“同じ悲しみを抱く戦友よ、我がいなくなっても、きみに、幸あれ。“
今でも胸のあたりをそっと触れると、どろどろとした液体が在る気がする。
夕暮れを背景にして写真に映る君は、僕にとっての素晴らしい思い出として刻まれていた。君のあどけない笑顔と、揺れるさらさらの髪の毛と、ふわっと浮かぶスカートと、泥に濡れた白い足が、僕は頭から離れない。彼女のことを想うと胸が閉まるような思いをしてしまうし、また違う時は生暖かい涙が顔を出す。僕は彼女のことを、まだ忘れられそうにないみたいだった。
僕は胸に触れると、乾いていた大きな空洞には静かな鼓動がありつつ、触れた途端に嫌な感触の液体が漏れてきて、その度に僕は意識を世界から隔離させ、にわかに知らない物語を紡ぐ。ああなっていれば、こうなっていれば、とかね。
僕は知りたかった。こんな感じの空洞が君にもあったのか、そして。僕の空洞は、いつになったら埋まるのか。……知りたいけど、知りようのない。僕は今暖かな光に包まれたデスクで、こんな悲しい文章を書き連ねるくらいには、救済が終わっていないらしい。だから、僕は衝動で当時を思いだしながら、この気持ちと、この儚さと、あの風景と、――カメラのカシャっという、静かな終わりの音を、
カシャ。
思い出す。
そのカメラが現役だったのは、正式にいうならば僕が生まれる前からだったらしい。父親が写真家だった。母の話によると父は世界中を回りながら美しい風景を撮っているみたいで、それも母の話を脚色なしにありのまま書くのなら、父は『人助け』をしながら世界を回っているみたいだった。「息をするように誰かを助けて、泣く子どもをなだめ、耳元でもう大丈夫と呟いてくれるひと」。そんな立派な父親だったそうだ。悪くいうのなら、お節介な性格だったとも言えた。きっと巡りあわせによっては、父は余計な事をしてしまい自滅する運命を辿ったかもしれない。……だけどそうはなっていない。そうはならなかった。そういう星の元に生まれた、生粋のスーパーヒーローだったんだと、母は父の遺影をみながら教えてくれた。
僕が物心ついたとき、父は病気で亡くなったらしい。
正直に言ってしまうと、僕にとって父はいないものだった。父は、僕が生まれたときこそ立ち会ったらしいのだが、それからまたすぐ世界中を回る慈善活動に勤しんだみたいで、そのままどこやらで拾ってきた病気で死んだ。だから、僕にとってのお父さんは物理的にも感情的にも近いものではなかった。
だから結果だけ言うと、僕に残されたのは、あの父親の子どもという要らない名誉と、贅沢できるくらいの貯金と、父の死後の後処理を眺めるのと、一つの古いカメラだった。
前提として僕はとくに父へ憧れの念があったわけではない。でも少なくとも幼少期に『カメラ』というものに興味があった。……もしかすると、これは父の血が流れているのかもしれないけど、当時の僕にとってそういう『父』関連の話はどうでもいいことだった。
ふとしたとき、僕はカメラに風景を収めるようになった。――鳥が飛び立つ瞬間を撮れたときは確かに嬉しくなったけど、意外なことに僕は写真の素晴らしさがいっそう分からなくなった。僕が鳥を上手に撮れたときに感じた嬉しさは、別に写真に対する関心には繋がらず、タイミングよく撮れたときの鳥の動きに対して嬉しかっただけで、本当に写真は特別魅力的には思えなかった。確かに面白い遊びだとは思っていたけどね。だから僕がカメラを触らなくなったのは、鳥の写真からすぐの事だったと思う。
学校というものは退屈ながらも有意義な体験だった。
僕に文学というものを教えてくれただけで価値があった。
僕は頭はいい方ではなかった。テストも大抵最下位でありながら勉強しようとしてもコツがわからなくて困った。そんなことより僕は、考えることより楽しい事がしたかったと思う。それでいうなら家庭用ゲームが好きだった。あれはそうだね、チャンバラをするゲームだった気がする。最初は楽しかったからずっとやっていたけど、次第に自分の棒の向きによって相手の攻撃を防げると気が付いたときはもう、クラスの友達に自慢したいくらの喜びだった。だが当時の僕のクラスメイトはそういうゲーム文化に疎く、いわゆる体育会系のイケメンばかりだったから、僕はクラスの中でとても浮いていた。
彼らはみんな仲が良さそうだったが、僕はその輪に入れなかった。「……入りたいな」と思う事は今でもある。彼らと和やかに談笑できれば、僕はどれだけ嬉しかっただろうか。
