまきさんをこの世につなぎとめる人があるつて、ちやんと仰しやつたのですもの――​



 そうですか、秋津さんはこの暴力沙汰がある以前から、章子をそこまで思ってたんですか。何でだ!?

 でまあ、秋津さんは伴さんにはそうせざるを得なかった自我があった、そして自分達にもその自我があるはず、という持論を展開。

 尤もだからどうして、という気分は否めないんですが。



>「瀧本さん、ふたりは強い女になりませう、出てゆけといふならこの屋根裏を今日にも明日にでも出ませう、ふたりの行く手はどこにでもあります――ねねともあれ、ふたりでこゝまで漕ぎつけたのです、これからふたりはこゝを出発点にして強く生きてゆきませう、世の掟にはづれようと人の道に逆かうと、それが何んです、ふたりの生き方はふたりにのみに与へられた人生の行路です、ふたりの踏んでゆくべき路があるに相違ありません、ふたりの運命をふたりで求めませう、ふたりのみゆく路をふたりで探しませう、――これから――」



 で二人で出て行く、ということなんですが。

 やっぱり秋津さんが何でこの章子をよしとしたかさっぱり判りません。

 というか、章子に対する感情が判らないんですよ。

 章子が秋津さんを好きな理由は基本「美しいから」に尽きる様に見えます。秋津さんの描写はこれでもかとばかりに美しいものだし、だからこそ醜いお静さんが近づくのが許せない、そう取れます。

 じゃあ自分は何なんだ、と正直章子には言いたい。

 大した人間じゃない、と散々考えているのに、秋津さんの傍に居るのは構わないと思う。

 つまりは自分は特別なんですね。「大したことない」「つまらない」と自嘲しながらも、自分が秋津さんの傍に居るのに問題はない、と考えている。それどころか、最後に泣きついている。


 で、だ。

 ワタシとしては、この二人の未来は暗いと思ってます。

 章子の秋津さんへの依存は見た通りだけど、秋津さんも共依存の中に居る様に見えるからです。

 自分の中には何も無いから、頼ってくれる人のために生きたい、その相手がやはり世間とずれた感性を持つ章子…… 

 だけど章子はどう見ても自分のことしか考えて無いです。はっきり言って自己愛(略)まんまです。

 その章子に粘着されたまま、依存されたことをよしとして生きて行く秋津さんは果たして幸せで居られるんでしょうか。

 どっかで無理が出るでしょう。


 ちなみに。

 吉屋信子自身はYWCA時代の体験をもとに書いているのですが、秋津さんのモデルとは見事にぐたぐたな破局を迎えてます。まあこっちの場合は、伝記によれば相手の方が粘着していましたが。いやもう相手の親も出てくるくらいの。

 この辺りも伝記に詳しいのでぜひ。吉武輝子の方を先に読むことをおすすめします。しつこいですが田辺聖子のものは伝記というには多少首を傾げるものがありますので。

 で、吉屋信子は最終的にはサポートしてくれるパートナーがつくことで、自分の才能をコントロールできました。そのまんま出すと明らかに読者ウケしないだろう、暴走部分を、パートナー門馬千代はちゃんとセーブしてくれてます。そして吉屋信子が出来ない家事だの何だの現実の生活のあれこれを引き受けてくれてます。

 自己愛(略)だけど才能がある人は、いいサポーターが居ればオッケーです。


 でも章子と秋津さんはそうじゃない。

 彼女達の未来は決して明るくない、とワタシは思います。

 まあ自分では失敗した経過をハッピーエンドにまとめようとするとこうなってしまうんではないでしょうか。

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