――アネモス城、一階の廊下。
イリオスは、謁見の間に向かって廊下を歩いていた。
「……俺はなぜ、あのような事を」
言って、薄い唇にそっと触れた。無意識に浄化を求めたのか、自然とミレイに口づけていた。
イリオスらしくない突発的な行為だったが、それがまさか、あのような騒動になってしまうとは夢にも思わなかった。
「……ミレイ殿は大事ないだろうか」
口づけた後のミレイは、まるきり別人だった。
パラディンが言っていたように、心身に負担がかかったせいでああなってしまったのならば、その責任は当然自分にある。
(……容体が落ち着いた頃に、見舞いにでも行くか)
そう考えていると、廊下の向かいから歩いてくる人物が見えた。
イリオスはすぐさま端に避け、臣下の礼をとった。
滑るように歩いていた人物が、頭を下げたイリオスの前で歩みを止めた。
「朱雀の伴侶、王妃殿下にご挨拶申し上げます」
言って深く頭を下げたイリオスに、
「面を上げなさい」
王妃は鈴を転がしたような
「はっ、ありがたく」
そう言って、立ち上がったイリオスの前に、エクリオの新王妃、グレイス・ラ・エクリオが優雅にたたずんでいた。
グレイスが静かに右腕を上げると、後ろに控えていた侍女とメイドが後方へ下がっていった。そうして会話の内容が聞き取れないであろう位置まで後退し、目を伏せ影のように整然と動きを止めた。
「……玄関ホールで騒ぎがあったとか」
扇を開いて口元を隠したグレイスに、
「はい。エフィーリア様が私の魂の
そう言ったイリオスの耳に、扇の柄が
しかしグレイスは何も言わず、扇で口元を隠したまま、物言いたげな視線を向けてくるだけだった。
小さく息を吐いたイリオスは、御前を離れる許可を得ようと口を開いた。すると「なぜ」と、ささやくように問いかけられた。
イリオスは、続きを促すようにグレイスを見た。グレイスは、震える手で扇を閉じ、
「なぜ、そのようなことに……?」
分かりきっている事をわざわざ質問され、
「……王妃殿下はおかしなことを仰る。エフィーリア様が私の穢れを払って下さったということは、すなわち私に触れたということ。それでもお聞きになりたいと?」
「――はい。あなたの口から真実を聞きたいのです。……イリオス」
泣くのを耐えるような声で名を呼ばれ、胸の奥が軋む音を聞いた。
イリオスは、まっすぐグレイスを見て、
「口づけを」
「え?」
「口づけをいたしました。王妃殿下」
胸の痛みを堪え、控えている使用人たちに不信感を与えないよう、淡々と答える。
しかしグレイスは酷く動揺した様子で、手に持っていた扇を床に落とし、抱きつくようにイリオスの両腕をつかんだ。
「口づけをした? イリオスが、わたくし以外の女に……?」
「っ、王妃殿下……!」
イリオスが焦った声を上げると、グレイスは「皆、下がりなさい」と使用人たちを下がらせた。そしてイリオスの手を引き、手近な空き部屋へ入ると鍵を閉めた。
イリオスは、閉じられた扉に背を預けて、自分の腕の中に飛び込んできた
「……すまない、グレイス。俺が悪かった。お前の心の準備も出来ていないうちに、このような騒動を起こしてしまって……」
「……ぅ、……うぅ……っ」
何も言わず、静かに嗚咽を漏らす少女の形の良い頭を、優しくなでてやる。するとグレイスは、涙にぬれた美しい
「イリオス……あなたからしたんじゃないのでしょう? 浅ましいエフィーリアが、あなたの唇を奪ったのでしょう?」
「……それは、」
罪悪感に目をそらすと、胸元に衝撃が襲った。――グレイスが叩いたのだ。
鍛え上げられたイリオスの身体を、ドン、ドン、と何度も叩きながら、グレイスは鮮やかなオリーブグリーンの瞳から涙を
「ひどい、ひどいわ! なぜ、あなたから口づけたの。今朝、わたくしに愛していると告げた唇で!」
「グレイス……」
ひどい、裏切り者、と腕を振り上げ続けるグレイスの細腕をつかみ、身を屈めてぐしゃぐしゃになったグレイスの顔を覗き込んだ。
「グレイス。俺の意思ではないと言ったら……信じてくれるか?」
そう言うと、イリオスの拘束から逃れようと暴れていた動きが止まった。
グレイスは、
「……まさか、ゼスフォティーウの強制力が働いたというの……?」
イリオスはうなずき、「おそらく」と答えた。それに対してグレイスは、
「そんな……。ただ側に居ただけでエフィーリアの浄化を求めてしまったなんて……」
「俺も驚いた。今代のエフィーリアは、ヴァートゥルナ神の再来と言っても過言でない、と聞き及んではいたが」
「では本当に、エフィーリアに心を奪われた訳ではないの?」
猶も言い立てるグレイスの姿に苦笑したイリオスは、
「仮にも一国の王太子が、出会ったばかりの小娘を手籠めにすると思うか? それも城に帰還してすぐ、玄関ホールでだぞ」
言って一笑してみせると、グレイスはようやく得心がいった様子で「それもそうね」とうなずいた。