でもそうはならない。彼らと僕は生きる世界が違ったからだ。遅くないうちに僕は登校が嫌になってしまい、ある日仮病で休んでみた。
そしてまる一日ゲーム三昧。あれは長い人生で見たとき楽しい日だった。
勉強よりもいいじゃないか、よし、僕はそういう風に生きよう。はたまた、そう生きたい。ただただみんなと違う世界で生きていたというだけで僕は楽なものへ逃げた。でも僕にしてみればそういうものだった。僕は嫌なことは極力したくない人間だった。何故なら、包み隠さずいうなら、体質的に嫌な事が合わなかった。嫌な事をすると僕は分かりやすく体調が悪くなる体だった。多分、繊細なんだと思う。
それで、時たま体質により恥をかいた。信じられない話をする。学校の入口の前の、とある石の道のちょっとした線があるのだけど、その線を超えただけで僕は何故か毎日お腹を壊してしまう。今思うと、多分『登校』が苦痛だった。
でもね。みんなはいうんだ。当然のことを。
「誰だってやりたくないことをやってる」
「勉強が好きな奴はいない」
「俺らも嫌なのに、なんでお前はやらないんだ」
責めるように言う。
悪意がないように言う。
僕はそれを聞いて、「そっか」とだけ思った。
僕はのらりくらりと学校生活を終え、ひとりで帰宅する。最初は親のよしみで体育会系のイケメンたちと帰っていたんだけど、段々といづらくなってやめてしまった。あの時の事はまだ覚えている。全ての事を思い返して、どうやら僕ははみ出し者らしいと悟ったとき、僕は足が動かなくなって、壊滅的な豪雨が心をブルーに満たした。
そんな気持ちのまま中学に上がったはずだ。
確か僕は毎日を虚無のなかで過ごしていた。勉強も変わらず嫌い、クラスメイトも嫌いではないけど苦手、体を動かすのも得意じゃない。今改めて思い返すと、僕はとても情けない男だった。
でもその中学の話だ。素晴らしい女性に出会ったのは。
――彼女は体育館裏の林を通った先にある小さな池の隅に座りながら、本を読んでいた。
別のクラスだった彼女は最初僕がたまたまやってきたことに気が付かず、僕は林に身を隠して彼女をみつめていた。ふと彼女がやっと僕の存在に気づくと、右手を招き猫みたいに振って僕を池の端に誘った。
近くにいくと彼女は両手で腰を上げ、座っていた位置からちょっと逸れて座り直した。どうやら僕が座る場所を提供してくれるらしかった。僕は、女性の真横に座るなんて、当時は恥ずかしかったけども、彼女の仕草から自分に否定権はないような気がして、従った。
「……」
「……斜陽って知ってる? 小説の」
「え?」
彼女が一言いうと、池にふんわりとした波紋が広がった。
僕は彼女を池の反射越しにみつめた。僕は、首を横に振る。すると彼女は右手を押し込んできて、「明日までに読んできてね」と本を押し付けられた。
……その時の彼女の右手の白さと細さは、彼女が『華奢な体付をしている』んだという雑念が思い浮かぶには充分だった。僕は耳を赤く染めながら首を振って、すぐ押し付けられた本を手で受け取った。
それはどうやら太宰治の『斜陽』という小説だった。
「これは?」と聞こうと顔を上げたが彼女はいなくなっており、音を頼りに探すと彼女の背中が林に入っていったのが見えた。どうやら僕を置いて彼女は帰った。
僕は押し付けられた小説を帰り道の団地を通りながら開くと、案外それが面白かった。一日で三分の一も読めなかったが、最初だけちょっと読んだ。次の日、僕は同じ池にいくと彼女はまた座っていた。今度はヴィヨンの妻という小説を読んでいた。
「読んだ?」
「……ちょっとだけ」
「どうだった?」
「むずかしかった。でもおもしろかった」
「どういうところが?」
「……むずかしい」
そういうと彼女はむっとした。僕も思わずむっとした。
「まあいいわ」
彼女は諦めたように言って右手を差し出した。僕は訳も分からず首を傾げる。
「返して」
「え?」
「返しなさい」
どうやら斜陽を返してほしいみたいだった。僕は斜陽を返した。すると彼女はおもむろに小説を捲り、小さく息を吸うと。
「――太宰治、斜陽」
「え?」
彼女は文章を音読し始めた。
「朝、食堂でスープを一さじ、すっと吸ってお母さまが、」
「ちょっと待ってくれよ」
流石の僕もそういうと、彼女は音読をやめ眉間にしわを寄せて睨んでくる。僕はそれに肩を揺らした。
「なに」
「……どうして音読?」
「難しいんでしょ、なら読み聞かせてあげるわよ」
「え、えぇ?」
否応なしに彼女は続きを読み始めた。
