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第13話 エクリオの王太子

 美澪は全身に、水中に落ちた時のような圧力と浮遊感を感じ、かつてウォーターバルーンで遊んだ時のことを思い出した。水泡の中で、水の柔らかい感触とひんやりとした冷気に包みこまれ、例えようのない安心感に浸りかけていた。その瞬間――


 閉じた目蓋の裏が赤く明滅し、ぱちっと目蓋を開けると、瑠璃色の瞳は強大な光の渦を映した。その光の眩しさに、美澪が瞬きを二、三度繰り返したうちに――


(……え?)


 美澪を含む輿入れに同行した者たちは、無事にエクリオへと到着していた。


(本当に一瞬で着いちゃった……)


 草地に立ち尽くす美澪の身体を、熱気を帯びた一陣の風が吹き抜ける。


「きゃっ」


 美しく結い上げられた紺青の髪を覆っていたベールが、強風にあおられ空中に舞い上がった。


「あっ……!」


 美澪はすかさず右手を伸ばしたが、ベールはその指先をかすめ、軽やかに宙を舞った。繊細なレースに縁取られたベールは、踊るようにひらりひらりと空を泳いでいく。


 美澪は、西日を受けて鴇羽ときは色に染まったベールを夢見心地で眺めた。


 そしてベールは、何かに吸い寄せられるかのように目的地を定め、ひらひらと落下していく。


 美澪の瑠璃色の瞳がその軌跡を追った先で、ベールは、がっしりとした褐色の手の中に収まった。


「……これはあなたの物ですか?」


 低音でしっとりとした男性の声に、美澪の背中が泡立った。


「あ……はい。そう、です」


 美澪は、声の主へと視線を向けた。そうしてやっと、透明感のある黄褐色の瞳と視線が交わった。すると、男性の琥珀こはく彷彿ほうふつとさせる瞳が、柔らかく細められた。


「お久しぶりです。またお会いしましたね」


「あなたは……」


「あのときは名乗りもせずに去ってしまってすみませんでした」 


「いいえ。あた……私こそ、変なことを口走ってしまって……」


 そう言って二人は、永遠にも思える時間、静かに見つめ合った。


 そんな二人の様子を、メアリーは嬉しそうに、ヴァルは無感情に見ていた。そして、


「そいつとは幸せになれないよ。美澪」


 そう言って、口元に笑みを浮かべると、悠々と右足を踏み出した。


「エフィーリア様のお出迎え、お疲れさまでございます。……エクリオ王太子殿下」


「っ、」


「あ、ああ……」


 ヴァルの言葉をきっかけに、二人の時は動き出した。


 美澪はとっさに琥珀色の瞳から視線をそらし、ほほ笑みを浮かべると、ヴァルの隣へ並び立った。


 心臓がドクドクと早鐘を打つ。


 美澪はその拍動を抑え込むように両手で胸元を押さえたのち、ドレスの裾をつまみ上げ、身体に叩き込まれたお辞儀カーテシーをした。


「エクリオの若き朱鳥しゅちょうにご挨拶申し上げます。私はヒュドゥーテルより参りました、ヴァートゥルナ様のエフィーリアでございます。名を、ミレイ・ディ・エフィーリアと申します。エクリオ王太子殿下直々のお出迎え、誠に恐悦至極きょうえつしごくにございます」


 スラスラとよどみなく言い終えると、美澪は優雅に姿勢を正した。


(――よし。いちばんの難関は突破したわ……!)


 美澪がホッと胸をなでおろす姿に、メアリーは眩しそうに目を細める。そうして美澪も、得意げな眼差まなざしをメアリーに向けた。


 美澪とメアリーの様子を微笑ましげに見ていた王太子は、視線をヴァルに移し、柔和な笑みを浮かべた。


「そちらの御仁ごじんはどなたかな? 服装を見るに聖騎士パラディンのようだが……」


 ヴァルは僅かに口を歪めたのち、パラディンとしての仮面を被った。


「これはこれは……。ご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。実は一度、ブロネロー神殿でお会いしているのですが」


「そうだったか? 私は覚えていないが」


 にべもなく返されて、ヴァルは片方の口角をピクリとさせた。


「……私は大神殿より派遣された、パラディン伯、ヴァル・アーヴィングと申します。枢機卿猊下すうききょうげいかよりエフィーリア様の護衛任務を命じられ、こうしてご同行する栄誉にあずかっております」


 言って、胸に手を当てこうべを垂れたヴァルを一瞥した王太子は「そうか、ご苦労」とだけ口にすると、下がれと右手を振った。


 美澪の耳に、ギリッと歯を食いしばる音が聞こえた。大人しく後方に下がったヴァルに異変を感じて、ヴァルの姿を自然と瞳で追った。


 しかし、いつの間にか近くに来ていた王太子の身体に視界を遮られてしまう。それに驚いた美澪が顔を上げると、柔和な眼差しと瞳が合った。


 ――琥珀の瞳に自分の姿が映っている。


 そう理解すると、美澪の身体が歓喜に震えた。


(あたし、さっきからどうしちゃったの?)


 美澪が動揺を隠せずにいると、波のように空気が揺れたのち、頭の上にベールがふわりと被さった。ベールを縁取る繊細なレースが、白磁の肌をさらりとなでる。


 一拍の間をおいて、王太子がベールを被せたのだと認識した美澪は、確認するようにベールをひとなでし、王太子を見上げた。


 改めて正面から向かい合った王太子は、褐色の肌が魅力的で、精悍せいかんな顔立ちの美丈夫だった。


(この人が、あたしの夫になる人……)


 美澪は、魅惑的な琥珀色の瞳をじっと見つめた。


 すると、凛々しい顔に穏やかな笑みを浮かべた王太子は、美澪に柔和な眼差しを向けて、完璧なボウ・アンド・スクレーブを披露した。


「エフィーリア殿、ご機嫌麗しゅう。私はエクリオの王太子、イリオス・フォン・エクリオと申します。……あなたの夫となる者です。どうぞお見知りおきを」


 そう言ったイリオスは、美澪の手を恭しく持ち上げると、手の甲にそっとキスをしてほほ笑んだ。


「……っ、」


 イリオスに口づけられた場所から、じわりと熱が広がっていく。


 美澪の顔は熟れたトマトのように、耳の付け根まで真っ赤に染まった。

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