道中、すでに避難誘導を終えつつあったクゥン君を拾い上げ、最大戦速で領都フォートロンブルグへ向かった。
未だ地龍襲来の事実を知らず、平和を享受している領民たちを驚かせながらも、鉄神で領都の大通りを駆け抜け、辺境伯の屋敷に至る。
門をくぐったとき、私は目の前が真っ暗になるほどの絶望を感じた。
「急ぎなさい! そこ、もっと丁寧に運びなさい! もたもたするな、もっと早く!」
辺境伯が、中庭で奥さんたちに指示を飛ばしながら、家財道具をまとめていたからだ。
逃げる準備を、していたからだ。
……こいつ、正気か? と思った。
バルルワ温泉郷はもちろんのこと、フォートロンブルグの人々――自分が守るべき領民すら見捨てて、自分だけ逃げるつもりなのか? と。
前世時代から分かっていたけれど、コイツには人の心がない。
コイツに助力を乞うのは、時間の無駄以外の何ものでもないかも知れない。
「旦那様!」
だが、カナリア君に任せてここまで来たからには、何が何でも成果をつかみとらなければ。
「旦那様、お願いがございます!」
私は鉄神から飛び降りて、辺境伯の元に駆け寄る。
私の顔を見るなり、辺境伯は露骨に嫌そうな顔をした。
「見てのとおり、私は忙しいのですが」
「お願いです、領軍と奥様たちのお力をお貸しください! 現在、地龍はカナリア殿下がただお一人で食い止めていらっしゃいます。それを突破されてしまえば、地龍はきっとここにまでやって来ますでしょう。閣下の大切な領都フォートロンブルグを守るためにも、何卒ご助力を!」
「忙しいと言っているでしょう」
「か、カナリア殿下を助けることができれば、きっと国王陛下から恩賞が――」
「私は、忙しい」
「あ……」
取り付く島もない。
どうしよう……どうしようどうしようどうしよう。
ぐるぐる、ぐるぐる。
私の思考が空回りする。
ここは諦めて、バルルワ温泉郷に戻る?
カナリア君にたった一人で戦わせてまで、時間を作って来たのに?
何の成果の得ることなく、とんぼ返りするのか?
帰って、どうする?
ほんのひと当たりしただけで、鉄神1号は半壊寸前のありさまだ。
無為無策のまま戻って、カナリアくんと仲良く心中でもするつもり?
どうしよう、どうすれば。
ぐるぐる、ぐるぐる。
私の思考が限界を迎えつつあった、そのとき。
「条件がある」辺境伯が、口を開いた。
「えっ!?」
私は思わず、ぱっと微笑んでしまった。
我知らず。
辺境伯が、愛沢部長が助け舟を出してくれたことが、泣きたくなるほど嬉しくて。
だが、
「脱げ」
その感動は、次の瞬間、打ち砕かれた。
「…………え?」
「脱ぎなさい、エクセルシア。幸い、ここにはベッドもある」
奥さんたちに運び出させた天蓋付きベッドが、中庭に鎮座している。
「私は、妻でもない女に助力する気はありません」
「あ……」
見れば、クゥン君も、他の奥さんたちも、凍りついたように私と辺境伯を見ていた。
ぐるぐる、ぐるぐる。
私の思考が限界を迎えている。
やりたいこと、守りたいモノ。
やるべきこと、守るべきモノ。
十代前半の若々しいエクセルシアの肉体と、前世の成熟した前世の私の思考が混ざっていく。
「分かり……ました」
震える声で、私は言った。
胸元のボタンに手をかける。
「……ど、どうか、旦那様のお慈悲を賜りたく」
だって、そうじゃない。
ここで私が拒めば、バルルワ温泉郷は滅ぶ。
カナリア君も、死ぬ。
そりゃ、嫌だよ。
嫌だけど……でも、私は大人だ。
たとえ感情を殺してでも、守るべきモノがある。あるのだ。
「女神様……」
ふと、呆然とした表情のクゥン君の顔が、視界に入った。
ごめんね、ごめん。
できれば、この体の初めてはキミにあげたかったけど。
辺境伯が、下着姿になった私をベッドの上に乱暴に放り投げる。
そうして、覆いかぶさってきた。
乱暴に口付けされそうになる――。
「エクセルシア!!」
クゥン君が、叫んだ。
呼んだ。私を。初めて、名前で!
