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第18話 エクリオの新王妃

 ――アネモス城、一階の廊下。


 イリオスは、謁見の間に向かって廊下を歩いていた。


「……俺はなぜ、あのような事を」


 言って、薄い唇にそっと触れた。無意識に浄化を求めたのか、自然とミレイに口づけていた。


 イリオスらしくない突発的な行為だったが、それがまさか、あのような騒動になってしまうとは夢にも思わなかった。


「……ミレイ殿は大事ないだろうか」


 口づけた後のミレイは、まるきり別人だった。


 パラディンが言っていたように、心身に負担がかかったせいでああなってしまったのならば、その責任は当然自分にある。


(……容体が落ち着いた頃に、見舞いにでも行くか)


 そう考えていると、廊下の向かいから歩いてくる人物が見えた。


 イリオスはすぐさま端に避け、臣下の礼をとった。


 滑るように歩いていた人物が、頭を下げたイリオスの前で歩みを止めた。


「朱雀の伴侶、王妃殿下にご挨拶申し上げます」


 言って深く頭を下げたイリオスに、


「面を上げなさい」


 王妃は鈴を転がしたような可憐かれんな声で命じた。


「はっ、ありがたく」


 そう言って、立ち上がったイリオスの前に、エクリオの新王妃、グレイス・ラ・エクリオが優雅にたたずんでいた。


 グレイスが静かに右腕を上げると、後ろに控えていた侍女とメイドが後方へ下がっていった。そうして会話の内容が聞き取れないであろう位置まで後退し、目を伏せ影のように整然と動きを止めた。


「……玄関ホールで騒ぎがあったとか」


 扇を開いて口元を隠したグレイスに、


「はい。エフィーリア様が私の魂のけがれを浄化してくださった後、意識を失っておしまいになられたのです」


 そう言ったイリオスの耳に、扇の柄がきしむ音が届いたが、気付かなかった振りをしてグレイスの言葉を待った。


 しかしグレイスは何も言わず、扇で口元を隠したまま、物言いたげな視線を向けてくるだけだった。


 小さく息を吐いたイリオスは、御前を離れる許可を得ようと口を開いた。すると「なぜ」と、ささやくように問いかけられた。


 イリオスは、続きを促すようにグレイスを見た。グレイスは、震える手で扇を閉じ、すがるような目で見てくる。


「なぜ、そのようなことに……?」


 分かりきっている事をわざわざ質問され、あきれを含んだため息がこぼれた。


「……王妃殿下はおかしなことを仰る。エフィーリア様が私の穢れを払って下さったということは、すなわち私に触れたということ。それでもお聞きになりたいと?」


「――はい。あなたの口から真実を聞きたいのです。……イリオス」


 泣くのを耐えるような声で名を呼ばれ、胸の奥が軋む音を聞いた。


 イリオスは、まっすぐグレイスを見て、


「口づけを」


「え?」


「口づけをいたしました。王妃殿下」


 胸の痛みを堪え、控えている使用人たちに不信感を与えないよう、淡々と答える。


 しかしグレイスは酷く動揺した様子で、手に持っていた扇を床に落とし、抱きつくようにイリオスの両腕をつかんだ。


「口づけをした? イリオスが、わたくし以外の女に……?」


「っ、王妃殿下……!」


 イリオスが焦った声を上げると、グレイスは「皆、下がりなさい」と使用人たちを下がらせた。そしてイリオスの手を引き、手近な空き部屋へ入ると鍵を閉めた。


 イリオスは、閉じられた扉に背を預けて、自分の腕の中に飛び込んできた華奢きゃしゃ肢体したいを抱きしめた。


「……すまない、グレイス。俺が悪かった。お前の心の準備も出来ていないうちに、このような騒動を起こしてしまって……」


「……ぅ、……うぅ……っ」


 何も言わず、静かに嗚咽を漏らす少女の形の良い頭を、優しくなでてやる。するとグレイスは、涙にぬれた美しいかんばせを上げて、縋るような目を向けてきた。


「イリオス……あなたからしたんじゃないのでしょう? 浅ましいエフィーリアが、あなたの唇を奪ったのでしょう?」


「……それは、」


 罪悪感に目をそらすと、胸元に衝撃が襲った。――グレイスが叩いたのだ。


 鍛え上げられたイリオスの身体を、ドン、ドン、と何度も叩きながら、グレイスは鮮やかなオリーブグリーンの瞳から涙をあふれさせた。


「ひどい、ひどいわ! なぜ、あなたから口づけたの。今朝、わたくしに愛していると告げた唇で!」


「グレイス……」


 ひどい、裏切り者、と腕を振り上げ続けるグレイスの細腕をつかみ、身を屈めてぐしゃぐしゃになったグレイスの顔を覗き込んだ。


「グレイス。俺の意思ではないと言ったら……信じてくれるか?」


 そう言うと、イリオスの拘束から逃れようと暴れていた動きが止まった。


 グレイスは、呆然ぼうぜんとした顔でイリオスを見上げた。流れる涙はそのままに、戦慄わななく口を開いた。


「……まさか、ゼスフォティーウの強制力が働いたというの……?」


 イリオスはうなずき、「おそらく」と答えた。それに対してグレイスは、


「そんな……。ただ側に居ただけでエフィーリアの浄化を求めてしまったなんて……」


「俺も驚いた。今代のエフィーリアは、ヴァートゥルナ神の再来と言っても過言でない、と聞き及んではいたが」


「では本当に、エフィーリアに心を奪われた訳ではないの?」


 猶も言い立てるグレイスの姿に苦笑したイリオスは、


「仮にも一国の王太子が、出会ったばかりの小娘を手籠めにすると思うか? それも城に帰還してすぐ、玄関ホールでだぞ」


 言って一笑してみせると、グレイスはようやく得心がいった様子で「それもそうね」とうなずいた。


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