(……)昌吉は応接間の硝子戸に仄さし込む冬の朝の光のなかに、この文字の一つ一つを、暗んずるまで幾度も読み辿つた。
始発の電車のひびきが、都会の朝の沈黙を破つて、ゴーッと鳴る――それが太平洋の――南海の――北海の――海の潮鳴りと昌吉の耳にひびいた――青い波――行く船――マストの上の日の丸の旗――汐風――昌吉の瞼の裏に幻想の船が浮かんだ。
(少年海員、泉昌吉! おーい、来い、早く! 待ってるぞ!)
遠く遠く海からわれを呼ぶ声が聞こえる…少年の総身の純な血は熱くたぎつた。
青少年日本男子は船員として軍に続き御稜威を護れ!
この言葉は昌吉の前に、天の声――海からわれを呼ぶ声とひびいた。
友の晋一は海善く征く軍艦に武人として――われは同じ海征く商船に船員として、友に続かん、いざ!
***
昭和19年4月発行、『海の喇叭』です。ジャンルとしては少年小説なんでしょうか。
雑誌掲載の気配はとりあえず見つかっておりません。この時期ですので、当局から依頼されて書いた斡旋小説とも考えられます。
ちなみに伝記ではこの時期は「ほとんど書いていない」「書けなかった」的な記述がされてますが、まあ実際のとここういうものは書いてます。とりあえず要求には応える形です。
おはなしとしては。
まずこの主人公の昌吉くん。裕福ではないので、国民学校の尋常科を出たら商家へ奉公に出つつ、夜間商業に通うという暮らしをしています。その奉公先で、古新聞の整理をしていた時、海員養成所のことを知り、「官立宮古海員養成所」の一ヵ年課程に入ります。
もともと幼馴染と一緒に江田島の海軍兵学校に行きたかったので、海に関係する学校に行けるというのでうれしくて仕方ないです。
ちなみにこの養成所、管轄は逓信省のようです。意外。
そして航海科に合格。寮生活となりまして、機関科の伸之助くんという友達もでき、厳しくも楽しい訓練生活を送ることに。
ただ故郷のお母さんはさすがに心配で、宮古まで一度見学に来たりもします。だけどそこでの生活と目的に感動し、自分も子を送り出す心もちにならないと、と考え直します。
まあこのあたりは吉屋信子の当時の本心だと思われます。
彼女は「個人の情」より、「理性や公」の方を母親というものに求める傾向がございまして。
だからここではこの母親に結構マジでこう言わせていると思うのです。
***
>「だけど、昌吉安心しておくれ、おつ母さんはさつきから所長さんにああして連れられて、お前たちのすること為す事見せてもらつてゐるうちに――もうお前を連れて帰らうなどと思つたのが、ほんとに親のそれこそ利己主義とやらで――まちがつた考へだとわかつてきたのだよ――だからさつきくも所長さんに、しんからお辞儀をしてあやまり、どうぞあの子を立派な少年海員に仕立ててお国の役に立てて下さいませ――とお願ひし、ほかの教官様にも改めて御挨拶してお頼みしておいたんだよ―――ああ、ほんとに昌吉――たいした勉強だねえ、おつ母さんはほんとに何から何まで感心してしまつて――早速東京へ帰つたらお父さんにもよく話してきかせます。どうぞみつしり勉強しておくれよ、おつ母さんは安心してかへるからね――」
***
で、最後は卒業後、実際の軍用貨物船に乗った昌吉くんと伸之助くんの連名の手紙。後輩に向けてのものです。攻撃とかあったようですが、何とかなったことを。
まあ何というか、実にじーっと読まないと、吉屋信子の吉屋信子らしさというものが見当たらない文体と文章です。
いやまあ、あちこちに感激だの感動だのしている人々が出てきますが、「この時期だしなあ」と思って読めば、ありがちな文体に見えてしまいます。
ただここで、やっぱり吉屋信子だよなというのが、その「母」の取り扱い。
情におぼれた利己主義だなんだというのは、彼女が嫌う所でして。思うに、この時期の人々の心情は大っぴらに吉屋信子の美学に合うものだったんじゃねえのかと。
「そうでなければ自分が救われない」とでもいう感じに。
とはいえ、正直この話、「つくりもの」「宣伝小説」としては非常にうまいと思うのですよ。何か「好きなものが書けない」時期だったらしいですが、こういう要求に応じた小説のほうがうまかったんじゃねえか? とつい思ってしまうんですが。