次の瞬間、辺境伯が殴り飛ばされていた。
クゥン君の拳によって。
「うげっ」辺境伯が中庭に転がる。「き、貴様、領主に手を上げたな!? は、はは、ひゃはははは! これで獣人どもは終わりだ。バルルワ村は取り潰す。獣人は女子供老人もろとも全員徴兵し、地龍の前に並べて立たせてやる! すぐに暴力に訴えかけ、肉壁になるしか能のないお前たちは、ミンチ肉になるのがお似合いだ!」
「ふーっ、ふーっ、ぐるるるる」クゥン君が顔を真っ赤にさせて、怒り狂っている。「うがーっ」
クゥン君が再び辺境伯に殴りかかろうとした、その瞬間。
「【奴隷召喚】!」辺境伯が、左手の指輪を掲げた。「【クローネ】!」
辺りがぱっと輝いたかと思うと、何もない空間からクローネさんが現れた。
「えっ!? ここは!?」
バルルワ温泉郷で避難の手伝いをしていた様子のクローネさんが、戸惑う。
「何をしている、クローネ!」辺境伯がわめき散らす。「早く私を回復しなさい!」
「あ……」クローネさんが半裸の私を見て、それから辺境伯を見て、呆然としている。「あ、その、旦那様、わたくし今、魔力が枯渇していて」
「本当に使えない女だな、お前は。【フォートロン辺境伯にしてフォートロン家の家父長権たるコボル = フォン = フォートロンが所有物に命ず――隷属せよ】」
とたん、クローネさんの体がびくりと震え、
「分カリマシタ」意思を奪われた人形のような虚ろな表情で、魔法を唱えはじめた。「【小麦色の風・清き水をたたえし水筒・その名はラファエル――ヒール】。――うっ」
避難誘導の際に怪我をした人たちのために、魔力を使い切ってしまっていたのだろう……魔力不足時に無理やり魔法を使った代償として、クローネさんが鼻血を流しながらしゃがみこんだ。
「何をしている、ちっとも痛みが引いてないじゃないか! もっとだ、もっとしろ! 【隷属】!」
「……エクセルシア、行きましょう」私の肩に服を着せながら、クゥン君が耳打ちしてきた。「聞いたことがあります。あの指輪は、辺境伯が処女を奪った相手を一方的に従えることができる黒魔法なのだと」
「なっ――」言葉を失う。
見れば、周囲にはたくさんの奥さんたちがいて、クローネさんと同様に虚ろな顔つきで働かされている。
「そんな、ヴァルキリエさんまで……!」
これは、もう、ダメだ。
ここで辺境伯に処女を捧げたとしても、騙されて【隷属】される未来しか見えない。
「……ごめん、クローネさん。巻き込んでしまった」
私は手早くドレスを着込み、鉄神に乗り込む。
「女神様。オレ、気付いたことがあるんです」
「名前」
「え?」
「名前で呼んで。さっきは呼んでくれたでしょ?」
「そ、そう、ですね。え、エクセルシア」
「うん。ありがとう、クゥン君」
「それで、気付いたことなんですが。もしかすると、地龍をワナにはめることができるかもしれません。バルルワ温泉郷の手前で、地龍を食い止めることができるかも」
◇ ◆ ◇ ◆
【Side クローネ】
うつむいて、うつむいて、うつむき続けて生きてきた。
貧乏騎士爵家の三女として生まれ、華やかな貴族社会とは縁遠く、領民たちと一緒に一生畑仕事をしながら人生を終えるのだろうと思っていた幼少期。
回復魔法の才能に開花し、フォートロン辺境伯から側室として声を掛けられたときには、ついに我が世の春が訪れたのかと喜んだものだった。
…………勘違いもはなはだしかったわけだが。
「どうした、何をしている! 早く私を回復しろ、クローネ! 【隷属】!」
がんがん、
がんがん、
がんがん、
がんがん。
ハンマーで殴られているみたいに、頭が痛む。
辺境伯が使う黒魔法【隷属】の副作用だ。
魔力切れによる吐き気と倦怠感も合わさって、今にも死んでしまいそうなほど気分が悪い。
これ以上、無理に魔法を使わされたら、本当に死にかねない。
だが、
「【小麦色の風】――」
私の意思とは無関係に、私の口が詠唱を始める。