……驚く事に、僕は朗読というものを聞いたことはなかったのだが、彼女の芯のとおった綺麗な声に乗せられて読まれる斜陽は、自分で想像しながら読むより幾分か鮮明に光景が浮かんできて感動した。
音と共に池の水面に情景が浮かび、僕は彼女の声を聴きながら、朗読を聞く。彼女には朗読の才能があるのではないかと思ってしまうくらいに、彼女の読み方は綺麗で抑揚があり、情景豊かで、文字が骨の髄に染みるような感覚があった。文字の一つ一つが形となり、一つの文になる頃には景色になり。――そこで談笑する、かず子とお母さまが、ありありと見えてくるのだ。ひょいと水面を裏返すと、まるで『彼女が描き』『僕が感じ取る』斜陽の世界が、名一杯に広がっているような気がした。
夕暮れになるまで彼女は朗読を続けて、いきなりぱたんと斜陽を閉じる。
「今日はここまで」
僕らは解散した。
次の日、とくになんの約束もしてないのにその池へ集合し、彼女は何も言わずに続きから読み聞かせてくれた。いつしか僕らは学校の授業をサボり、池で朗読する、聞くの関係性になった。
僕にとってその池の一時は、とても心地がよかったし、精神の安らぎがなかった人生での、初めての穏やかさだった。目を閉じると眠ってしまうくらいの落ち着きに身を委ねるのは、初めての体験だった。
ある日、ついに斜陽が終わった。一言でいうと、素晴らしかった。
女性の朗読でこそ斜陽は輝くような気がした。僕がその時には、すっかりと文章の虜になっていた。
「おつかれさま」
彼女はこくりと頷いて言う。僕は彼女を池越しにみながら、同じ言葉を同じテンポで復唱した。
「おつかれさま」
「そうね」
彼女は普通に答える――。
「そろそろ、こっちみたらどうなの」
唐突に頭が両手に覆われ、ぐっと首を寄せるように無理やり向きを変えられた。
その時初めて彼女と目が合った。
……今思うとあの時の僕はウブなだけだったと思う。だって、女性と喋ったことがない童貞だったからね。
でも面白かったのはここからだった。僕は彼女の顔をみて衝撃が走った。――腕の細さから美人であると妄想していた。だがしかし彼女は別に美しい人ではなかった。でもとても不細工というわけでもなく、小奇麗ではないが、顔のパーツは悪くないといった具合で、言ってしまえば僕の顔面と同じ感じだった。世間的にいうなら、ありふれた物だったと思う。
「えっと」
「……」
「どうして君が照れるの?」
僕はあくまで素朴風に聞いた。じつのところ、僕より彼女の方が照れているようにみえた。どうやら彼女も男性慣れしていなかったようだ。
「うるさいわ」
「……」
「あなた、名前は」
僕は名前を名乗った。
すると彼女も名乗った。
「これからもよろしくね。ちょっと散歩しない?」
彼女は名乗るとそういって立ち上がり、一歩僕の前を踏み出した。
「ついてきて」と背中越しにいうので僕は立ち上がり、林を進んだ。
池から数十歩あるいたところにある鉄格子の先、正確に言うなら学校の外の田んぼに向けて、彼女は人差し指を向けた。
「明日はあそこで会いましょう」
僕はぼうっとしながら頷いた。
家に帰ると、母親が怒っていた。「先生から電話がきた。最近授業に出ていないみたいだけど、どういうこと?」と。
でも僕はそんなことより、彼女と初めて目があった事が脳裏に焼き付いて離れなかった。その日はずぅーと、ぼうっとしていた気がする。
彼女の顔と、イメージが違ったせいなのか。正直今でも難しくて分からない。でもなぜか僕は、無性に彼女の顔をもう一度見たいと思っていた。そのとき父のカメラを思い出した。
次の日の朝、あの田んぼに行ったが彼女は来なかった。僕は学校をさぼって彼女を待つことにした。首から茶色い帯に支えられた立派なカメラを手に、目の前に位置する学校の下校時間まで待った。すると彼女はやってきた。制服すがたでやってきた。
「よ」
「……おそかったね」
僕が言うと彼女は意外にも平謝りしてきた。
「学校から連絡があったみたいでさ、お父さんが怒っちゃったの。最後くらいいけってさ、ばかばかしい」
「……きみも怒られたの? どうして?」
「授業にでろ、だってさ」
「ぷっ」
「は?」
僕は吹き出してしまった。彼女もどうやら同じ怒られ方をしたらしい。僕が事情を説明して何故笑ったのか解説すると彼女も「なんだそりゃ」とお腹を押さえて笑った。僕もそんな彼女をみて嬉しくなった。
「というか、同じだったんだね」
彼女は意味深に呟いた。