あいまいな視界の端に、鉄神に乗り込もうとしているエクセルシアさんの姿が見えた。
エクセルシアさん。
私の可愛い後輩。
凶暴で残忍だとウワサされていた獣人たちをあっという間に懐柔し、女神と崇め奉られる才女。
バルルワ温泉郷をあっという間に大きくし、莫大な利益を上げつつある女傑。
常に最前線で戦い、ゴブリンの軍勢、Bランクモンスター、Aランクモンスターはもちろん、あの地龍シャイターンにすら挑む英雄。
なのにその本質は、心優しくて、ちょっぴりポンコツなところがある可愛い少女。
彼女のようになりたい……そう思って温泉郷に通い詰め、彼女のそばで彼女を観察し、勇気を出して魔の森での狩りに参加したりもした。
……けど、私は依然として、弱いままだ。
「【清き水をたたえし水筒】――げぇっ、げほっげほっ」口の中に、血の味。
「……魔力切れか。本当に使えん。もういい。お前は私の足でも舐めていろ」
「ハイ、旦那サマ」
エクセルシアさんは虐げられている妻たちや獣人たちを見かねて、待遇改善のために必死に頑張っている。
辺境伯に目を付けられ、自身の友愛ポイントを下げられながらも、限られた条件の中で上手く立ち回り、出来ることを精一杯がんばっている。
ひるがえって、私はどうだ?
保身に走り、友愛ポイントを下げられたくない一心で、辺境伯に罵倒されても殴られても、うつむいて、うつむいて、うつむいてばかり。
なんだ、これは。
これが、私の人生か?
こんな薄汚い靴を舐めるために、私は生きているのか?
辺境伯が死ぬまで道具として使い潰され、いざ辺境伯が死んで解放されたとき、私はもうオバサンかお婆さんだ。
こんなやつのために、私の人生は消費されるのか?
必死に、【隷属】に抗う。
辺境伯の靴を舐めるその舌が、止まった。
「どうした、何をしている。止めて良いと、いつ私が命じた?」
……怖い。
とてつもない恐怖が私を縛り、私の舌を再び動かそうとする。
「こ、こんな……このくらい」
「なんだ、喋って良いと、私がいつ命令した?」
「このくらい、怖くなんかない……! ビッグボアを間近で見たことはある? ブラックベアが大木をへし折る音を聴いたことは? オーガ・ジェネラルの凍りつくような殺気に当てられたことは? ゴブリン・メイジの炎魔法で体を消し炭に変えられかけたことは? 地龍シャイターンの、あの、死にたくなるほど恐ろしいシャウトを浴びせられたことは!?」
「な、なんだ、何を言っている?」
「お前、なんかっ」
私は顔を上げ、力の限り叫んだ。
「お前なんか、怖くないッ!!」
次の瞬間、私の頭をずっと覆っていたどす黒い霧が、ぱぁっと晴れた。
「なっ……なぁっ!? 【隷属】を破っただと!?」
私は辺境伯の左手指から隷属の指輪を剥ぎ取り、遠くへ投げ飛ばす。
とたん、奥さんたちが自由意志を取り戻しはじめた。
「あーっはっはっはっ!」自由を取り戻し、荷物を投げ捨てたヴァルキリエさんが、楽しそうに笑った。「まさか、最も気が弱いと思っていたキミが、自力で【隷属】を打ち破るとはね! さぁ、行こう。地龍退治の始まりだ!」
◇ ◆ ◇ ◆
「カナリア君!」
『お姉ちゃん!?』
再び、最大戦速で魔の森まで至る。
地龍シャイターンは森を出る寸前のところまで迫っていたが、幸い、本当に幸いなこととして、カナリア君と鉄神2号は辛うじて生きていた。
「ごめん、本当にごめん! 援軍は来ない! けど、作戦があるの。そのための準備があるから、もうしばらくの間、時間を稼いでくれる!?」
『分かった!』
なぜ、今の今まで沈黙を保ち続けてきた地龍シャイターンが、急に姿を現したのか。
何か、変化があったからではないだろうか。
地龍シャイターンは闇雲に動き回っているのではなく、明確な目的地があって、そこに向かって突き進んでいるのではないだろうか。
クゥン君が聞かせてくれた、仮説。
その仮説を聴いたとき、私は腑に落ちた。
いろいろな疑問に、辻褄が合ったからだ。
その仮説というのは――