――そのとき初めて僕は、彼女も自分と同じ片親であることを知った。
それに僕の親は母親だけだったが、彼女は逆の父親だった。偶然すぎて思わず顔を見合わせて、互いに運命みたいな神のいたずらを、一緒に疑った。
……僕は彼女の「ふふ」という笑い方に無意識にカメラを向けた。
どうしてカメラを向けたのかは分からない。
なぜシャッターを押そうとしたのかすら分からない。
ただ、僕は無意識に、何故か彼女のことを写真で撮りたくなったんだ。
彼女はカメラを向けた僕に対し、少し考えるような仕草をみせて――思いっきり飛び上がり、水しぶきを上げながら田んぼに着地した。僕はあの、鳥が飛び立つ瞬間を撮影した幼きときを思い出しながら、
ボタンをおした。
カシャ。
と鳴った。
今ではその写真が、僕だけが持っている、彼女の存在の証明だった。
その日は彼女からヴィヨンの妻を読んでこいと本を押し付けられて解散した。その日から僕は彼女と一度も会っていない。
その日学校に行かなかった僕は、母親から強引に「学校が悪い」と決めつけられ、その晩のうちに遠い場所へ引っ越すことになった。僕は必死に抵抗したがダメだった。結局僕は彼女の本を持ち逃げすることとなり、遠い青森へ移ってしまった。……引っ越し先が太宰治とゆかりがある地だったのは、流石に神のいたずらを疑ったな。
そして僕は青森に来てから、本を読み漁るようになった。彼女から貰ったヴィヨンの妻は読む気にならなかったけど、太宰始め他の文豪の本を喰いつくように読みつくした。それで、ヴィヨンの妻以外をあらかた読み終わって、僕の人生は本だったと言えるくらい活字を愛した。
僕は年老いた。母はいつの間にか死んで、父のカメラは劣化で壊れた。残ったのは彼女を収めた写真が、一葉だけだった。
僕は小説家になり、有名になって、その有名が終わるくらいの年月が流れた。
今はとても静かに余生を過ごしている。
ふと棚をみて、ずっと読んでいなかったヴィヨンの妻をみつけた。
僕はそろそろいいかとその本を手に取った。そしてその小説をクラシック流しながら優雅に読んだ。どうせならと下手くそだったけど、口に出してよんでみた。最後まで読み終わると、ひらりと本から一枚の紙切れがおちた。僕はそれをすくってみて、書かれた文章を口にだしてよんでみた。
「 “同じ悲しみを抱く戦友よ、我がいなくなっても、きみに、幸あれ。“」
僕は、
それなりに上手くいったし、
上手くいったのは彼女のおかげだと今では思っている。
僕が引っ越すのはいきなりの話だったし、僕に拒否する余地はなかった。だからずっと僕は『彼女を置いて行ってしまった』と思っていた。……思い返してみると、ヒントは沢山あった。
――【最後くらい】。彼女の台詞が脳裏に降りてきて、僕は乾いた笑い声を出した。
つまり彼女もあの日で引っ越したのだろう。
「――――同じ悲しみを抱く……」
どうやら本当に、僕と彼女は何もかもが同じだったらしい。
僕はそっと胸を触った。どろっとした液体が指を伝った。僕はその液体についての言語化がいまだ上手くいかない。……その空洞は昔からあった。生まれてからの持病なのか、父が死んだと聞かされたときなのか、自分があぶれ者であると知った時に、生まれたのかもしれない穴だった。自分が普通ではないと知るたびに痛み、脈打った。でもその正体はまだ分かっていなかった。
胸の空虚な大穴には、何か湿った液体が常に付着している気がした。
この数十年生きてきて、あの不思議な青春が朧気になってしまうくらいの時間を生きて、僕はあの時よりかは立派に、なったはずだ。でも、まだ僕は彼女の事を文章にしようとすると手が止まってしまった。それは恐らく僕と言う人間が『人生』という二文字にルビを触れるようになっていないからだ。
「……よし」
だから僕はそれを、こう名付けることとした。
「これは、『悲しい人生』。」
唱えるように呟いた。
……思い出した。そうだ、僕は小説家だ。
僕の小説のモットーは『悲しみの救済』であった。
僕はおもむろにデスクの照明をつけた。
こんこん。こんにちは、あなたは○○さんですか。僕はいま元気ですよ。あなたは、どうでしょう。きっともういい歳だわ、終わり方も考えるときね。でもね、どうやら僕は、身勝手ながら、そして、情けないながら、まだまだ生きようとおもっているみたいです。
――枯渇を想うから生きているけど、飢えを覆す刺激は、今だない。
追記。いつかこの小説が、あなたの心の空洞を、埋めますように。